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活人 ①

 干魃に苦しなれど、人は食わねば生きてゆけぬ。


 圧政に咽ぼうと、草の根を掘らねば腹は満たせぬ。


 火は戦を呼び、炎は乱を生む。生は焼かれ、死に燃ゆるは人身也。荒れた畑に這う鼠、廃した村に潜むは賊に窶れた悪心也。生々流転、死屍累々。屍山血河の地獄池。


 痩せた赤子を骨ばった背に抱き、痩けた頬と窪んだ眼。頭に薄汚れた頭巾を被る娘は割れた土へ木鍬を振るい、汗を流す。


 一つ木鍬を土へ立てるとパラパラと細かい砂が舞う。二つ振るい、グゥと腹の虫が鳴るとグルグルと目を回してうつ伏せで倒れてしまう。此処一週間、粗末な食事と汚れた水で過ごしていた娘に農夫の代わりなど務まるはずがなかろうに。


 赤子は一つも声を出さず、鳴き声一つもあげやしない。それもその筈赤子は既に死しているのだ。米の研ぎ汁では腹を満たせず、病床に伏せる母の乳は一滴も絞り出せぬ始末。紙のように軽い赤子を背負う娘は熱で煮える畑の向こう側……陽炎揺らめく茶けた土を眺める。


 草の根はとうに食い尽くして久しかった。枯れた葉を湯に煎じ、薄い茶のような何かを飲み下して腹を壊したこともある。戦火が村を焼き、生き残った者達は他所の土地へ移り住んだが、病に冒される母と未だ赤子である妹を見捨てることなど娘には出来ぬ選択。血を分けた肉親を見捨てられる筈がない。


 「……」


 ぼんやりと……陽炎の中を歩む何者かの姿が見えた。顔全体を襤褸で覆い、身体を同じ色……はだえとよく似た衣を着た男。


 「おい」


 男の低く鋭い声が娘の鼓膜を叩く。


 「こんな真っ昼間の、それも肌を焼く日の下で眠るたぁ酔狂な娘だな、えぇ? それも死体を背負ってたりなんかしちゃってさぁ」


 全く意味が理解らんね……。頭を振るい、肩を竦めた男は娘から赤子の死体を取り上げ、あやす真似事をする。


 「……返せェ」


 「んぅ?」


 「妹を……返せェ」


 酷くしゃがれた割れる声。細い骨ばった腕を伸ばし、衣の裾を掴んだ娘の眼は薄茶色……乾いた醜い色合いの。それは正に鬼の眼と云っても差し支えないだろう。


 「返したって無駄だ、無駄。死んだ人間は何も生み出さん肉袋、そんなもんに執着する必要はこれっぽっちも必要ないねぇ……そうだろう? 間違ってる事を言ってるか? えぇ?」


 だらりと垂れた赤子の足を片手で持ち、肩に背負った男は憎悪に煮える娘をジッと見つめ、懐から一本の竹筒を取り出すと喉を鳴らして冷えた液を飲み下し。


 「飲め」


 と、竹筒を娘の前に投げ寄越す。


 「……」


 「何もお前まで死ぬ必要はなかろうに。生きねば死ぬし、死ねばお前も無意味な肉。いいや、骨と皮の糞袋か? 悲しいもんじゃぁないか……命が消えるってのはよ」


 死体をブラブラと物のように扱い、浅い呼吸を繰り返す娘へ憐れみが混じる視線を向けた男は、未だ竹筒を手に取らぬことに業を煮やしたのか無理矢理娘の口へ筒の先を突っ込んだ。


 するとどうだ、娘の舌先が感じた味は砂糖水を極限にまで煮詰め、塩味を加えた粘土のような、それでいて花の蜜を思わせる芳しい香り。一口喉を鳴らせばスルスルと水のように胃に溜まり、二口飲み込めば疲労さえも霞となって消えゆく不思議な感覚……。霊験あらたか天子の妙薬、天魔の奇薬、はたまた仙人が煎じた仙薬か。


 何にせよ、竹筒の中身を啜ることに夢中であった娘の姿は母の乳にむしゃぶりつく赤子のような、好物に必死に食いつく幼子のよう。思う存分、喉を鳴らしながら液を飲む娘は最後に小さな溜息を漏らし、心地よい満腹感に微睡む。


 「まだ寝るんじゃぁない。お前にはまだやってもらう事がある。俺の為に働けよ餓鬼。お前をただで活かすはずが無いだろう? いいか? これからも生きていくならなぁ……タダより高いモノは無いって事を覚えときなぁ」


 微睡む娘が見た襤褸の向こう……其処には歪に曲がりくねった鬼の牙。真っ赤に充血した真紅の眼と焦げた髪。異形の面貌。人を食らう為に生き、命を啜り殺す存在が娘の眼に映る。


