「旦那様、しっかりなさってください!」
突如吐血したダニエルの口元をハンカチで拭いながら、シェリーが彼の体を支える。
「私は、おっ、お医者様を呼んでまいりますので!」
ロイドはつんのめるように、駆け出しながら部屋を出た。屋敷に常駐する医師へ、助けを求めに走ったのだ。
シェリーの細身の体にもたれながら、ダニエルは遠い目で
ヘザーとダニエルが伯爵夫人の部屋に入るより少し前、彼は一つの異状に気付いていた。
ヘザーの部屋に据え置いていた、使役霊が一体消滅していたのだ。
あくまで監視役兼脅かし役であるため、決して強い霊体ではなかった。だからその動向にも、さほど注意を払ってはいなかったのだ。
そもそもダニエルの手下は全て、一般人がどうにかできる存在ではない。たとえ下っ端であろうとも、悪魔の力を分け与えられた、有害な霊体なのだ。
そんな使役霊の消滅を訝しんだものの、彼は能天気にこう結論付けた。
「あれの魂は、ずいぶん
と、底抜けに楽観視したのだ。
なにせ自分の存在を嗅ぎつけた聖職者にすら、数百年間出会っていないのだ。
だが調子こきまくったしわ寄せが、ようやく今訪れたのだ。
伯爵夫人の霊は、ダニエルお気に入りの一体だった。つまりは手下の中でも上位に位置する。
それが、たった一人の小娘によって爆散したのだ。
悪魔の力を用い、遠隔で屋敷の様子を監視しているダニエルは、その光景に衝撃を受けた。
衝撃と、「やっぱりやばい女を迎え入れてしまった」という事実が途方もないストレスに変換され、思い切り吐血しちゃったわけである。
(なんなのだあの小娘は……え、ほんとに人間なの? ひょっとしてアモン様の親戚なの? 絶対何か、人間界にいちゃいけない
思わず頭を抱え、ベッドの上でのたうち回る。唸るような声も、ついついこぼれる。
その脳裏に浮かぶのは、『地獄の辞典』という奇書に描かれた、悪魔の侯爵アモンの似顔絵。クシャミする寸前の姿が描かれているのだが、目から光線もちょっと出ちゃっていたりする。
ご本人曰く、尿漏れと同じ原理らしい。
「わざわざあの場面をスケッチするなんてさ、人間ってほんと、我々以上に冷酷で薄情だよね。特に悪魔信奉者ども、性根が腐ってる。聖職者の方がずっといい」
とは、未だに職場や身内の集まりで似顔絵をネタにされている、侯爵様ご自身の弁である。
そんな世知辛い、悪魔の内情はともかくとして。
「旦那様、動いてはいけません! どうか、安静になさってください!」
細面を不安げに歪めて叫ぶ、シェリーの悲壮感たっぷりの懇願も、今のダニエルには届かない。
(そもそも未婚の娘が、男と連れ立って密室に入るかねッ! そこは愚弟一人だけを行かせるのが定石であろうが! 非常識か!)
そう。二人が寝室に向かったのを察知した時、ダニエルは彼らを分断できると考えていたのだ。
憑依先の予備として手元に置いていた愚弟は、幼少期から忌々しいまでに勘がよく、おまけに目もいいようだった。
そのため四六時中警戒されてしまい、肉体を奪えず仕舞いであったが。
裏を返せば、奴の怪異への恐怖心は根強いはずだ。
だからこそ、お気に入り――自身を人間界へ呼び寄せた伯爵の妻――に襲わせれば、いとも簡単に発狂あるいは
すっかり自身の
ダニエルの母は、恐ろしいほどに慈悲深く
伯爵夫人の霊は、そんな彼女をじわじわ追い詰め
だからこそ、邪魔もせずに寝室への侵入を許したのだ。
どういうわけか、クライヴとヘザーは意気投合したようだったので、彼女の孤独感を強めるためにも、拠り所を先に潰せるのは好都合だった。
なんだったら、発狂したクライヴを次の憑依先にしてもいい、とすら考えていた。今より若くて健康でおまけに顔もいい肉体を駆使し、ヘザーを
(それなのに! 何故! 何故ああなるのだ!)
ヘザーは非常識にも愚弟と仲良く入室した上、散々部屋中を荒らし回った挙句、中の人の正体まで突き止めた。部屋まで出向いて、「お前は空き巣の常習犯か」と何度言いたかったことか。
しかも謎の光線も出して、ダニエルのお気に入り相手に圧勝・完勝と来やがった。
数百年間も人間界に居座っているせいか、ダニエルの中の悪魔はすっかり、人間の考え方・倫理観に馴染む――あるいは毒されまくっていた。
よってこの、約百年後の時代に生まれた人間 (しかも他宗教圏で育ったヤンキー)の、かなり軟化しきった倫理観に全く対応できずにいる。
彼の思考回路に、指の先すらも届かぬままで、理解の糸口が見いだせていないのだ。
(こうなれば……あの恥知らずな小娘の尊厳を、木っ端みじんにしてやる……悪魔の名に懸けて、必ずやあやつを破廉恥な目に遭わせてやろう!)
さすがの恥知らずでも、見知らぬ男どもに
再びゲボゲボと血を吐きつつ、骨ばった手を握りしめてそう誓うのであった。