何時も通り、時間も場所も寸分違わぬ場所で煙草を吸う。
眼下には見慣れたネオンが煌めき、変わり映えしない人々がいた。足下から濃い影法師を伸ばした人々の中には、孤独を好んで一人で行動する者、道に広がって歩く者等、実に多種多様な人間模様が表れているように見える。
ふと、視線を路地裏へ続く通路へやる。一組の男女が路地へ踏み入り、歩を進める。男はスーツを着たサラリーマンのような風体で、女は学生服をダラしなく着る金髪の少女だった。
何やら良からぬ空気を感じたが、俺には関係の無いことだ。どうせビルの屋上には俺以外誰も訪れないし、来ようともしない。彼等を暫し眺めていた俺は、二人の目的地がこのビルであると進行方向から推測する。
ビルにはラブホテルや売春宿は存在しない。十階建てのビルの外壁は罅割れ、硝子は何枚も割れているのに何故此処に足を伸ばす。俺は煙草の火種を鉄柵で押し潰し、薄い紫煙を吐き出すと屋上の出入り口へ視線を向ける。
階段を上っているならば足音だけで、誰が何人で何処の階層を歩いているか直ぐ分かる。足音の大きさ、歩幅、衣服の摩擦音……俺の経験上、人は動くだけで己の存在を否応無しに叫び、存在を誇張する。ジッと耳を澄ませ、階段からの足音が聞こえないことを確認した俺は、二人はビルの中に足を踏み入れたと認識する。
特に害を成すわけでなければ、俺は何もしない。声を掛けたり、不要な争い事も御免被りたい気持ちで一杯だ。だが、害を成す意思と悪意があるのならば俺も動かざるを得ないだろう。このビルから立ち去るよう、お話をしなければならない。
その場から微動だにせず、扉を見つめる。ジッと、呼吸と視線だけに意識を注ぎ、耳を澄ませていたところ、小五月蝿い女の声が聞こえた。
「それでさ、おじさん。撮影ありなら三万円、無しなら二万円だけど、どうする?」
「五万出すから、本番は駄目かな?」
「本番は無しなんだよねぇ。えっと、ゴムは持ってる?」
金額交渉の声。会話内容から、援助交際或いは売春の可能性が浮上したが、未成年者の売春は条例によって禁止されている。ならば、少女と男が行おうとしている行為は違法行為に他ならない。
俺はビルの屋上で性行為に耽ろうとする男女の会話を聞き流し、溜息を吐く。
こんな廃墟同然のビルに足を伸ばす人間に碌な奴は居ない。昨日訪れた自殺願望を持つ自称優等生と、時折俺の様子を見に来る女、俺を含めた全員が何かしらの事情を胸に抱えており、屋上へ歩を進める男女もその類だと推測する。
「けどさぁ、おじさんもモノ好きだよね。こんなおっかないビルの屋上でシタイなんてさ。ホント、今にも何か出てきそうな……」
少女が背後の男に蹴られ、コンクリートに転がった。一瞬、彼女は何が起こったのか理解出来ない様子でいたが、肘と膝の痛みに蹲る。
人気の無い廃墟同然のビル。誰も居ないかのように思える屋上で、男に蹴られ転がる少女。以上のことから、男が次に移す行動は二つに絞られる。
犯すか、殺すか。少女と目が合った俺は、自身の口元に人差し指を当て、沈黙を促す。
「駄目だよ!! 若くて可愛い子が!! 将来が楽しみな子が、おじさんみたいな人に付いて来たらさァ!! 殺されるかもしれないだよ!? 犯されちゃうかもしれないんだよ!? 分かってる!? 本当に分かってる!?」
男は少女に跨り、その細い首を絞め上げる。顔全体を紅潮させ、額に汗を掻きながら両手に力を込める。
少女は男の手を掻き毟り、何とか窒息死を免れようとするが、圧倒的な力の差の前では無意味な抵抗に等しい。俺は一組の男女の破滅を眺めながら、煙草を咥え火を着ける。
基本的に、人間が首を絞められ死に瀕する時間は一分前後とされている。 勿論、この時間は物事が起こる前……即ち殺意の予備動作の時間を省いたものだ。
現在、少女が男に蹴られ、転がって痛みに呻いた事で肺の酸素量、又は血中酸素濃度は平常時に比べ減少しているだろう。このことから、少女の寿命は後三十秒程だと仮定し、彼女がどのような選択を取るか観察する。
