脱走という奥の手も打ち崩されたヘザーは、
いや、伯爵もとい悪魔の寝首を
そんな内面はふてぶてしいのに、外面は新雪のように儚げな美少女の迎えに来たのは、伯爵家お抱え弁護士であるロイドだった。
ロイドは少し小柄でふっくらとした体型の、全体的なフォルムが卵に似ている中年紳士だ。
しかし黒の七三分け頭から革靴の先までピカピカに磨かれており、中年特有のくたびれ感はみじんもなかった。
劇中でもヘザーの迎えに来る彼を、祖母は「ポワロにちょっと似ている」と評していた。
高田はむしろ「『不思議の国のアリス』に出てくる、卵のバケモノっぽい」と思っていたが。正確には『鏡の国のアリス』の登場人物である、ハンプティ・ダンプティのことだ。
ハンプティ・ダンプティもどきは服もおしゃれで、赤いネクタイには紫の石が付いたネクタイピンを合わせている。アメシストだろうか。
サファイアとエメラルドすら混同してしまう高田だったが、祖母と、最初に付き合った彼女が二月生まれだったため、アメシストだけは覚えている。二月の誕生石なのだ。
そういえばロイドは、養子縁組の提案のためヘザーと初めて顔合わせした際にも、このネクタイピンをしていた気がする。どうやらお気に入りと見える。
「またお会いできて光栄ですよ、ヘザーさん」
「うっす」
たおやかな外見と大きく
しかし特に何も触れず、
「お元気そうでよかったです」
とのみ応えた。柔らかな声は、クライヴとほぼ同じ言葉を発しているというのに、印象は真逆である。
ロイドは少なくとも、表向きは彼女を大歓迎であった。初対面の時も今も、福福しい笑顔で彼女を車に案内する。もちろん、ヘザーの貧相なカバンを持つのも忘れない。
劇中においても、彼はヘザーに好意的な数少ない味方一号だった。
ただ残念ながら出番は非常に少なく、ヘザーがフリーリング伯爵の屋敷に移り住むとほとんど出てこなくなる。そして終盤で、急に死体が見切れて終わるのだ。
せめてちゃんと映してやれよ、と思わずにはいられない結末である。
運転手と同じく、全身ピカピカに磨かれた黒い車に乗って、ヘザーは伯爵のもとに向かった。
おそらく百年ほど前であろう車の座席は、お世辞にも座り心地がいいとは言えなかった。
おまけに道も舗装が不十分だ。地面の凹凸や石だらけの道を走っている間、ひっきりなしにガタゴトと揺れていた。三半規管が弱い人間ならば、数分で瀕死だろう。
幸いヘザーは、肉体のみならず三半規管も頑丈であったらしい。
むしろ、現代では観光地でしかお目にかかれないような、だだっ広い晩秋の田園風景を鑑賞する余裕すらある。
窓にへばりつきつつ、ヘザーはロイドへ声をかけた。
「ロイドさんさぁ。アンタ本業も、忙しいんじゃないんすか? 運転手なんて引き受けなくてもいいのに」
「いえいえ。ヘザーさんと最初にお会いしたのは、このロイドですから。ぜひ私に、あなた様を新しいお家へ運ばせてくださいませ」
「ありがと。アンタ、めっちゃいい人っすね」
「ほっほっ、恐縮です」
肩を揺らして、ロイドは嬉しそうに笑っている。本当にいい人だ。
(いい人だから、中身悪魔の伯爵にも、いいようにコキ使われてんだろうなぁ)
ふとそう思うと、綺麗に整えられた七三頭を、妙に撫でたくなった。事故を起こされても困るので、実行には移さないが。
伯爵領は
おまけに屋敷も、周囲を森に囲まれた小高い山の上にあった。
ヘザーの住んでいた町の隣の領地とはいえ、フリーリング邸までは車でも六時間程度かかる。
途中でトイレ休憩や食事も挟みつつ、二人旅でマイペースに進みながら、日も沈んだ頃に目的地に到着した。
高地にあるためか、まだ十月下旬だというのに、屋敷が近づくにつれて雪も降り始めていた。
さすがに雪に備えての防寒着は用意していなかったので、車を降りた途端ぶるり、と体が震えた。
細い体を更に縮こませているヘザーの肩に、ロイドがショールをそっと羽織らせた。ヘザーの持っているものとは違う、フワフワとした毛皮で縁取られた真っ白で暖かなショールだ。
「おお、準備いいっすね。ありがとうございます」
「いえいえ、私はここに慣れておりますので」
満月の光を全身に浴びているフリーリング邸を見上げて、ロイドは目を細めた。
「毎年冬は雪深くなるので、ご不便もあるでしょうが。でも居心地のいいお屋敷ですので、どうぞゆっくりとお過ごしくださいませ」
「ゆっくり、出来るといいんだけどねぇ」
穏やかなロイドの表情に反し、ヘザーは口角を目いっぱい下げて肩をすくめる。
フリーリング邸は青い屋根を載せた、石造りの三階建てだ。
薄っすらと青みがかった、淡い灰色の石造りの屋敷は、古いが念入りに手入れをされている。
夜に見上げても、
うっすら雪が被り始めている前庭も、丁寧かつ華やかに
――なのだが。どうにも禍々しい。
これはヘザーの先入観がそう見せている……だけではない気がした。
先ほどとは違う理由で、ほんの少し寒気を覚える。