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20:全ての始まりと、白タイツ

 表紙を開くと、黄ばんでゴワゴワとした紙に、流麗りゅうれいな文字が黒インクでつづられていた。

 紙の質感から察する限り、ずいぶんと年代物のようだ。


「母上の文字ではないな。それに使われている単語も文体も、随分と古めかしい」

 一見すると、ただの黒い模様にしか見えない文字を読み進め、クライヴが目を細める。


 ヘザーは学が皆無に等しい。

 また高田も英語に関しては、”b”と”d”の区別が付かなくて挫折した男だ。おまけに日本語の古文も、大の苦手であった。勝手に古文の授業=お昼寝タイムと認定していたぐらいだ。

 なので素直に、彼に解読を任せようと決める。持つべきものは頭脳労働担当者、である。


「なぁ、なんて書いてんだ?」

「俺たちの予想通り、日記だな。どうやら何代も前の、フリーリング伯爵夫人が書いたもののようだ」

 骨董品でもある日記帳を両手でしっかり持ち、クライヴは丁寧にページをめくっていく。緑の瞳は素早く左右に動いているので、流し読みしているらしい。


 と、その手と視線が日記帳の中ほどで止まった。クライヴの不幸度百パーセント顔が、更に陰気さを増す。

「どうしたんだよ、腹でも痛いのか? 突然の尿意か? トイレ行く?」

「行かない。どうやらこの女性は、子どもを亡くされたらしい。生後間もなくの出来事だったようだ」

「うわー……そりゃ辛ぇな……」

 これにはヘザーも眉を寄せ、暗い表情になった。


 しかし二人の沈痛な顔はすぐに、ギョッと強張る。

 開かれた日記帳から黒いインクのような煙がにじみ出たかと思ったら、たちまち濁流となって床を覆いつくしたのだ。

「お、おい、クライヴさん! なんだよこれ!」

「俺にも分からん! 分かってたまるか!」


 二人が悲鳴一歩手前の声で叫び合う。咄嗟にドアの方を見ると――お約束のように、バタンと勢いよく閉じられた。

「ちくしょう! なんでこんな用意周到なんだよ!」

 悪魔の罠にはまった事実を思い知らされ、ヘザーは黒いサラサラヘアをかき回して怒鳴る。


 しかしその間にも、煙は床から壁、そして天井へと領土を広げていく。

 瞬く間に部屋中が、黒い煙で塗りつぶされた。新月の夜のような真っ暗な空間に、二人は閉じ込められる。

 あまりの心細さに思わず、二人はぴったりくっついた。なんだったら手も握っている。 お互いの顔も見えない暗闇の中なので、あまり気恥ずかしさはなかった。


「俺たちは……これからどうなるんだ?」

「さぁ、分かんね。オレにもさっぱり」

 なにせこんな展開、映画本編でもなかった。


 本編では、ヘザーは偶然ドアの開いていたこの部屋をのぞきこみ、そして真っ黒な影に腕を掴まれ引きずり込まれる。

 そのままドアも閉じて出られなくなるのだが、泣いて騒いでドアを叩き続けたおかげで、これまた偶然通りがかったシェリーに助けてもらえるのだ。


 もちろん、それだけで終わるわけもなく。

 普段施錠されているはずの部屋に勝手に入り込んだことで、ヘザーは使用人たちから「何か盗もうとしていたのではないか」と疑われる羽目になる。


 そして自分の世話をしてくれるティナとも更に距離が生まれ、どんどん屋敷内で孤立することになり――つくづく、鬱要素満載のホラー映画だ。脚本家は美少女あるいは、この世界が嫌いなのだろうか。


 ともあれ、劇中でのヘザーは黒い影に引きずり込まれたものの、煙に襲われたりはしていなかった。だから全く、対処法が分からない。気体に打撃は有効なのだろうか。

 やっぱり酒 (と火気)を常備すべきだった、とヘザーが悔いていると、黒一色だった周囲に変化が起きた。


 煙がぼんやりと光り出したのだ。光ると同時に煙は様々な色を帯び始め、渦を巻いて何かを形作っていく。

 呆気に取られて二人が見つめる中、煙は絨毯や壁紙、あるいは家具やカーテンへと変わっていく。


 先ほどまでとは違う、淡い色調で統一された愛らしい部屋が出来上がった。家具やカーテンには、草花の意匠がふんだんに取り入れられている。可愛いが、どこか古めかしさも感じる。

