「たしかにオレがヘザーだけど、アンタは誰なんだよ?」
クライヴのことは死にっぷりまで知っているが、ヘザーである以上、知らんぷりをして
彼女の、町娘というよりゴロツキとしか思えぬ口調に、クライヴの陰気な顔の不機嫌度が増した。
「……クライヴ・フリーリング。君が引き取られる予定の、フリーリング伯爵の義弟だ」
だが、ご丁寧にそう名乗った。案外律義でいらっしゃる。
「君が怪我を負ったと聞き、病気療養中の兄に代わって様子を見に来た。健康そうで実に安心した」
全く温度のない「安心した」に、思わずヘザーは鼻で笑ってしまう。
「けっ。どこかだよ。オレが死んでた方がよかったって、顔に書いてあるぜ?」
ぴくり、とクライヴの片眉が持ち上がった。元々口角の下がっていた口も、更にへの字になる。
――と、別に彼と喧嘩をしたくて、相対しているわけではない。
つい生来の血の気の多さで口走ってしまったが、一つ呼吸をして気持ちを切り替える。
したいのは喧嘩でなく、交渉だ。
「なあ、クライヴさん。一つ相談なんだけど……アンタから伯爵サマにさ、オレの養子縁組をなかったことにしてほしいって、口利きしてくれねぇか?」
「どういうことだ?」
「オレなんかじゃ役不足だって、考え直したんだ。だって学もねぇし、マジで顔以外でいいトコねぇだろ、オレ。あ、オッパイもデカいけどさ」
自分の胸元を見下ろし、両手で軽く揉んだ。
ヘザーになって一番驚いたのは、胸のせいで足元が見えないという事実であった。巨乳も楽ではない。
「……君には羞恥心がないのか」
「いやだって、事実デカいし」
首の後ろに手を当て、心なしかげんなりしているクライヴへあっけらかんと言い、そして一歩近づく。
次いで早口で、まくし立てた。
「ほらな、顔とオッパイしか取り柄のねぇ恥知らずの養女なんて、いねぇ方がいいだろ? だからオレなんかがお邪魔したら、伯爵サマに絶対! ぜーったいに迷惑かける! これだけは確実に分かる! バカな本人でも分かるんだから、間違いねぇだろ! オレを養女にしたら、余計お家存続の危機だって!」
可愛い声の割にドスの利いた口調を、クライヴは不機嫌顔で拝聴していた。
ヘザーがようやく口を閉ざした時、彼の肩がわずかに下がった。顔の鋭さも、とてもとても僅かだが、和らいだ気がする。目盛りで表すと、一ミリ程度の和らぎだが。
「君の言い分は、たしかにもっともだ。俺も君のような者を引き取ることには反対した」
「じゃあ!」
かなり酷い言われようだが、この際どうでもいい。クライヴに嫌われるのは好都合だ。
ヘザーは藤色の瞳を輝かせて、更に身を乗り出した。
しかしクライヴはそっけなかった。
「だが、それは俺個人の感想であり、兄上はそう思っていない。『彼女は利発で物覚えが良いそうだから、教え甲斐がある』と仰っていた」
ヘザーが頭を抱え、豪快に振りかぶってうなだれる。
「ギィィー! 過大評価反対!」
「何だその鳴き声は――加えて、今回の養子縁組により、ここの修道院には多額の寄付金が支払われる予定になっている。要らぬお節介かもしれんが、
「きふ……っ?」
裏返った声を出しかけ、思い出した。
そうだった。ヘザーは寄付金目当てで、養子縁組を了承していたのだ。
ただの世間知らずの無知ではなかった。
彼女なりに、赤字と黒字を行ったり来たりする修道院の運営状況を、
いわば実家を建て直すため、彼女は身売りに応じていた。
この事実を思い出し、そしてヘザーがここで暮らした日々も思い出すと、なお抗弁できなかった。
しかし一瞬、本当に一瞬だけだが、こいつをこのまま殴って黙らせようか、とも考えた。
たおやかな外見に似合わず頑丈な通り、ヘザーは基礎体力がある。当然それなりに腕力もあった。