助けを求めるか否か。俺は相手が俺自身に関わって来ないなら、手を伸ばさない。手を伸ばそうとも思わない。人間同士の関係性は非常に繊細で、儚く脆い。少女が死を受け入れるならば、俺の取る行動は無意味なのだから。
だが、それでも、少女が生きたいと願い、手を伸ばし助けを求めた時、俺は。
「死んじゃうよぉ? 死んじゃうよ!? 本当に―――」彼女の命を救う為「少し黙れよ」行動せざるを得ない。
男の脇腹を蹴り飛ばし、薄い紫煙を吐く。窒息寸前だった少女は激しくムセ込み、顔を真っ赤に染める。
「あ、アンタ、誰だ!? こ、此処は廃墟の筈だぞ!?」
「廃墟……今はそうなっているのか。時間が経つのは早いな」
俺を見上げる少女は幽霊か化け物でも見たような表情を浮かべ、胸を手で押さえる。一応医者に見せるべきであるのだが、今は目の前の男を対処するべきだ。
「一つ、このビルは一昨日俺が買い取った建物だ。廃墟ではない。二つ、俺が所有している不動産で殺人事件が発生した場合、俺は面倒事に巻き込まれ不幸を感じずにはいられない。言っている意味が分かるか? 俺は俺自身に降り掛かる火の粉を振り払う必要があり、名前も顔も知らない君達に対し、法的措置も辞さない構えがあることだ」
俺は携帯電話をポケットから取り出し、緊急通報へ繋がる番号を表示する。
「これからどうするか、判断は君達に任せよう。スーツの男、もし君が俺に害意や悪意を持って報復に出るならぱ、俺は君が犯した行為を各法的機関と警察に提出する意思がある。これは脅しではない、警告だ。分かったなら、とっととこのビルから出て行ってくれ」
慌てた様子で地面に転がった鞄を引っ掴んだ男は、脱兎の如く屋上を後にする。人に見られ、妨害されるような杜撰な計画を立てる人間だ。彼は恐らく同じような行為を別の場所で行うだろう。
俺は携帯電話の電源を切り、鉄柵に寄り掛かると煙草を吸う。少女など居なかったと言った風に、煙を燻らせる。
「あ、あの」
「医者に行け」
「え?」
「医者に行って、首を見て貰え。それと、売春なんて止めておけ。碌な目に合わないことは、今日で分かっただろう?」
「うん。けど、それは置いといてさ」
少女は俺の腕に抱き着き。
「お兄さんは、ウチに幾ら出せる?」
と、値段交渉を吹っ掛けた。
「お兄さん、ビルを買ったってことはお金持ってるんでしょ? どう? 五万円出してくれるなら、ゴム無しでもいいよ」
灰が長くなった煙草を指で弾き、ビルの屋上から落とす。
俺は新しい煙草を口に咥えると、ジッポのフリントを回し火を着ける。苦味と辛味が口腔内を満たし、肺に溜まった紫煙を吐き出した。
「君、俺は年若い学生に欲情するほど飢えちゃいない。性欲が溜まったら、プロに解消して貰う方が効率的で後腐れ無いだろう?」
「でもでも、プロったって年を食ったオバさんでしょ? ウチみたいな若い娘が恋しくなる時ってない?」
「無い。リスクと快楽を天秤に掛けたなら、俺は何方も捨てる。何故見え切ったリスクを手に取るのかも理解出来ないし、快楽に流されるほど愚かには成りたくない」
煙を吸い込み、紫煙を吐く。
「それに、君は先程命の危機を感じるリスクを顔と名前も知らない男から味わった筈だ。分からないな……死を感じて尚も金を得たい理由が全く見えない。危機管理能力が欠如しているのか? 君は」
「かたっ苦しいなぁ、なに? そんなに偉そうなこと言って、どうせ腹の中じゃウチを抱きたいって思ってるんでしょ? ほら、早く抱けばいいじゃん」
「未成年に手を出す趣味は無い。法的機関に顔を出す趣味も無い。帰れ、学生は学生の領分を全うしろ。売春なんて碌なことにならない」
「帰ったってツマンナイもん」
「つまらない? 何故だ? 今の時代、一人で過ごす為の娯楽に溢れているだろう?」
「スマホ弄ったり、SNSに写真とか動画アップしたり? そんなの、娯楽じゃないよ」
「なら君の言う娯楽とは何だ」