 人外鬼畜異貌者。ハッと息を飲み、微睡みから意識を引き上げた娘は細腕の先……小さな掌で男の顔を叩き、肉が感じた妙な硬さと痛みに呻く。


 「殴る元気があるなら結構。ハッ、少しばかり肉付きが良くなったらなんとまぁ……良い面をした餓鬼だこと。俺が鬼に見えたか? それとも化外か? 落ち着けよ、餓鬼」


 男の顔を覆う襤褸が風に巻かれ、ヒラリと舞った。その中から現れた顔は右目以外を鬼面で隠した人の顔。奇天烈な面貌から覗く瞳に笑みを浮かべ、娘を担いだ男は丸い尻を力強く叩いた。


 「いったァ……!」


 「痛みは生きてる証だ、噛み締めろ餓鬼。死んだら痛みも感じぬ虚無ばかり。あぁそれと竹筒を返せよ?」


 ジタバタと、先程までとは打って変わって男の肩の上で暴れ回る娘は縮れた黒髪を引っ張り、膝で面を打つ。だが、男は馬鹿馬鹿しいと溜息を吐くばかりで、娘の抵抗など稚児の癇癪と流すのだ。逞しい筋肉は鋼の楔のように娘を繋ぎ、吸盤が如く離さない。


 疲れた息を吐き、大人しく竹筒を男へ返した娘の手に握り飯が渡される。爆弾を思わせる海苔が巻かれた巨大な飯の塊に娘を涎を垂らし、一心不乱に齧り付く。塩気がきいた白米と酸っぱい梅干し……。拳大の梅は果肉が詰まり、噛めば噛むほど仄かな甘味が残った果汁が溢れ出す。


 「あのォ」


 「何だ? 飯は黙って食えよ餓鬼」


 「貴方様はァ……天子様の使いですか?」


 「仏は人を選ばず、人もまた他を見ず使いを寄越さん。俺は俺だ。俺のやりたいようにやってるに過ぎんのさ、餓鬼」


 「へェ……」


 都に座する天子は天命を担うと聞いたことがある。終わらぬ戦と果てぬ飢饉に重い腰を上げなすったかと娘は考えたが、どうやら違うようだ。大股で歩を進め、枯れた畑の端にある小屋に近づいた男は、ズレた戸を無理矢理開くと平たい布団に横たわる女を見る。


 「何方でしょう……」


 「医者だ、あぁ安静にしてろよ。今すぐ診てやる。安心しろ、俺が来たからには直ぐに良くなるさ」


 「お医者様……? すみません、家には何も……」


 「お代は要らん。俺が勝手に診るだけだ」


 娘を放り捨て、女に歩み寄った男は何の断り無しに彼女の着物を開き、痩せた胸と膨れた腹へ視線を這わせる。


 「あ、あの、娘が」


 「少し黙ってろ。感覚が鈍る」


 胸を指先で二度叩き、腹を少し押す。女は痛みに声を上げ、母の苦痛に歪む表情を見た娘は男の背を叩き「やめろ! おっ母さんに触るな!」と叫んだ。


 「餓鬼、お前はこの女を殺したいのか?」


 「はぁ!?」


 「いいか? 病は目に見えぬ肉体の異常だ。心身が弱り、物を食わねば人は死ぬ。女の状態は酷いを通り越して半死半生、死人の一歩手前。助けたいのなら、生きてほしいのなら黙って見てろ阿呆が」


 あぁ此処か。一言、そう呟いた男は懐から針を数本取り出し、女の胸と腹に刺す。


 針治療か何かだろうか……そんなもので病が治る筈がないのに。ぼんやりと男の行動を眺めていた女が目にしたのは、刀剣の如き鋭さを見せる手刀。男の鷹のように鋭い眼が針を見据えた瞬間、胸と腹に骨肉の刃が突き立てられた。


 「おっ母さん!!」


 息が途切れ、患部に迸る激痛。体内で蠢く男の手、それに伴う違和感と……。大きく目を見開き、舌を突き出した女は声にならない叫びをあげる。


 「おい」


 「―――」


 「もう大丈夫な筈だ。大きく深呼吸をして、これを飲め。それと餓鬼、お前は畑にこの種を撒け。数刻の後、稲穂が実る」


 何事も無かったかのように、患部から手を引き抜いた男は拳を握り、黒い蟲を潰す。スゥっと……苦痛が和らぎ彼が寄越した竹筒に何の抵抗も無しに口を付けた女は、娘に渡された種を見る。


 籾種……だろうか。いや、それにしては何か形が違うような気がする。それに、数刻で稲穂が実るだなんてそんな都合の良い話があるものか。


 「別に疑おうとしても構わん。お前等は生者だ、それも女。生きているなら価値がある。女が居なければ子は産まれんし、人の種は途絶えてしまう。力の面で云えば、男の方が価値があるやもしれん。しかし……子を自らの身を呈して守るのは、やはり女なのだ」


