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傲慢と偏見

 閉じていた瞼を開き、厳めしい面持ちの兵士を睨む。


 全身を黒甲冑で身を包んだ兵士は私が目覚めたと思うや否や、サッと顔を背け真正面を見つめていた。


 異国の女がそんなに珍しいのだろうか? それとも敗戦国の姫である私を憐れんでいるのだろうか? いや、戦勝国である彼等に憐れみを感じる心などあるものか。 王国の属国として生かされている国の女である私の立場は非常に低い。彼等がその気になれば馬車の中で私に乱暴を働き、傷物に出来る筈。彼の悪名高い煤の王の私兵ならば、それくらいやっても可笑しくは無い。


 一年と云う短い期間で我が国を攻め落とし、国境近くの村々を焼き払った煤の王。人心を惑わず術に長け、冷酷無比な剣で私の父と母……強いては叔父や祖父を手に掛けた恨みは忘れたりするものか。悪魔に魂を売り渡し、己を神と名乗る悪鬼と噂される王を許しはしない。例えこの身が彼との政略結婚に利用されようと、私が必ず処刑された者達の仇を取る。


 路を往く車輪が止まり、兵の目に緊張と歓喜が入り混じった複雑な色が宿った。窓から外を覗くと、其処には多くの兵と民が集まり、私が馬車から降りるのを待ち侘びているように感じられた。


 「姫様、御着きになられました。少々お待ちください、今扉を」


 「結構です。自分で開けられます」


 「ですが、私共のは貴女様の御身を第一にと命令されております。何卒ご理解の程を」


 「結構です!」


 勢いよく扉を開け、外へ歩み出そうとした瞬間ドレスの裾を踏み、態勢を崩してしまう。


 落ちる―――。こんな無様な真似を敵国で……それも兵と民の前に晒すなんて。思いっきり目を閉じ、痛みと衝撃に備えた瞬間、私の頬に感じたものは冷たい鋼の感触だった。


 「隣国の姫君よ、少々到着の時刻が早いかと存じ上げるが其れは此方の非。準備に手間取ったことを謝罪しよう」


 窪んだ眼孔から覗く淀んだ瞳、痩せこけた頬と血色悪い死人のような青白い肌。黒鉄の甲冑に身を包み、私の両肩を掴んだ長身の男……怨敵である煤の王は兵を一瞥すると「任務ご苦労。ゆっくり休め」と話し、私をゆっくりと足から降ろす。


 「王国の王よ、時間は早くありません。貴国に非など無い筈です」


 「姫よ、其方は勘違いしている。貴国は我が国の僕あり、実質的な執政権は我が握っている云ってもいいものだ。故に、我が早いと言えば時間は進み、我が遅いと言えば針は戻る。納得なされよ、隣国の姫」


 「それは詭弁です王。いいえ、詭弁ではなく屁理屈にも等しい言い分。そんなことを言っても私の心は決して貴男の手に渡ることはありません。この結婚も愛の無い政治的な儀式です」


 「愛……姫よ、愛で腹を満たせるならば我は何度でも其方の耳に甘言を囁こう。我とて姫の愛が我が身に向かれているとは思わない。故に、其方は思うように行動すればいい」


 「私の刃が貴男を突き刺してでも?」


 「馬鹿馬鹿しい考えは止せ。そんな事をしてみろ、貴国が火の海になろうに。其方はそれさえも考え付かない愚痴ではない事を我は知っている」


 私に背を向け、王城へ歩む彼の姿を一瞥した私は隠し持っていたナイフを握り、歯を食い縛る。


 何時か必ずその首を切り落としてみせる。私と結婚したことを後悔させてやる。その傲慢な口から情けない命乞いの言葉を引き出して見せる。それまで精々見栄を張っていればいい。


 「あぁそうだ、其方の弟君だがその御身は此方に預からせて貰った」


 「……何が狙いですか?」


 「幼き頃より知恵を付けさせ、剣の腕を鍛えさせた方が後々役に立つ。それだけよ」


 何ということだ。弟が、まだ三つになったばかりの弟が王の手に落ちたというのか? それに、彼は私の弟で何をするつもりだ? 後々ということは……傀儡政権の傀儡にでもするつもりか?


