ガス灯のおんもらとした灯りが通りを照らし、石畳で作られた橋を照らす。
風呂敷を担ぎ、下宿先へ駆けていた女学生はふぅと息を吐き、黒とガス明りで照らされた河を覗き込む。
真っ黒い水の表面に浮かぶ淡い灯り。ジッと見つめる程に距離が狭まり手を伸ばせば掴み取れそうと思える水灯篭。呆けたように河を見つめていた女学生はハッと意識を水面から引き剥がし、頭を振るう。
昔、生家の婆様から聞いたことがある。仄暗い水の底には鬼霊が住み、生者が河に落ちてくるのを待っているのだと。人を喰らい、醜悪な面貌を隠すように生皮を剥ぐ鬼が、河の泥濘に身を潜めていると……。
危ない危ないと額から流れ落ちた汗を拭い、一歩後ずさった女学生が背後を振り向くと其処には河と同じ色の真っ黒い外套を羽織った男が立っていた。
「お嬢さん、夜半に河を覗くたぁ感心せんな」
青白い肌と丸眼鏡の奥に見える生気を失ったどす黒い瞳……。幾分か時代遅れの煙管を咥え、紫煙を吐き出した男は身に纏う甚平の裾から鈍色の短刀を取り出し。
「娘一人で歩くにゃせめてこれくらい持っておきなされ。護身用とでも思えばいいさね」
氷のように冷たい掌を女学生の手に合わせ、短刀を握らせた。
恐怖と混乱に陥った人間は動く事も儘ならず、その場に立ち尽くすとよく言ったもの。現に女学生は男の顔から目を逸らせず、身を震わせることしか出来なかったのだから。
鬼、それは人を騙し、喰らう者。
鬼、それは醜悪なる面貌を隠し、狂い笑う者。
鬼……それは、生者ならざる死人也。
婆様の身体が冷たかったように、男の掌はそれ以上に冷たかった。それは宛ら幼き頃……幼少の時分に感じた河のよう。故に、女学生は男が鬼に見え、ぎゅうと瞼を閉じてしまった。
さらさらと、ざわざわと、瞼の裏で形作られた闇が音を怪奇へ成り済まし、聞こえもしなかった女の声が鼓膜を叩く。
怪しさと不気味さで彩られた男が渡した短刀を握り締め、その場に蹲った女学生は耳を塞ぎ、額を地面に擦り付ける。
恐ろしい、夜に出歩くのではなかった。家主の目を盗んで友人宅へ行くべきではなかった……。見えやしない女の面が涙を流し、さめざめとすすり泣く。
右へ揺れ、左へ振れて、真正面を向く女面が徐々に近づき、女学生の面に取って変わろうとした瞬間、凛とした鈴の音が響いた。美しい一滴を思わせる鈴の音は女学生の鼓膜にこびり付いた雑音を散らすと同時に、女面を払い除ける。
「あんまり怖がるもんじゃないよ、お嬢さん。ほれ、空を見上げてみなさいな。今日は実に月が綺麗だと思わんかね」
「……」
「あっしは決して怪しい者では御座いやせん。ほぅれ、目を開けて、明かりをご覧なさい。人が灯した明かりじゃなく、自然の明かりを見なさいな」
恐る恐る瞼を上げ、闇の先に見えたのは弾けて燃える火の提灯。火薬の臭いとぽぅと燃え落ちる紅い火種はなんて事のない線香花火。
「嘘を言ってごめんなさいね。けど、綺麗でしょう?」
「……あ、と」
「お嬢さん、勘違いしなさんな。アンタがあっしを死霊か亡者と思うおうが、あっしはしがない放蕩人。ただ綺麗な月を見て、歩いていたら身形の良い娘っ子が河をみていたもんだ。こりゃあ危ないって思ってね、少しばかり近づいただけでさァ」
ニッコリと笑い、女学生の手を握って立ち上がらせた男は灰となった煙草を河へ捨て、新しい葉っぱを煙管の火口に押し込める。
「放蕩人……あのぉ、お兄さんは、働いていないんですか?」
「時偶働くねぇ、人間働かなきゃ飯は食えんからさ」
「……こんな時間まで?」
