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3:みんなのトラウマムービー

 この『フロム・ジ・アビス』の舞台はニ十世紀初頭辺りの、おそらくイギリス。

 ヒロインのヘザーは、幼少期に両親と死に別れた孤児であった。

 彼女は孤児院で大きくなり、その後は孤児院に併設された修道院に入って、一生を神に捧げるつもり、だった。


 しかし並外れた美貌を持つ彼女は、露出度ほぼゼロの出で立ちをしていてもガンガンに目立っており。

 とうとう、隣の領地を治める伯爵様の目に留まった。


 そして彼は、自分の養女にならないか、と世間知らずな彼女に持ちかける。

「自分には妻もおらず、もちろん子どももいなくてな。君のような敬虔けいけんかつ、清貧で実直な人柄の子を迎え入れたいのだ。君ほどの清らかな佳人であればきっと、素晴らしき最高の伴侶――つまり次期伯爵を見つけ出してくれるはずだからね」

というのが、表向きの理由であった。


 もちろんそんなワケない。

 伯爵の言い分通りであれば、ヘザーは素敵な旦那様もとい次代の伯爵と出会い、ラブラブ伯爵夫妻になるだけのハッピーエンドものである。

 仮にそう言った筋書きならば、わざわざ入院着で逃げ出す必要もない。甘んじて受け入れるだけだ。


 もっともそれはそれで、暴力と無縁そうな点が高田としては気に食わないが。


 実はこの伯爵家には、悪魔が巣食っていたのだ。

 現在は当代伯爵に憑依している悪魔の、次の依り代に選ばれたのがヘザーだった。

 そんなことも知らずに、のこのこと伯爵家に移り住んだヘザー。

 雪深い山の中にある屋敷は、容易に逃げ出すことも叶わない。


 また伯爵以外の多くの人間が、彼女を歓迎していない。するわけもない。

 逃げ場のない、味方の少ない状況下で、常時怪奇現象に襲われ続けた彼女の精神は疲弊ひへいし……とうとう壊れた。

 そこに悪魔が乗り移り、めでたく憑依成功というのが、おおまかなストーリーである。


 孤児であった彼女にこんなことを言うのは酷かもしれないが、ヘザーには学がない。

 おまけに短い人生のほとんどを孤児院と修道院で過ごしているので、一般常識にも欠けている。

 おそらくヤンキーで高卒の高田ですら、比較対象にならないぐらい無知で無垢なのだろう。


 世の中は学歴だけが全てではない。高田もそう思ってはいるが、やはり……最低限の小賢こざかしさを持ち合わせていないと、平穏な人生のスタートラインにすら立てないのだろう。

 世の中というものは、本当に意地悪な作りをしている。


 たしかにヘザーは伯爵が褒めたように、敬虔・清貧・実直で、おまけにド美人だ。

 しかしお貴族様方に必要であろう、社交術や教養は絶無である。無論、ダンスも踊れない。

 貴族令嬢になるには「顔以外に適正なし!」と断言できる人柄だ。


 そんな彼女を養女に望むなんて、怪しいことこの上ない。しかも彼女は、伯爵の縁者でもなんでもないのだ。

 しかし無知で無垢で、疑うことを知らぬ彼女はホイホイと伯爵家入りするのだ。

 同じく世間知らずなシスター仲間たちも、それを全力で応援していると来た。


 高田もこの映画――というよりも、この映画を撮った監督のファンだったので、この作品のことはそれなりに好きだ。

 もちろん何度も観ている。

 しかしヘザーのこの無謀さには、初見時からドン引きであった。


「そもそも、代替わりするたびに先代が変死してる、明らかヤベェ家に行くなよ! ちょっとは自分の頭で考えろよ! お前、流され過ぎ!」

と、中学生の頃に祖母と一緒になってテレビの前でギャイギャイ野次を飛ばしたのも、今となってはいい想い出……いや、想い出ではないかもしれない。

 ヘザーになってしまった高田にとっては、かなり目前まで迫っている未来であり危機なのだから。


 じゃがいもで転倒事故を起こしたヘザーであったが、幸いにして大きな外傷はなかった。

 シスター仲間の言では、一度呼吸も止まって心停止したぐらいなので、脳内のどこかも出血したりしている気もするのだが、現状特に異変はない。

 高田が憑依したことで、内部も変わったのだろうか。


 そもそもホラー映画のヒロインの宿命として、彼女は健康どころか、ちょっと頑丈過ぎるぐらいなのだ。

 作中で彼女は、伯爵の義弟に突き飛ばされて椅子ごと転倒しても、悪霊に襲われて本棚の下敷きになっても、本性を見せた伯爵に階段から突き落とされても、ピンピンしていた。


 メンタルに反して、フィジカルは鋼の如き屈強さを魅せていたのだ。もはや、『少年ジャンプ』の主人公とタイマンを張れるレベルである。

 そのため想定の範囲内と言えばそれまでだが、ヘザーは三日の入院であっさり全快し、包帯も取れた。回復力も尋常ではない。波紋の使い手なのだろうか。


 狭くて殺風景な自室で、幸い傷跡も残らなかった頭をぺたぺた触りながら、彼女は再度の逃走を決意した。

 この頑強さと美しさがあれば、どこかで住み込みで働けるだろう。


 売春は――さすがに自分と野郎の一戦を、高田の倫理観が許せないので、最終手段に取っておく。

 喧嘩っ早い高田であったが、買春売春の類に関しては完全なるアンチだった。

 祖母から「女性を大事にしろ」と、教え込まれていたのである。


 幸運なことに、こんなお馬鹿なヘザーであっても、最低限の読み書きは出来る。

 また高田も生前は(一応)高卒なので、簡単な計算なら問題ない。当時は散々不平不満をもらしていたものの、義務教育制度には感謝だ。


 おまけに高校卒業後はずっと建設現場で勤勉に働いていたので、ブラックな労働環境にも慣れっこである。

 こだわりさえ捨てれば、人としての尊厳まで捨てずに済む仕事がきっと、見つかるはずだ。

 ヘザーは明日に控えた、修道院の敷地内で行われるバザーの手伝いに紛れてトンズラしよう、と計画した。

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