 「……私に服従を強いるのですか?」


 「それは其方の自由。我が関することではない」


 「……悪魔め」


 「悪魔か。古き時代、悪魔であろうとも神と慕われた者も居る。ならば、其方は我を神と呼ぶのか?」

 「在り得ません」


 「ならば人として見るがいい。人故に、各々が抱く神を見よ」


 神も何も信じていないクセに何を言う。怒りを胸に、深呼吸を二度繰り返した私は王の背を睨み、彼の後ろを歩く。


 此処は敵地。それも魑魅魍魎が跋扈する悪魔の巣窟だ。身のフリ構わず動き回れば必ず王へ報告が入るだろう。今私が成すべき事は従順の仮面を被り、彼の王の隙を見つけることなのだ。


 「何を黙って突っ立っている。来るがいい、新しき住処へ。貴様の身は既に我が手中にあるのだ。歓迎しよう……姫君よ」


 そう言った王は、凍えるような笑みを浮かべ、私を一瞥したのだった。





 私が思い描いていた結婚とは、唯一無二の愛する者と結ばれる儀式めいた契約のことだ。

 親族と貴族が最大の賛辞を送り、国は三日三晩のお祭り染みた饗宴を執り行う。実際、私が元居た国ではそれが普通のことだったし、王族や有力貴族の式は言葉に言い表せない程賑やかで、華やかなものだと記憶している。


 だが、煤の王が支配する王国は例え国王である彼と隣国の姫である私の結婚であろうと関係無いと云った風な慎ましく、倹しい式だった。


 政略結婚……延いては敗戦国の私を娶ることを好ましく思わない者、歓迎されていない身の上であること、強いられた結婚であることは理解出来る。淡々と進む式と抑揚の無い宣誓、一言二言で終わる賛辞の言葉、祭りが執り行われない市政……。元敵国の身であれど、些か違和感を感じてしまうのもまた事実。


 「隣国の姫君」


 「貴女は?」


 「私めは王より貴女様の世話を任された者で御座います。以後お見知りおきを」


 「そうですか。貴女に話す事は何もありません。王は何方へ? 式が終わってからというもの、姿が見えませんが」


 「王は御多忙なる身で御座います。失礼ながら御身との逢瀬の時間は夜間の僅かな間だけかと存じ上げます」


 「多忙とは? 王は下の者への指示とその配下を信頼することが仕事では?」


 「姫君よ、貴女の国ではそうであったかもしれませぬが、我が王はそれ以上に多忙なのです。貴女様は王より自由を与えられている御方……他の者にも話を聞いて御覧なさい」


 「少しでもいいのです。王について何か教えて頂ければ結構なのです。どうか私を哀れだと思うのならば、隣国の世間知らずの姫と思っているのならば、教えて頂けませんか? 王には何も言いませんから……」


 「隣国の姫君よ、王は年老いた私にとても良くしてくれている御方。私から王について語ることは何もありません」


 世話係と名乗った老婆は綺麗に整った風で頭を下げ、背筋を伸ばすと白く濁った眼で私を見据える。


 此処は敵国……それも先の戦争で争い合っていた国なのだ。支配者である王の情報を簡単に話すと思っていなかったが、こうして絶対的な忠誠心を見せられては世話係の老婆から情報を得る事は難しい。


 「分かりました。ありがとうございます」


 「姫君よ、何処へ?」


 「ただ散歩をするだけです。付いて来なくても結構」


 「分かりました。お気をつけて」 扉を開けて、一つ深呼吸した私は夕日に濡れる廊を見渡し、胸に手を当てる。


 王への殺意を気取られてはならない。心臓の鼓動から、呼吸の仕方まで気を配る必要がある。彼が私をただの小娘と断じるよう誘導しなければならないだろう。


 「……お父様、お母様ご覧になっていて下さい。私は……必ずや」


 「必ずや、何だ? 隣国の姫君よ」


 小さな悲鳴をあげ、背後を振り向くと其処には彼の悪逆非道なる王が立っていた。


 「……貴男には関係の無いことです。私に構わないで下さい」


 「我も其方に用があるワケでは無い。偶々通り掛かっただけのこと。そう化け物を見るような目をするな、隣国の姫よ」


 「私にとってはこの王城、王国の大地全てが魑魅魍魎が跋扈する土地でありましょう。式を挙げたからと云って、私の全てを手に入れたと思わないことですね、煤の王」


 「我は全てを手に入れたと思っておらぬ。この掌には必要なモノがあればよい」


 「それは傲慢なる言葉です。私の心だけは決して貴男の手に渡らない」


 「人の言葉を聞くものだぞ姫君よ。我の手は必要なモノだけを握り、不必要なモノを排除する為に在るのだ。我とて易々と人心を得られると思ってはいない」


 「……ふざけたことを」


 「よいか隣国の姫君。我は一度たりともふざけたことは無い。かつて見た宝玉を愛で、その美しい輝きを蝕もうとする陰りを取り払いたいとしたのだ。気高く、誇り高く、玲瓏なる美麗さに心を奪われた者がみっともなく足掻いた結果が我という存在を成り立たせたに過ぎん。そして……我には宝玉を守り、宝石箱を煌めかせる責務がある」