「ありゃ随分と鈍い娘っ子だ。こんな時間まで働くのはありえんことだろう? ガス灯ったって未だ国営工場にもそう普及しちゃいないんだ。昼に働いて、夕刻には切り上げて帰る。それがあっしの一日でさァ」
「下宿先の旦那さんは遅くまで働いてますよ?」
「君ねぇ、そりゃ金持ちはそうだろう? 貧乏暇なし、金持ち時間なしってね。昔からそう言うもんさね」
何処か古風な話し方……。煙管を口に咥えた男はほぅれと女学生を手招きし、橋の先を指差すと。
「良い学び舎に通ってるんだ。お嬢さん、夜はしっかりと眠って、明日に備え給えよ。さ、帰った帰った」
「は、はい」
しっしと手を払った男へ会釈を返し、駆け足で橋を渡った女学生は思う。
己はあの男と出会ったことはあっただろうか? 何故男は己が人よりも良い学び舎へ通っている事を知っているのだろうか? 男は何故―――。
背後を振り返り、ガス灯の合間に揺れる仄暗い闇を見据えた女学生の視界の先には曖昧な黒が広がり、まるで最初から其処には何も無かったと言わんばかりの影だけが在り。
忘れかけていた恐怖が足を止めてしまう前に、彼女は息を切らしながら家路へ着いたのだった。
鬼に魅入られるよりも、仏に魅入られた方がよっぽど怖い。
少女の頭を撫で、団扇で扇いでくれていた婆様がぽつりと呟き、皺に塗れた頬を強張らせる。
「いいかい? 仏様は実に信用ならんのだよ、生かすも殺すも天上楽土に居られる仏次第。あたしゃね……鬼の方が信じられるさね」
「どうして?」
「生かすか殺すかの二択を迫られるより、殺される方が潔い。それは……人の世も同じかねぇ」
凛とした風鈴の鈴の音が、さわさわと風に揺れる草の音が、少女の鼓膜を叩き深い眠気を誘い込む。
「……お祖母様は」
「何だい?」
「仏様や、鬼に逢うたことがあるのですか?」
「どうだろうね……仏に逢ったことは無いけれど、鬼に逢うたことはあるかもしれないね」
「鬼に?」
あぁそうさ。あれは……。
耐え難い眠気と微睡む意識。ゆっくりと、静かに瞼を閉じる少女は祖母が言った言葉を、最後の切れ端を聞く。
真っ黒い、沼底のような瞳を持った、男だったね。
「……」
ふと瞼を上げた少女……女学生はカチコチと振り子を回す時計を見る。
夢……懐かしい記憶。故郷の婆様が出てくる夢を見るなんて、何時ぶりだろう。じっとりとした汗を拭い、枕元に置いていた短刀を見つめた少女は時計の針が指し示す刻を見て、サッと血の気を失わせる。
時刻は午前八時を少しばかり過ぎたところ。身支度を整え、学び舎へ駆けていこうとも既に遅い時間。
真面目も真面目、生真面目を通り越して馬鹿真面目と評すべき女学生はそれでも布団から跳ね起き、寝具を綺麗に畳むと手早くを支度を済ませ、階段を駆け下りる。
「おや、おはよう。今日は随分と急いでいるんだね」
「おはようございます!」
「うん、実に良い挨拶だ。あぁ、今日の夕方なんだが」
「すみません! お話は後ほど!」
黒縁の眼鏡を掛け、珈琲を啜りながら笑顔を湛える青年を他所に、女学生は靴を履く。
「うぅむ。大事な話なんだが、それでもかい?」
「えっと……少しだけなら。はい」
「今晩君の父上が私の家に訪れるそうでね。此方も大事な娘さんを預かっている身。出来れば昨日の夜のような……夜中に友人宅へ遊びに行かないでくれた方が助かる。約束できるかい?」
「は、はぁ……申し訳ありません」
もし都会の学校で学を得たいのなら、先方に迷惑を掛けるんじゃないぞ。故郷から出る前、多くの使用人から見送られる己にそう言った父の顔を思い出し、僅かに頷いた女学生はバツの悪そうな表情を浮かべてしまう。