「お金を貯めて、欲しい物を買うことかなぁ。いや、別に物じゃなくてもいいんだけどさ、旅行とか、自分の見たことの無い景色を見たりしてさ。それがウチの娯楽」
「君が行う売春とは手段であり、娯楽という目的を達成する為のものか。少し、聞いてもいいか?」
「なぁに?」
「過激な手段には相応のリスクが伴うものだ。だが、君はそのリスクを深く考慮した上で実行しているのか? 未成年売買春とは、現代ではありふれた事柄だろうが、性病や妊娠、何かしらの事件に巻き込まれる可能性を考えた場合、報酬と釣り合わないだろう?」
「お兄さん、ウチらみたいな子供が短時間で大金を稼ぐ仕事って何があると思う?」
「違法行為がそれに当たるだろうな」
「そ。ウチにとって大人とのセックスってさ、お金を得る為の手段に過ぎないワケ。なぁんにも気持ち良く無いし、オッサン連中の息遣いとか気持ち悪いだけ。アイツ等は平気で嘘を吐くけど、お金だけは嘘を吐かない。ウチはお金第一で動く人間なわけ」
「そうか。ならば君の言動からこう考えてみよう」
「なに?」
「目的と手段。それは人間が生きる以上、避けられない選択だ。目的の為に手段を講じ、手段の選択性を得るには行動と思考が伴う。人間は幸福を求めて生きる生物だと、俺は思っている。君の求める幸福は金であり、娯楽とも取れるだろう。選択し、最短の手段で幸福を手に入れる……確かに効率的で合理的だ。だが、死んでしまっては意味が無い」
幸福を得るという目的を達成するために、自らの身体を対価として報酬を得る。確かに少女の講じた手段は若さのアドバンテージが在る今だからこそ選択出来るものだろう。
だが、彼女の選択……未成年売春は相応のリスクを伴う手段だ。何かあった場合、事件に巻き込まれ、死の危険が身に迫った時、少女には自分を守る術が無いのだ。有効な後ろ盾が存在しない以上、事の責任は全て少女にある。
「死んでしまうってさぁ、なに? お兄さん、ウチに何を言いたいのさ」
「俺の言いたいことは一つ。売春なんて馬鹿な真似は止めて、将来の為に今を生きろ。それだけだ」
「将来? こんな不景気な世の中に何を見ろって? お兄さん、親がロクでもない女の子にそんなこと言える」
「言える」
「その女の子がウチでも?」
「ああ」
少女が鉄柵に寄り掛かり、スカートのポケットから煙草を取り出し、手慣れた手付きで紫煙を吸い込む。
「……別にさ、身の上話をするワケじゃないけど。ま、どうせお兄さんとはもう会わないだろうし、独り言でもしようかな」
「……」
「ある女の子がさ、母親の再婚相手に犯されたんだよね。何度も、何度も、何度もさ。当然、その女の子は母親に言うわけだけど、何て言われたと思う?」
「さあ?」
「
「人間が痕跡を残すものがそれだな。あとは音だろう」
「……まぁ、いいや。そのクソオヤジはその娘を犯す代わりに学費、生活費を出してくれてたんだけど、それってある意味売春みたいなものだよね。……人は嘘を吐くけど、お金は嘘を吐かない。その時、分かっちゃったんだろうなぁ、その子はさ」
「……その女の子がお前か?」
「さぁ? どうだろ」
「随分と荒んだ過去を持っているんだな。同情するが、それはそれ、これはこれだ。お前がどんな生活を送ってきたなんて関係無い。売春なんて止めておけ」
「お兄さん、話聞いてた? ウチは」
「そんなに家に帰りたくないなら、このビルに住めばいい」
「……は?」
「恐らく、捜索願いやら何やらを出されるだろうが、もしもの時の証拠として父親に手を出されている映像と音声を手元に置いておくといい。或いは、決まった時間、場所が判明しているなら、その時ビルに来い。適当な部屋を避難場所として使え」
「……」
「どうした?」
「いや、少し、うん。予想外だったからさ、その言葉。お兄さんってさ話が通じないようで、意外と通じるんだね」
「さぁ、どうだろうな」
少しだけ笑った少女は「また来るね、お兄さん」と話し、屋上を去る。俺はその言葉を冗談か何かだと思っていたのだが、本当に荷物を持ってビルの一室に住むとは、この時は思いもしなかった。