 一瞬だけ、刹那の瞬間だけ、王の窪んだ眼孔の奥にある淀んだ瞳に、仄かな光が見えたような気がした。


 それは気のせいだったのかもしれないし、夕日が見せた幻影だったのかもしれない。現に、彼は踵を返すと床に置いていた山のような書類を抱え、私から視線を外していたのだから。


 「その書類は何ですか?」


 「其方には関係の無いこと。気にするでない」


 「計画書か何かでしょうか?」


 歩き出そうとしていた王がピタリと足を止め、ギョッとした様子で私を睨む。


 「私の国に飽き足らず、他の国をも戦火に巻き込むのですか? 王よ、貴男に人の心が残っているのなら、計画をお止めください。これ以上……民と兵を犠牲にする必要は」


 「ならば其方に何が出来る」


 「……」


 「口で理想を語ることは簡単だ。幼子と稚児にも夢と理想を語る権利がある。だが、それは権利だけであり、理想を実現しようとする行動に伴う義務と責務は発生しない。姫よ、其方は賢しき聡い者。我が言っている事が理解出来ないワケではなかろう」


 傲慢な物言いと、現実的な視点を話す王は私と目が合うとサッと視線を逸らし、再び歩き出す。

 理想を語ることは簡単だ。民を飢えさせたくないと言いつつも、一度も飢えと云う感覚を知らずに育ってきた私は矛盾した心の持ち主なのだろう。祖国の兵が病に冒され、医者を求めていようとも、私は王宮付きの医師に病を診て貰っていた。


 何も言い返せず、口を閉ざしてしまった私はジッと……夕日に濡れる城下町を見下ろし、深い溜息を吐くのだった。





 祖国を発ち、王との結婚式を挙げてから早一ヶ月。私の生活は思い描いていた結婚生活とはかけ離れた……いや、私個人が求めていた形になりつつあった。


 日の出と共に起床し、身支度から朝食までを手早く済ませ、世話係の老婆と世情と市政の話をする。その後、蔵書室へ向かっては昼頃まで過去の改革案に目を通し、改善点と修正案の起案書を纏め上げ、空の本棚へ押し込め昼食を摂る。


 昼からは王の関係者への聞き込みと城下町へお忍びの視察を行い、夕食まで自らの足を以て王国の伝統と文化を自分の目と耳で学ぶ。


 もし復讐を終え、無事に祖国へ戻ることが出来たら国に取り入れるべき施策や技術が余る程あった。少々粗が目立つ改革案も改善点を踏まえ、修正を施せば完璧な形となるものばかりであり、王国の執政官や役人は優秀な者が多い印象がある。


 「……少し宜しいでしょうか」


 「如何に、隣国の姫君よ」


 夕食の前、給仕を取り仕切る老婆へ声を掛け、捲っていた書を閉じる。


 「この国の歴史についての質問です。個人的なものだと受け取って下さい」


 「左様ですか。質問とは?」


 「この国は十年程前から昨今にかけて民の税負担が大幅に軽減されていますね。税が軽くなるということは、力を蓄えた民の暴動を引き起こす可能性があります。貴女が生きてきて……王が冠を戴いた時から一度でも暴動の気配はありましたか?」


 「ありませんね。皆、王を恐れていますので」


 「なら大貴族の大処刑についてお聞きします。民を扇動する方はいらっしゃったのですか?」


 「いいえ。皆、民も役人も王を敬い愛しておりますので」


 「……矛盾していますね。普通、恐怖政治を執る者は民の力に屈するものです。私の国でも三度あったと記憶していますが」


 「貴女様が町を見て回り、市政の状況を鑑みる限りその兆候はおありでしたか?」


 「……いいえ」


 「ならばそれが結果で御座います。隣国の姫よ、王は決して傲慢で冷徹な鞭だけを振るうのではありません。その行動には必ず理由があり、意味がある故に愛され、畏れられているのです」