父の知り合い……公私上良い仲である下宿先の青年には苦労しない生活を送らせて貰っている。衣食住、金銭、必要物品等々多くの援助をしてくれる青年は善人であると断言出来よう。
「じゃ、じゃぁ、今日は真っ直ぐ帰ってきますね」
「宜しく頼むよ。それに、最近は物騒だからね」
「物騒?」
「おや、知らないのかい? 今朝の新聞だったかな……女の人が殺されたらしいね、うん」
サァ……っと、女学生の背が冷え、河の橋で聞いた声を思い出す。
「あんまり遅くなるんじゃないよ? 心配だからね」
「……はい」
左右に振れて、迫る泣きっ面の女面。すすり泣く女の声……。夢か現か幻か、昨夜の出来事を思い出した少女は頭を振るい、ドアノブを握る。
「あ、それともう一つ!」
「なんですか?」
「もし君が良ければだが、あの娘を連れて来るといい。ほら、君の友人の……手脚が綺麗な娘さんをね。夕食をご馳走しよう」
「あ、はい。分かりました」
明るい笑顔で手を振る青年へ会釈した少女は、脳裏に浮かんだ女面を振り払い、学び舎へ急ぐ。
己は霊や怪奇の類を容易に信じてしまう癖がある。学友から恐ろしげな怪奇譚を聞いては身を震わせ、あゝでも無い、こうでもないと考え込んでしまうのだ。
昼の内なら恐怖も希釈された茶のように飲み下せる。だがしかし……夜中となればそうもいくまい。
ハァと溜息を吐き、河に架かった橋を見た少女は黒い外套を靡かせる男を視界に映す。
「あんれまぁお嬢さん、また会ったねぇ。学び舎はどうしたのさ」
「えっと、昨夜ぶりですね。学校には今から向かうところです」
「今からかね? 寝坊たぁ感心せんな」
ケタケタと笑い、煙管を咥えた男は昨夜と同じように紫煙を吐き出し外套のポッケに手を突っ込む。
太陽の下であろうとも、月夜の中であろうとも、男は外套を羽織り、甚平を纏っていた。夜間と違う点と云えば、彼の青白い肌は陽光に照らされていたせいで白を通り越して透明に見えていたくらいだろう。
「あの、失礼します。急いでますので」
「あゝ暫し待ちなされ。少しばかりあっしと話してくれてもよかろうに」
「……逢瀬の話なら他をあたって下さい。私は」
「お嬢さん、あんたに死相が見えとるよ」
歩み出した女学生の足が止まり、その場に縫い付けられ。
「死にとうないなら足を止めよ。若芽が摘まれるなんてこたぁあっしも我慢出来んのさ」
男と少女は暫し見つめ合う。
水が満たされた金魚鉢に放り込まれたかのような息苦しさ。男のどす黒い瞳が妖しく揺らめき、滑るようにして少女へ歩み寄り、嗤う。
「私を、どうするつもり、ですか?」
「いんや? あっしはあんたをどうするつもりもないさね。けど……うむ。可愛らしい娘っ子に声を掛けてしまうってのは、男としての性とよう言ったもんさな」
「軟派な男性は余り好きではありません」
「硬派も軟派も人の眼が映した描像さね。お嬢さん、あっし程一途で人を思いやる者は居らんさ。どうだい? 一つ茶や菓子でも引っ掛けられてみなさんね」
スゥっと差し出された手を包み込む牛革製の手袋が、疑惑の眼に映り込む。
本音を言えば男のような怪しい人物と関わり合いたくは無い。だが、此処で断って要らぬ禍根を残せば何をされるか分かったものじゃない。
「……私、お金は出しませんよ」
「なぁに要らぬ心配よ。ほれ、あれだ……コゥヒィなるものを食してみよう。いやはや、あっしは喫茶店と云うハイカラなものとてんで縁が無くてな。お嬢さんのような華のある娘っ子となら入れようか」
ウンウン頷き目を細めた男の言葉はやはり何処か古めかしく、耳に馴染まぬもの。