 扉や窓の位置は同じなので、おそらくまだ夫人部屋にいるとは思うのだが。


 煙は数百年前と思われる煌びやかな内装を作り上げると、次に二つの塊も生み出した。

 どちらも、人の形をしている。


 ややあって一つは、ゴテゴテしたドレスの女性になる。彼女の隣には、小さな半円形のベッドがあった。ゆりかごだ。

 空のゆりかごの縁に掴まって、彼女は力なく泣いている。なんとも物悲しい姿だ。


(……にしても、スカートでっか! 風船かよ!)

 そんなことを考えている場合ではないのだが、満員電車に乗ったら一発退場もののドレスに、思わず目が釘付けとなる。 もう片方の塊も、威厳たっぷりな男性の姿になって、泣きじゃくる彼女を抱きしめた。


 男性は豪華な刺しゅうが施されたコートに、カボチャパンツとタイツをセットアップにしている。しかもパンツとタイツは、眩しいくらいに純白だ。

 現代人の感覚的には、とんだファッションモンスターである。


(何目指したら、その服に行き着くんだよ!)

 ヘザーは脳内でのセルフツッコミで、更に笑いがこみ上げた。

 己の尻をつねって笑いを噛み殺し、ファッションモンスターの下半身に視線が落ちそうになるのも、必死になって耐えた。妙に脚線が、なまめかしいのだ。


 一方のクライヴは、至極真面目な顔で、煙が生み出す幻影を注視。

 状況からして、女性が日記を書いた伯爵夫人であり、彼女を抱きしめる男性は伯爵であろう。

 部屋の内装や服装から察するに、二人が生きていたのはおそらく三百年ほど前だろうか。クライヴはさほど歴史に明るくないので、断言は出来ないが。


 今でも出産には危険が伴うが、その時代ならばなおのこと命がけであっただろう。もちろん、乳幼児の死亡率だってグッと高いはずだ。

 ヘザーとクライヴが、それぞれ全く違う理由で深刻な表情を浮かべている内に、周囲の風景が更に変わった。


 妻を慰めていた白タイツ伯爵が、先ほどとは打って変わって荒んだ様子で、床の絨毯を引き剥がしていた。

 そしてむき出しになった木床に、指で何かを塗り始めた。塗っているのはグラスに入れられた、粘度のある赤い液体だ。あれはワインではなく血、だろうか。


 白タイツ伯爵は血液で、床に歪な円を描く。更に円の中に、複雑な文様も描き込んでいた。

 狂気の沙汰の行動を取る伯爵は痩せこけ、髪もボサボサになり、服装も黄ばんでいる。

 特にカボチャパンツの――いや、どこが一番黄ばんでいるかについては、考えないようにしよう。


 あまりにも変わり果てた彼の姿に、ヘザーの笑いの波もようやく凪いで来た。むしろクライヴと二人、彼の異様さに困惑しっぱなしだ。


 伯爵と同じく憔悴しょうすいしきった夫人が、彼の背中にすがりつく。

「旦那様、もうお止めになってください! こんなことをなさっても、もうあの子は……!」

 そう叫び、泣きじゃくった。


 血走った眼で、伯爵が振り返った。

「そんなことはない! これできっと、あの子は蘇るんだ! 息子のためならば、私は……そう、悪魔にだって、命を捧げようじゃないか!」

 彼がそう叫ぶや否や、血で描いた魔法陣から黒い煙が噴出した。先ほど、日記帳から湧き出たものと同じ煙だ。


 煙は、伯爵夫妻へ瞬く間に襲い掛かった。

 彼らの悲鳴も、暗闇に飲み込まれた。

 同時に、幻覚もたちまち消え失せる。

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