 夕食の準備を終え、食事が並べられたテーブルを眺めた私は顎に手を当て、思考に耽る。


 今にして思えば王が何処で何をしているのか全く調べていなかった。彼の行動は常に私の思考の枠から外れ、身を視界から逸らしているのだ。式の後……初夜であろうとも私の部屋に訪れず、純潔と誇りを奪わなかった意味が分からない。


 ひょっとすると……彼は私という存在に一切の興味を抱いていないのではなかろうか? 不必要故に私の自由を許し、祖国の執政権を握りたいが為に私という王族を必要としているのか? もしそうだとしたら……彼の欲望の底知れなさは悪魔以上のものだ。


 「隣国の姫よ、何をお考えで?」


 「……いいえ、何も。しかし今日もまた……質素ですね」


 「これがこの国の普通……いいえ、豪華な食事と云うべきでしょう」


 冷えた麦パンと根菜類のスープ、獣肉の焼き物、小瓶に入った少量のワイン……。贅沢な夕食とは言い難い品々を前に、私は故郷の晩餐を思い出す。


 食べても食べても無くならない余りある料理と贅の限りを尽くした数々の貴重な品々。元々小食だった私は王国の料理でも満足出来るが、処刑された父母や叔父叔母がこの料理を見たら憤慨していただろう。


 「王も同じ料理を食べているのですか?」


 「王はもっと違う料理を食べていますよ」


 「貴女方よりも多く……ですか?」


 「そうですね」


 「どういったものを?」


 「申し訳ありません。それは私も分かりかねます」


 「そうですか」


 多く食べているのに、彼のあの痩せこけた顔と死人のような顔色は何なのだ。王とはもっと恰幅の良い様相を民へ晒すものではないのか。


 「……今夜」


 「はい」


 「今夜、王の部屋へ参上したいと思っております。時間が無ければ、別の日でも構わないのですが……」


 「王は貴女様が御自身の足で来られるのを楽しみにしておられましたよ」


 「……」


 「私めも心配だったのです。お世継ぎは何時作るのか……王を貴女が理解してくれるか否かをずっと心配していたのですよ? 嗚呼、お召し物は何に致しましょうか? 貴女様に似合う服があったらいいのですが……」


 「……別に夜を共にしたいワケではありません。それに、私が彼に靡くだなんてそんなことは在り得ない」


 「まま、そう言わずに。あぁ……あの御方が喜ぶ顔を見るのは何時ぶりでしょう……」


 せかせかと動き回る世話係の老婆を眺め、食事を進める私は内心深い溜息を吐いた。





 薄暗い闇に包まれた廊を歩き、老婆の後に続いた私は厚い鋼鉄製の扉の前で深呼吸を繰り返す。

 王と二人きりの場で冷静さを保てるかどうか分からない。彼の顔を見ただけで頭に血が上り、しゃがれて疲れ切った声を聞くだけでこけた頬を引っ叩いてしまいそう……。純白のドレスの裾を握り、意を決して扉を開いた私はランプの灯りと向き合う王の背を視界に映す。


 「我が王よ、隣国の姫が話をしたいと仰っております。どうかお時間を」


 「我には暇が無い。別の時にせよ」


 「ですが王よ、働き詰めは身体に毒と申します。今日だけはお休みになられては如何でしょうか?」

 細い羽ペンを机の引き出しに押し込め、深い溜息を吐いた王がジロリと……溝底の色を宿した瞳を此方へ向け、私と老婆を睨んだ。


 「……隣国の姫よ、我の部屋に入ることを許そう。我が休む以上、世話係である貴様も休め。これは命令だ」


 「王の御心の儘に……」


 私が部屋に足を踏み入れた瞬間、老婆は音も無く扉を閉める。


 「して……何用だ隣国の姫」


 「……お聞きしたい事があります」


 「話すがいい」


 「蔵書室に保管されていた改革案についてです。アレを作成した執政官と話がしたのですが」


 私の言葉を聞いた王が含んだような笑みを浮かべ、僅かに肩を震わせる。


 「何かおかしい事を言いましたか?」


 「いいや、何も可笑しい事は言っていない。そうか……アレを作った執政官と話がしたいと申すか。喜ぶがいい隣国の姫よ、案を作成した者は既に其方の目の前に居る」


 「……貴男が?」


 「如何にも。我が計画し、実行したまでよ」


 改革案の中には年を跨いで計画されていたものがあった。農地改革法、貴族制度の改革、軍法改正、国家間戦略起案書等々……その全てを煤の王自身が立案し、実行したというのか?


