目覚めた視界の先にあるのは、石造りの天井だった。東京生まれ、東京育ちのシティ・ボーイ(と自称できる年齢でもないが)である
自分は洞窟にでも迷い込んだのだろうか、それにしては明るいな――などと考えつつ、めまいのする頭に手を当てて、身を起こした。
額には粗末な布が巻かれており、その上にさらりとした前髪が下りている。
はて、自分はこんなに髪が長かっただろうか。手触りも、もっと固くてゴワゴワしていたような……そう、もう片方の手で触れている、シーツのように。
高田が寝ているのは、白いシーツが敷かれたベッドだった。清潔そうではあるが、シーツの触り心地は前述の通り、かなり悪い。
またベッドは粗末、と評するべきか古風と評するべきか。ともかく、ところどころが錆びている、パイプ製の古めかしいデザインだ。
戦前を舞台にした洋画にでも出て来そうである。そう、たとえば病院のシーンなどに、とてもふさわしいのではないか。
ろくにワックスもかけられていない木床に並べられた、白くて質素なベッド。
どの映画と、特定こそ出来ないものの、必ずどこかで目にしたことがある気がする。そんな、なんとも懐かしい光景である。
そこでふと、彼は周囲を見渡した。
彼のベッドの右手は、これまた白く塗られた壁がある。大きな窓も備え付けられている。
そして左隣には、同じようなデザインのベッドが二台並んでいた。
また視線を前に向けると、これまた同系統のベッドが三台、等間隔に並んでいる。
(これは病院だな、絶対)
うん、と高田は一つうなずいた。
辺りに視線を巡らせた際、ずいぶんと自分の座高が低くなったような気がした。
だがそれよりも先に考えるべきは、「どこの病院なのだろう」ということである。
自宅近くにはいわゆる町医者が数軒、そして少し遠方に総合病院が一軒あったことは覚えている。
総合病院には、職場の同僚の見舞いで一度行ったことがあるものの、こんなレトロ臭漂う内装ではなかったはずだ。
もっと無機質で消毒液臭い、おまけに体温も低そうな印象だった。床だって、木ではなくタイル張りだった記憶がある。
またベッドも、あちこちに何かの機械や謎のパウチがぶら下がっている、どこか不穏で物々しい外見だったはずだ。
高田は健康優良児のため、町医者にはほとんどお世話になっていないものの、入院施設を有していそうな病院はなかったと記憶している。
となれば、自宅から遠く離れた、どこか田舎の病院だろうか。
だとしたら、いつ田舎に出向いたのだ?
目を細めて、自分の記憶をたぐり寄せる。
最後に覚えているのは、自宅から最寄り駅へ向かう途中の、商店街の風景だった。時刻は土曜日の夕方だったはず。
高校時代からの友人と、飲みに行く約束をしていたのだ。だから車は出さず、駅に向かっていた。
その時、高齢女性の悲鳴が聞こえたのだ。次いで、「ひったくりです!」という叫びも。
思わず振り返ると、自転車に乗った若い男が、不似合な女性物のバッグを片手に握りしめていた。
喧嘩には覚えがあり、また現在も肉体労働に従事している高田は、腕っぷしには自信があった。
だから、ヒョロヒョロとした卑怯千万な男にタックルし、自転車ごと横倒しにしたのだ。
そしてバッグを奪い返し、遠くから自分へ駆け寄って来る女性へ声をかけようとして――脇腹に強い熱さと、少し遅れて痛みを感じた。
引ったくりがいつの間にかナイフを取り出し、自分に突き立てていたのだ。
目が合うと、引ったくりは悲鳴を上げて、足を引きずりながら逃げて行った。倒れた際に、足を痛めたのだろうか。
いや、それより悲鳴を上げたいのは高田の方である。
彼は女性のバッグに血が付かぬよう、膝から崩れ落ちつつも彼女のバッグを遠くに置き、そこで意識が途切れ――そして、今ここにいる。
出血も酷かったので、死ぬのかな、と思っていたのだが。
病院らしき場所にいる、ということは助かった……のだろうか。
だが違和感は、ひたひたと彼の周りを覆い隠そうとしている。
心なしか背というか、体全体が縮んでいるし、さっきから視界にチラチラ見える髪も、肩まで伸びている。自分はもっと短髪だったはずだ。
また視線を落とした時に見えた己の腕も手も、とても細く小さく華奢で……まるで、女性の手のようだ。おまけに肌も、雪のように真っ白だ。
わけの分からぬ不安と違和感に苛まれていると、病室 (と呼ぶことにした、便宜上)の木製の扉が開いた。
その音で扉の方へ目を向け、高田は思わずギョッとした。
入って来たのは、シスターの出で立ちをした白人女性のグループだったのだ。
黒いフードのような、頭巾のようなアレを被った、ザ・シスターたちである。おまけに揃って美人と来た。こんな集団、それこそ映画の中でしかお目にかかったことがない。
病院で坊主を見かけると縁起でもないと思うが、シスターの場合はどうなのだろうか、とぼんやり考える仏教徒の高田と、彼女たちの目が合った。
「ああ、よかった!」
目が合うなり、飛び上がらんばかりに彼女たちは喜び、あろうことか初対面の高田を取り囲んだのだ。
タイやベトナム出身の、アジア系の同僚ならいるが、ヨーロッパ系の美人の知り合いなんて、高田にはいない。
豪胆さには自信がある彼も、さすがにたじろいだ。
しかしビビる彼に頓着せず、シスターたちは禁欲的な出で立ちに反してキャッキャとはしゃいだ。
「よかったわ、目を覚まして!」
「あなた、心臓も止まったのよ? ねえ、大丈夫? 痛いところはない?」
「ヘザーがおっとりしてるのは知ってたけど、自分で収穫したジャガイモで転んで、階段から転げ落ちるのだけは、もうやめてね」
「ほんとほんと、こっちもショック死するかと思ったんだから!」
「せっかく伯爵様の娘になれるんだから、こんなところで死んでは駄目よ」
口々にかけられた、安堵や心配の言葉に、高田はキョトンと目を丸くした。
「ヘザーって……」
誰のことだ、と続けようとして、声が途切れてしまった。
自分の声が、有り得ないぐらい可愛らしいものだということに、気付いてしまったのだ。
思わず、両手で口を覆う。
「ヘザー? どうしたの?」
シスターの一人から呼びかけられるが、それを無視して、オタオタと視線を左右に巡らせて、ふと窓に目が留まった。
分厚くデコボコした窓ガラスに、ぼんやりと少女の姿が映っていた。
頭に包帯を巻いた長い黒髪の、それはそれは儚げで美しい少女だ。年の頃は十五歳辺りか。
少女は強張った表情で、口元に両手を当てていた。
彼女の姿に高田がギョッとすると、ガラスに映る美少女もまた、藤の花のような青紫の瞳を驚きで見開くのであった。