伯爵夫人と思しき女性の霊が、ヘザーのドレスに掴まりながら迫ってくる。場数を踏んでいる彼女ですら、思わず
「うえぇっ」
たまらず右足を素早く振り上げて、女性の顎を蹴り飛ばす。のけぞった彼女が骨むき出しの手を離した隙に、ヘザーも飛び
そのヘザーを庇うように、クライヴが前へ躍り出た。
「おい、アンタ何して――」
「今の内に、君だけでも逃げろ」
「はぁっ?」
ヘザーが目をむく。
しかしクライヴは至って本気らしく、彼女に背を向けたまま、握りこぶしを作って臨戦態勢に入っていた。
――なのだが。
長年培われて来た、化け物への恐怖心は未だ健在のようである。腰から下の、特に膝付近が、大層リズミカルに震えまくっていた。
それでもへたり込まないのは、紳士あるいは年長者としての
紳士としては立派な心がけと言えるものの、この場においては残念ながら邪魔者あるいは、戦力外でしかない。
そのためヘザーは腰に手を当て、いたって冷ややかな目を
「いやアンタ、無理すんなよ」
「む、むむむっ、無理など、俺は」
「だって下半身、ヤバいことになってんぞ。生まれたてのシカじゃん。バンビじゃん」
細い指が、前後左右にブレまくる両足を指さす。
裏庭では子ヤギになっていたし、彼はよくよく
「だからさ、ここはオレに任せとけって」
クライヴの背後にぴたりとすり寄り、ヘザーはいっそ優しく
いわゆる膝カックンというやつである。
「ぅおっ」
突然の膝への一打に、クライヴの引き結ばれた口から間抜けな声が漏れた。
しかしリズミカル&シェイキングな膝から崩れ落ちる姿の方が滑稽だったので、ある意味問題なしだ。
なんとも無様に倒れ込み、そのまま四つん這いになったクライヴの右隣を通る時、ヘザーは彼ににんまり笑いかけた。
不敵でふてぶてしいが、凛々しさとそして清らかさもある笑みに、クライヴの
ぼんやり己に見惚れる彼を隠すようにして立ち、ヘザーは再度伯爵夫人の霊と対峙する。
「よぉ、姉ちゃん。オレの蹴りで消えなかったことは、褒めてやるよ」
あえて尊大に言って、霊を煽る。
死んでいると理性も機能しなくなるのか、夫人は顎が外れんばかりに口を開き、一つ吠えた。
そのまま両手を突き出して、ヘザーに突進する。
ヘザーは軽く体を捻って突撃をかわしつつ、横っ面を思い切りぶん殴った。
霊体になっても体幹が強化されるわけではないらしく、夫人は打撃の勢いを全く殺せずにそのまま吹き飛び、床を二度・三度と転がった。
しかし、一向に消滅する気配はない。
すぐに起き上がり、こちらを威嚇するようにねめつけてくる。
おまけに相変わらず血まみれの、たいへん食欲を減退させてくれるビジュアルのままだ。
「チッ、やっぱザコとは違うか」
先制キックを与えた時から薄々感じていたが、どうやら自室に現れた霊や人面ヤギよりも強いらしい。
こちらはバンビ坊ちゃんを抱えているというのに、荷が重い相手である。
おまけに殴られて、夫人はますます怒り狂ったらしく、天井を仰いで
「ひっ……」
対するクライヴの悲鳴の、なんともか細いことよ。
夫人の
「おいおい、何しやがんだよ」
げんなりとぼやくヘザーの期待に応えてか、チェストやベッドたちが浮かび上がり、そのまま部屋中をぐるぐる旋回した。ポルターガイストだ。
「あぶねぇ!」
こちら目がけて飛んできたチェストを、クライヴの首根っこを引っ掴みつつ、間一髪で避ける。
このままでは、あのバカでかいクローゼットまたはベッドで圧死確実である。
ヘザーは本棚の圧力にも耐えられる頑丈ボディだが、超高速で回転しているキングサイズのベッド(※天蓋付き)に耐えられるかは、未知数だ。
更に言えば、劇中で女性のナイフがやすやすと刺さってしまう、紙耐久力――いや、一般的な耐久力のクライヴならば、即死確実である。
まずい、これは非常にまずい。
辛うじて戦意を維持しつつも、ヘザーの背中に
その時自分の左目を狙って、手裏剣のような何かが回転しながら飛んできた。無意識にそれを捕まえてから、飛んできたものの正体に気付いた。
手裏剣と勘違いした何かは、先ほどまで壁に飾られていた十字架だった。もちろん十字架の表面には、半裸のおじさんことイエス・キリストの人形も付いている。
手の中の十字架を目にした瞬間、脳裏に閃いたのは霊媒探偵ライダーの必殺技であり。
「クソったれ!」
叫びながら、破れかぶれにヘザーはそれをかざした。
あんなファンタジックな技を、まさか自分が出せるとは思えない。
だが一応、ガワの方はシスターだったのだから、せめて相手を怯ませるぐらいはできないか、と考えてのことだったが。
十字架全体が、白く光り出した。
「えっ?」
「は……?」
ヘザーとクライヴが、とぼけた疑問符を吐いている内にも光はみるみる強まり、金色のビームが発射されたのだった。