 「……真実か否か。私にそれを判断する材料は無く、貴男がやったと話しても確かめる術は無い」


 「そうだ。其方は我の言葉を疑い、問う権利がある。他者の言葉を鵜呑みにせず、己の頭で考える賢さを備えている。故に問おう隣国の姫よ……我の言葉が真実か否かを」


 もし、煤の王が己を傲慢と云う鎧で包み込み、真意をひた隠しにしているのであれば、何故そんなことをするのか問わねばならない。王自身が手柄を大々的に公表し、民の心を握れば支配者としての立場も民衆の支持の下絶対的なものとなる筈だ。


 なのに彼は民に畏れられるように振る舞い、恐ろし気な風貌を正そうとしない。王が優しき人ならば、戦争を起こさない筈。


 「……一つお聞きしたいことがあります」


 「何か」


 「何故……私の国へ攻め込んだのですか? 何故私の父母を……叔父と叔母を処刑したのですか!? そんなことをせずとも、貴男ならば友好的な条約を結ぶ手段を講じれた筈!! どうして!!」


 「時間が無かった。それだけのことよ」


 「時間が、無かった?」


 「如何にも。此度の戦は我が国だけの問題ではない。腐敗した玉座を一掃し、隣国から流れて来るであろう毒を絶やす為の手段であった。そして……我個人の想いも絡んでいたと云ってもいい」


 トン、と。椅子の肘掛けを叩いていた王の指が止まり、私と目を合わせる。


 「姫よ、其方は国を何と見る」


 「……哲学の問答をしているのではありません」


 「我が問うのは哲学等ではない。政を取り仕切る者としての問い。要は国家論とでも云うべきか。我は其方の問いに答えたのだ。次は我の問いに答えるのが筋であろう」


 国とは、政治とは、誰の為に取り仕切るかを王は問う。


 「……国とは一種の箱庭に過ぎません。社会という枠組みの中、民と王、貴族の階級が存在する。政治が誰の為に成されるのかと問われれば、それは国に生きる人間の為。決して個人や組織の欲望に染められてはならないのです」


 「そうだ。国は我々王族のものでもないし、民や貴族のものでもない。その地に生きる人間のものである。過去、現在、未来……赤子から老人まで、今この瞬間を生きる皆が個々人の責を負い、義務を果たさねば国は朽ち、人という命もまた枯れ落ち死ぬ。姫よ、其方の父母等はそれを怠り、愛すべき我が子をも手に掛けようとしていたのだ」


 「……嘘だ」


 「其方の眼に我がどう映ろうと、我の言葉が届かなかろうと、其方にだけは嘘を吐かぬ」


 「嘘だ!! あ、貴男は、私の心を乱そうと、惑わそうとしている!! 貴男のような悪魔に、煤の王と呼ばれる貴男に私は決して騙されない!!」


 嘘だ。父と母が私を殺そうとしていたなんて、ある筈が無い! 王は私を騙そうとしているに違いない! 噂に聞く悪逆非道の暴君が……真実を口にする筈が無い……!


 だが、もしも、彼が本当の事を言っていたらどうする? 夜遅くまで……国の為にペンを走らせていた王が、私個人に対して嘘を吐く意味があるのだろうか?


 彼が話した戦争の理由。個人的な想い。年を跨いでの計画……。彼が噂通りの人物ならば、この国は荒廃を極めていただろう。だが、現に王が治める国は栄華を誇り、繁栄の道を辿っている。


 「……姫よ、今日は少し冷えるな。床へ戻り、休むがいい」


 「……」


 多分、恐らく、私は重大な勘違いをしているのだろう。凝り固まった偏見で人を見て、彼の心遣いに気付いていない……いや、気づかなかったフリをしていたのだ。


 「……王、私と正面から向かい合っていただけませんか?」


 「不要だ」


 「なら私は床へは戻りません。貴男が眠るまで、共に起きていましょう」


 「……」


 王はまたもや深い溜め息を吐き、月明かりが差し込む窓辺へ歩むと古い椅子に腰掛け。


 「……少し、昔話をしよう隣国の姫よ」


 と、顎に拳を当てた。




 「姫よ、其方は光を見た事があるか?」


 「光……ですか?」


 「如何にも。陽光のように照り輝き、闇散らす天高き星々を思わせる光明……。我には存在し得ぬ光を守り、愛しむ為に伸ばした手の形を覚えているか? 我の眼にはそれが今尚焼き付いておるのだ。深淵を歩き続け、その先に見た星に追いつきたいと願った故に、我が在る」


