泣く赤子をあやす少女が居た。うら若く、未だ二十歳にも満たない少女は透き通るような白い肌を陽光で照らし、プラチナブロンドの髪を輝かせる。
赤子の齢は一つと半。目鼻口は少女に似た柔らかさ、そして褐色と白の中間に位置する肌は父の血が色濃く出ているのだろう。何度身体を揺すられても泣き止まぬ赤子に困ったと云う表情一つ見せぬ少女は優しい微笑みを浮かべ、子守唄を口ずさむ。
義母から教わった子守歌。彼女の夫がまだ乳飲み子であった頃によく歌ってやったという唄は珠のような声色に乗り、聞く者全てを微睡みに誘う不思議な魅力があった。だが、それでも尚泣き止まぬ赤子は玄関の扉が開くと同時に華やかな笑顔を咲かせ、それに釣られて少女もまた笑う。
「すみません、遅くなりました」
家に入って来たのは身長二メートルを裕に越える大男。腕は丸太のように太く、足腰もまた常人の二倍ほど強靭な筋肉に包まれている。顔の右上を布で覆い、無愛想を通り越した鉄面皮を思わせる大男は妻である少女の前に跪き、頭を垂れると床に拳を突く。
「待っていませんよ? おかえりなさい」
「私めには勿体なき御言葉です。それで、その、赤子はどうしていましたでしょうか?」
「どっちの事を言っているのですか?」
「それは……両方で御座います」
少女の意地悪な問いかけに頬を朱色に染め、俯いた大男は頭を左右に振るい、懐から金貨が詰まった麻袋を渡す。三日間肉体労働に励んだ賃金は相場の五倍。一般的な労働者が男と同じ仕事に従事し、同じ時間働けどこれ程の金は貰えまい。
大きく膨れた胎を擦り、男から受け取った金貨を宝石箱に入れた少女は「元気ですよ、貴男に似て」とクスクス笑い、赤子を男へ預け使い慣れたエプロンを纏う。
「私めにお任せください! ささ、貴女様は椅子に腰かけて」
「もう、少しは奥さんらしいことをさせて下さい。貴男の方こそゆっくりと身体を休めて」
「いいえ、胎に居る赤子にも影響があります! 貴女様は身重なのです! 其処を理解して下さいませ!」
「……まぁ、そこまで言うなら。いいですか? 今回だけですよ?」
「ハッ‼」
どうにも―――と、少女は手慣れた手つきで料理道具を振るう男を眺め嘆息する。
彼は屋敷の門番だった頃からあまり変わっていない。いや、それ以上の働きをしてくれる。己を変わらず愛し、尽くしてくれる姿は甲斐甲斐しく世話を焼く良夫そのものだ。働いて疲れている筈なのに、表情一つ変えない様は感嘆に値する。
「あの」
「はい?」
「私が居ない間、その、何かありましたか?」
「何か、とは?」
「えぇっと……足りない物や欲しい物がありましたら何なりとお申し付け下さい。私は貴女様の為なら何でも」
「何もありませんよ?」
「……」
「貴男が何を思い、何に責任を感じているのか私には知り得ません。けど、こうして共に過ごす日々に何の不安が御座いましょうか? 大切な人の子を育て、守ることが私の役目。そしてその生を支える役目を担うのが貴男。不満など何一つありません」
男は少女の言葉に涙を流し、嗚咽を漏らす。彼とて少女と同じ気持ちであった。しかし、不安だったのだ。何一つ不自由しない生活から全てを失い、こうして何の面白味も無い男と過ごす日々に不満を感じていると思っていた。
だが、少女は男を心から愛していた。彼の全てを知りたいと、彼の生を得たいと思い続けていた。故に、親兄弟や財産を失おうとも幸せだった。男と一緒に過ごす時間は今の彼女の全てと言って過言ではないだろう。
「あんまりそう言うなら」
「……」
「私への手紙、また音読しますよ?」
「そ、それだけはご勘弁を! いや、あの、恥ずかしいもので」
「じゃぁこの話はお終いです! 赤子を私に預けて下さい。火とか刃物、危ないですからね」
「はい……!」
男が少女へ赤子を預け、腕を捲ると料理と向き合い笑みを零す。
己は幸せなのだろう。これ以上の幸福は無い。愛しい人と歩む生は光り輝いているようにも見える。だから、少女と子供は一生かけて守り抜こう。あの守れなかった日を償うように、精一杯、必ずや。
そして、少女の腕に抱かれた赤子はまた泣いた。