 ウンと頷き、またもや拳大の握り飯を取り出した男は女から竹筒を引ったくり、武骨な黒塗りの椀を懐から引っ張り出して液を注ぐ。


 波々と注がれて、瞬時に沸いては湯気が立つ。ぽんと投げ込まれた握り飯がホロホロと解れ、具の梅がほんのりと崩れて果肉が綺麗に飯粒に絡み、蕩けて消えた。


 夢でも見ているような、現世から幽世に紛れ込んだのかと思った。目を瞬かせ、ズィと押し付けられた椀に木の匙が添えられており、女は男と粥を交互に見比べる。


 「あの」


 「何だ」


 「貴男様は……仙人様で御座いましょうか?」


 「違う」


 「なら」


 「俺はただの活人に過ぎん。生者を活かす為に、生きるべき者に手を貸しているだけだ。仙人などという自己満足の化身と同じにするな阿呆めが」


 へェ……と、匙で粥を掬って口に運んだ女は「美味い」と呟き、一心不乱に食を進めた。甘い液と噛めば噛むほど甘味を染み出す米粒と、塩気の効いた、梅の酸っぱさが堪らない。身体の痛みなど無かったかのように、椀を空にした女はしまったと口走る。


 娘の分を残しておかなければならなかった。腹を空かせているのは己だけではない。あのも己以上に腹を空かせている筈……。匙を置き、俯いた女を一瞥した男は「心配は無い」と言い放ち、ゆっくりと立ち上がる。


 「どういう意味ですか……?」


 「言葉通りの意味だ、心配する必要は無い。おい女、俺の飯と竹筒の液を飲んだな?」


 「はい……」


 「なら俺の為に働け。対価を差し出すか、俺の言う事を聞けよ女」


 鬼面の向こう側から笑みが漏れ、赤い瞳に女を映した男はゲラゲラと笑う。


 嗚呼……やはり、男は鬼面と同じように、仏心を持ち合わせていないのだ。飯と治療で人を釣り、食い物にするつもりなのか……。唇を噛み締め、男から視線を外さない女は深い溜め息を吐き。


 「俺の名を、活人の名を世に広めろ。そうだな……絶世の美男子、光輝に照る男とでも言い伝えて貰おうか! 生者あるところに活人あり……あぁ実に良い言葉じゃぁないか」


 一人納得したように腕を組み、それが良いと豪語する男に女は呆気に取られ。


 「それで、いいのですか?」


 と、思わず問うてしまった。


 「それ以上に何の働きがある? 阿呆か貴様は。人伝言伝を無下にする奴ぁ一生事を成せぬ愚人だぞ? いいか? お前はこれから活人の名を世に広め、これから産むであろう子らに俺の名を伝え続けろよ? それが俺への対価であり、仕事だ」


 じゃぁ―――と、膝を叩いて畑へ向かった男は「餓鬼に畑仕事の見本でも見せてやるか」と話し、外へ向かう。


 悍ましい鬼の面を被り、厳しい言葉とは裏腹に母娘の身を案じる男の行動は矛盾に満ちているものだった。己を活人と称し、人を生かすことに執着する様子。それは、領を司る太子以上に人間出来ていると云っても過言ではない。


 「あの、畑仕事は」


 「病人は黙って寝てろ。それに今は取り込み中だ」


 布団から這い出し、男の後を追った女が目にしたのは娘から籾種を奪おうとする痩せた老人だった。娘は必死に抵抗するも、大人と幼子とでは哀れ力の差があり過ぎる。頬を叩かれ、籾種を奪われた娘は「返せェ!!」と叫び、老人に顎を蹴られた。


 「これが無けりゃ儂等も飢えて死ぬ! お前ら三人で籾種をどうするつもりだ!? 儂に寄越せ!」


 「おい」


 「!?」


 「それが欲しいのか?」


 怒った風でも、憎しみを醸し出す風でもなく、老人へそう問うた男は「持っていったところで意味は無い。だが、もし生きたいのなら戻ってこい。村人全員で、此処へ来い」と手を払い、新しい籾種を何処からともなく握り出す。


 「―――ッ!?」


 脱兎の如く駆け出し、籾種を抱えて逃げ出した老人と見送る男。意味が理解らないと呟く娘を一瞥した男は鍬を手に取り籾種を植える。


 「どうして見逃したんですかァ?」


 「見逃したんじゃぁ無い。どうせ戻ってくると思ったから、見送ったに過ぎん」


 「戻って来る保証だなんて」


 「切羽詰まった人間は縋り付くもんだ。例えそれが屑でも、塵でも、鬼仏でもな。餓鬼、呆けてないでお前も手伝えよ。飯が食えんくなるぞ」


 「へェ……」


 何ともまぁ……最初の印象とは正反対の男だと娘は思った。まだ男の内面や言葉の真意は理解できぬが、それでも彼は悪人ではないのだと考える。


 「あのぉ」


 「何だ」


 「貴方様はァ仙人」


 「それ以上口を開くならその歯を叩き砕くぞ? 俺ぁ人間様だ。俺より人間らしい奴なんざ居る筈がなかろうに」


 「へェ……すみません。なら何て呼べば」


 「活人」


 「活人?」


 「活かす人、殺さずに生かす者だ」


 男はそれだけ云うと大粒の汗を流し、額を手の甲で擦ったのだった。

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