 王がジッと己の掌を見つめ、ギュウと握り締める。


 「花を愛でるのは人心故に。人が花を愛でるのは刹那の美しさを見る為か? それとも、その過程を振り返る為か? 隣国の姫よ、我は生涯一度たりとて花を愛でようとする者の心が分からなかったのだ。何故時が経てば枯れ落ちる命を愛でるのか……悲しみを噛み締めたいと思う者の心は到底理解出来なかった。だが、今となっては理解出来るのだ姫よ。人も花も……同じなのだ」


 ポツリと、テーブルの上に置かれた白花を見つめた王はそっと花弁を撫で、暫し黙る。


 白花……それは私が好きな花だった。薄い花弁と細い茎。今にも枯れてしまいそうな風体でありながらも、土に根を張り巡らせて強く生きる花。その生き方が、強さが、羨ましいと思った。


 「……王よ、貴男が見た光とは……花や視覚的な光ではない。そうですね?」


 「……あぁ。我は、憧れていた。民や臣下、貴族を同じ人間として見ている者に憧れたのだ姫よ。我はその者の為に我が身がどうなろうと知ったことではない。どれだけ悪と罵られ、悪魔と云われようが受け入れるよう。我が愛が……献身が、その者に伝わらなかったとしても、我は宝石を穢す手を払い除けるのみ。今は煤だらけの宝石箱であろうと……時間を掛けて煌めかせるのだ」


 彼は……誰かの為に戦争を起こし、私の国を支配下の置いたのだろう。王が言う宝石とはその誰かであり、宝石箱とは国そのもの。宝石箱に入っている宝石を民と考えれば、彼の治世は人の為にある。


 「……王よ、勘違い甚だしいと思いますが、宝石とは、花とは、もしかして……私のことですか?」


 「……」


 「もし、もし、そうだとしたら、ハッキリと申さないのですか? 何故私を遠くに置こうとするのですか? 何故……」


 今にして思えば、私の身の周りにあるものは全て私個人の為に調達されていたような気がした。

 蔵書室の改革案、食事、生活環境、身の自由……。私という不穏分子の塊を城の衛兵は皆守るようにして歩き、衣服にしても世話係の老婆が私の好みを完璧に把握していた事実に気付き、息を呑む。


 「……其方の国は既に死に体だった」


 「……」


 「腐敗した貴族、己が玉座の為に姫を殺めようとした王族、蔓延した麻薬と云う毒……。それらを一掃し、浄化する為には時間が幾らあっても足りなかったのだ。我は……其方に恨まれようとも、殺意を抱かれようとも、この身を救ってくれた其方を助けたかった」


 唖然とし、実際の状況と説明からそれが真実であると理解せざるを得なかった。


 「……私は、貴男を救った記憶がありません」


 「あぁそうだろう。だが、我にはハッキリと覚えている。ある舞踏会の日、他の参列者から不気味がられていた我に手を差し伸べ、声高らかに偏見を持つなと云った其方の背を忘れられる筈が無い。あの日から我は其方に見合う男になりたいと願い、自己研鑽を重ねてきた。だが、今の我は其方が一喝した者共と同じような……傲慢な物言いしか出来なくなってしまった」


 あぁ……と、彼があの時の、舞踏会の外で物を書いていた男だったのか。


 他の参列者が化け物と噂し、鬼のようだと言っていた風貌の青年。今の彼は昔よりも少しだけ痩せてしまって、顔色も良くなかったが、よくよく見てみるとかつての面影が見て取れた。


 「……王よ」


 「……」


 「私達の関係は傲慢と偏見に満ちていたものだったのかもしれません」


 偏見は目を曇らせ、傲慢は心を隠す。


 「だから……もっと、もう少しだけ、心と言葉を交わす必要があります」


 私は夜空に浮かぶ月を見上げ、王の瞳へ視線を寄せ。


 「私の心が偏見から抜け出せるよう、そして、真っ直ぐな瞳で貴男を見つめることが出来るようになれるまで、時間を掛けましょう。多分、いえ、きっと……本当の始まりは其処にあるのですから」


 彼の手を、ゆっくりと握った。

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