さぁと手を引かれ、橋を歩き出す女学生は諦めたような溜息を吐き、友人が語っていた近頃の男性像を男に重ねたのだった。
橋を渡りきり、少しばかり歩いた先には洒落た店が建ち並ぶ通りがある。
古式ゆかしい茶屋と煉瓦造の様式喫茶、和洋折衷混沌乱立。歩く人の姿が和装多なれど、ハイカラ傾いて外套靡かせる者も少なく無し。
男と女学生と云う組み合わせは珍しくも無く、二人を奇異な目で見る者は誰も居ない。だが、やはりと云うべきか、何成れば……男の異貌が風体が、人の目を引くのだ。
死人のように白い肌、光を宿さぬ溝底のような瞳、煙を燻らす細長い煙管……。飄々とする男とは別に、女学生はこんな真昼間から異性と通りを歩くことに思わず身を強張らせてしまう。
「お嬢さん、見てみんさい。街の景色は実に様変わりしたものだ。うむ、時代も人もちょいとばかし目を離したら風のように通り過ぎてしまう。老人にとっては諸行無常なれど、若人は文明開化の時を肌で感じているさね」
「まぁ、えぇ、そうですね」
「ほれ、ここ等辺には昔馴染の飯屋があったんだけどね、この激動の時代に流され店も人も変わってしまった。何とまぁ主人の娘さん……看板娘がやったら可愛くってなぁ、街の男衆が口説いて回ったもんだが、結局は良い人を自分で見つけてくっ付いたのよ。そんで、あそこの劇場はシェイクスピァの歌舞伎を演じた場所さ。演目名は確か……何桜彼桜銭世中だったかな?」
「あ、それなら御本で読んだことがあります!」
「そうかい、実に良い話だったねぇ。お嬢さんは八十日間世界一周も読んだことがあるかい?」
「はい! えっと、西洋の御本なら海底紀行六万英里や全世界一大奇書も好きなんです!」
「お? お嬢さん中々の読書家だねぇ。うん、見てくれ通り利発な知恵者さね。近頃の娘っ子はみぃんな西洋の本を読むのかい?」
「あ、それは多分……私だけかと。友達は手芸や詩を嗜んでいまして」
「ならお嬢さんも手芸を?」
「私は手先が無器用なんですよ。学校でもよく針を指先に刺して……」
嬉し恥ずかし入り混じった笑顔を浮かべ、頬を掻いた女学生へ「なぁに、人には得意不得意があるもんさ」と男は話し。
「お嬢さんの将来は小説家かな? それだけ本を読んでれば頭の中には数多の空想があるのだろう?」
驚いたような表情を浮かべる女学生を一瞥する。
「小説家だなんてそんな……。物書きのような低俗な職をお父様が認めてくれるかどうか」
「いやはやお嬢さん、物書きを低俗な職と見做しているのなら、それは偏見さね。どんな職であれ、一定の需要さえ満たせれば低俗や高尚もないのさ。現に、かの有名な芥川先生の小説は世間に評価され始めているだろう? 時代の移り変わりと共に、職の貴賤も変わるのさ」
金装飾のドアノブを握り、新しいのか古いのか判別がつかない扉を開けた男は馴染の喫茶店へ少女を誘う。
モダン味が強い西欧風の喫茶店。紳士服を着飾るマスターと思わしき老人が男と少女をチラリと見据え、珈琲カップを手拭いで拭った。
「マスタァ、コゥヒィなるものを二つと……そうさね、カスティラを四切れ程貰おう。席は何処でも構わないかね?」
「どうぞご自由に」
「ありがとさん。ならあそこにしよう」
柔らかな陽光が差し込む窓辺の席を選び、椅子を引いて少女を座らせた男は対面の椅子に腰かけ、笑みを湛えると。
「お嬢さん、今日ばっかしは家へ帰らない方がいい。大人しく御友人の家に泊まることだね」
ずり落ちた丸眼鏡を人差し指で鼻上に戻し、そう言った。
「……あの」
「何か?」