喧嘩慣れしている高田の魂もジョイントしているのだから、この屈強そうな男が相手でも、なかなか善戦できるのではないか。地の利を活かせば、辛勝も夢ではない。
だが振り上げようとした拳が、すぐに下ろされた。
無意識の行動であった。
どうやらヘザーの肉体に宿る記憶や道徳心が、この暴力に
たしかに高田自身も、ここでクライヴに暴行を加えるのは我ながら理不尽すぎる、と理解はしていた。せいぜいまだ、嫌味を言われたぐらいだ。
なので肉体の抵抗に逆らわず、そのままにする。理不尽を振るう代わりに、長々とため息を吐き出した。背中もつい丸まる。
「分かった、大人しく養女になるよ」
「ああ、そうだな。それが賢明だ。では後日また、迎えを寄越すことにしよう」
「へぇい……」
「くれぐれも、それまで大人しくしておくように」
素っ気なく言い切ったクライヴは、見舞いの品らしい可愛い包み紙の箱を押し付けると、さっさと裏口から出て行った。
こちらからの感謝も、別れの挨拶も不要と言わんばかりの、一切配慮のない早足での退場だった。
「……あいつ、絶対モテねぇな」
ぽつり、と減らず口を叩きながら、ヘザーは包み紙を破いて箱を開ける。
中身もたいそう愛らしい、クッキーの詰め合わせであった。一切モテそうにはないが、プレゼントのセンスは悪くない。
早速ジャムの乗ったクッキーをかじりながら、ヘザーは空を見上げた。
どんよりとした、灰色の雲がひしめき合っている陰気な空だ。まるでクライヴの性質そのもののようである。あいつは
彼の登場により、ヘザーはすっかり脱走への情熱を失ってしまった。
こちらのイレギュラーな行動に、伯爵サイドもイレギュラーをかまして対応されるのなら、下手に動かない方がいいかもしれない。
下手に暴れた挙句、たらふく鎮静剤を打たれた記憶もまだ新しい現在、素直にそう判断できた。
ならば大人しく屋敷に行こう、一旦は。
そして隙を見て逃げ出す、あるいは伯爵を亡き者にして……ついでに可能であれば、クライヴも救おう。
実際に会っても嫌な奴この上ないが、それでも思わず自己投影してしまった人物なのだ。生い立ちだって、同情できる。
あくまで自分が生還するついで、ではあるが。
自分の安全が確保できれば、おまけで彼も救ってみよう。
ただ、それが無理そうなら……
「オレの前でくたばるのだけはやめてくれよな、マジで」
そっと距離を取り、死ぬのを待とう。
と、大変不穏なことを神頼み(一応はシスターなので)しつつ、ついでにもう一つ祈る。
「今からでもいいから、『霊媒探偵ライダー』に転生させてくれよ。いえ、させてください」
むしろ先程の願いの比ではない真剣さで、背後に佇む教会を見つめた。
無意識のうちに、指で十字を切る。そして胸の前で手も組み、両膝をついた。
なにせ『霊媒探偵』は、突き抜けたバカホラーだもの。
ホラー映画の主人公だというのに、ライダー氏はフランス外国人部隊出身のゴリゴリ武闘派なのだ。もちろん除霊方法も、基本的には腕力頼みである。
実際ライダーはイケメンではあるものの、なかなかガタイもいい。ワイシャツを腕まくりした際に見える前腕の、たいそう頼もしいことよ。
それでいて世界観は、ドレスを着た貴婦人がウロウロするゴシックホラー風味なのだ。
ゴシック界に突如舞い降りた、脳筋アメコミ風ヒーローという図式の時点で、もうバカバカしい。最高だ。
どうしてバカ映画の方に転生できなかったのか。自分はこんなにバカなのに。
やはり、日頃の徳が足りなかったのだろうか。
「ボランティアとかしときゃよかった……クソったれ」
曇り空をにらみつけ、つい憎まれ口を叩いてしまうのであった。