「ハッキリ云って、胡散臭いと思うんです」
「あぁ、あっしの言葉が胡散臭いと? いや待て言わずとも分かる。時にお嬢さん、あんたは何と言えばいいか……うん、鬼や仏に好かれるような質なんだ。身に覚えがないかい? 身内からそんな話を聞かされたとかさ」
無い……と云えば嘘になる。
今朝の夢を思い出した女学生は何時の間にか置かれていた珈琲の……黒い水面に映る己を見つめた。
「……昔」
「うん」
「……昔、御祖母様から鬼と仏様について聞かされたことがあります」
幼い頃、縁側で聞かされた話。
「御祖母様は鬼より仏の方が怖いと仰言っていました。仏は生かして殺し、鬼はただ殺すだけだと」
何故祖母が仏の方を畏れたのか、鬼の方が信用できると話したのか分からない。だが、女学生からしたらやはり仏よりも鬼の方が恐ろしい。
「私の故郷には鬼に関する逸話や伝承が沢山あるんです。人を喰った鬼の話とか、野武士の首を集めて回った鬼の話……。どれも子供の躾に使われるような話でしたけど、その中でも何だかこう……異質な話があるんです」
「へぇ、どんな?」
「それは……あるお姫様と鬼の話です」
少女の故郷に伝わる鬼の話はどれも恐怖心や不安感を煽るものばかりだったが、彼女が口にしたものはそれとは全く正反対の話。人と化け物の悲恋と評すべきものだった。
「……お嬢さん、その話は確か最後に鬼が討たれる話だろう?」
「知ってるんですか?」
「一度だけ聞いて、余りにも馬鹿馬鹿しいと思った話さ。第一鬼が人と添い遂げられる筈がなかろうにな。人外故に鬼と呼ばれ、厄を齎す故に相容れぬ存在。それが鬼さ、お嬢さん」
煙管を咥え、火種を燻らせた男は皮肉めいた笑みを浮かべ、テーブルを二度指先で叩く。
「けど、私はこの話が好きなんです。何だか他人事じゃないような気がして……。それに、鬼が最期に言った言葉、何年、何世時が経とうとも、必ずこの恩に報いよう。それだけ深い愛を抱かれたお姫様が少し……羨ましいとさえ思いました」
何年、世代を超えてでも受けた恩を返そうとする鬼は、姫のことを愛していたに違いない。たとえその身が人外のものであろうとも。
もしも己がその言葉と思いを語られてしまったら、カァッと頬を赤らめて仕舞うだろう。相手が鬼であろうとも、恋をしてしまう。
少女は熱くなる頬に手を添え、恥ずかしながら俯くと珈琲を飲むフリをして顔を隠した。
「お嬢さん、それは恐らく作り話さ。鬼がそんなに律儀な筈がなかろうて」
「で、でも、素敵じゃないですか! あの、永遠の愛を誓っているんですよ!? お、女の子からしたら、憧れても仕方ないじゃ」
「そうさな。うん、あんたがそう思っているなら、その話も無駄じゃなかった。そういう事にしておこう」
紫煙が煙管の先から上り、カンと灰受けに火種が落ちる。
「なぁお嬢さん、もっとあんたの話を聞かせてくれないか? 鬼以外の、仏の話とかさ」
「仏の話ですか? えっと、それなら」
こんな話はどうでしょう? 己が覚えている話を語り、時には趣味嗜好の話も交えながら言葉を交わす男と女学生は、時間も忘れて話に没頭する。
久方ぶりの満足感。僅かに混じる異性との気恥かしさ。人が少ない喫茶店の中、話に華を咲かせた少女は昨夜感じた恐怖も忘れ、嬉しそうな笑顔を浮かべるのだった。
刻過ぎて、日が回れば陽光は斜陽の色を帯びるもの。
ボゥッと呆けたように窓の外を眺めていた少女は男との語らいを思い出し、深い溜め息を吐く。
結局少女は男と昼頃まで話し込み、学校に着いた時刻は一時を過ぎた頃だった。
嗚呼……教員から下宿先に連絡が入ったらどうしよう……。青年から何を言われるか分かったものではない……。もしかしたら、父にも報告が入るかもしれない……。
けど、それでも、少女は熱い息を吐き、男に想いを馳せる。
何処か放っておけないような、意識しなければ消えて無くなってしまいそうな、掴みどころの無い霧のような男。最初は幽鬼の類かと邪推したものだが、蓋を開けてみれば古風な雰囲気を纏う文化人。
もう一度……橋へ行ってみれば彼に会えるだろうか? それとも……夜の河へ向かえばいいのだろうか? 頬杖をつき、夕焼けを眺めていた少女はもう一度溜息を吐いてしまう。
黒川の ほとり佇む 黒の君
月夜夢見て 未だ見ぬ夢
ふと、そんな詩を口ずさんだ少女はハッと息を呑むと周囲を見回し他の学生が居ない事を確認する。
こんなところを誰かに見られたらと思うと頬が熱くなり、羞恥に俯いてしまう。少女は荷物を引っ掴み、早足で学び舎を後にすると自然に橋の方向へ足を伸ばす。黄昏色に濡れる河を眺め、男の姿が見えないことに少女は肩を落とした。
「おや、今日は随分と早いね」
不意にかけられた声に背筋を伸ばし、振り返った少女の眼に映るは眼鏡を掛けた好青年。下宿先の主人が軽く笑い、彼女の手荷物を代わりに持つ。
「私を待っていたのかい?」
「あ、えっと」
「冗談さ、冗談。ところで、君の友達はどうしたんだい?」
「友達、ですか?」
「あぁ、都合が悪かったならまた今度にしよう。ほら、家に帰ろうじゃないか。うん、それがいい」
少女の背を押した青年は他愛もない話を繰り返し、橋の真ん中を歩く。少女もまた曖昧な返事と当たり障りのない言葉を返す。彼の横半歩後ろを歩き、ふと視線を河へ向けると其処には何時の間にか黒い男が立っていた。
「あ―――」
「ん?」
「あ、その、少し待っていて下さい。知人が」
「知人―――」
青年の顔色がサァっと青褪め男を凝視する。斜陽オレンジに染まりながらも青になる青年は風鈴を思わせる奇妙な顔色。全身をガクガクと震わせ、黒から眼を外せない青年へ男はゆっくりと歩み寄り。
「お前さん―――」
何人食った? 耳元でそう呟いた。
冷たい汗が噴き出るような感覚だった。男のドス黒い瞳が青年の向こう側をジッと見つめ、肩を叩く。その瞬間、絵にもし難い泣き叫ぶ女面が男の背後でゆったりと揺れ、金切り声を発しながら一枚、また一枚と浮き上がる。
鬼、それは人を喰らう醜悪なる面貌。
鬼、それは人を騙し、誑かし、血肉を啜る異形なる者。
鬼……それは、人が抱く歪んだ狂気。
「お嬢さん、生きたいか? それとも死にたいか? 選びなされ」
「え、は、え?」
「まぁどちらを選ぼうが結果は変わらんさね。あっしは約束通り鬼を斬るだけさ」
男はそう言うと少女を抱き寄せ喉の奥に手を突っ込む。唾液に濡れた大太刀がぬらりと煌めきながら刃を煌めかせ、刀身に青年を反射させると女面を同時に映す。
「ま、待ってくれないか? な、何かの間違いじゃ」
「待てない」
「聞いてくれよ、仲間だろう? お前も鬼なら」
「残念、あっしはもう二百年近く人を喰うとらん。人食い、お前さんはこの時代に人を喰い過ぎた。だが、まだ人を喰うだけならあっしは何も言わんかったし、お前さんの前にも現れん。だけどな、このお嬢さんを喰おうとしていたのなら、話は別だ」
「何を言ってるんですか? 人食い? 鬼? 貴男は」
「死を待ち、死を知らせる者。お前さんの婆様……それこそもっと前の御先祖様はあっしのことを」
死鬼と呼んだよ。太刀を振るい、青年を真っ二つに斬り裂き灰燼へ帰した男は眼鏡を上げ、そう言った。