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其処に居た少女

 人は皆幸福を求めて生きるという。


 どんなに些細な幸福でも、ちっぽけな幸福でも、道端に転がっている幸福でも、其れ等を自分自身で見つけられたならば、恵まれていると自覚してもいい。


 生温かい風が頬を撫で、長くなった煙草の灰と煙を吹き飛ばした様子を眺めた俺は、紫煙を吐き出しながらぼんやりと鉄柵に寄り掛かる。


 幸福の定義とは何か。それは人それぞれの価値観に寄与するものであり、一人の人間が声高々にして言えるものではない。個人の選択、自由意思の中に幸福と不幸は共存しているに過ぎないのだ。

 だから、俺の視界に映る少女がビルの縁に立ち、眼下のネオンを見下ろしているのだって、彼女が選択した意思の一端に過ぎないのだろう。


 自殺願望とでも云うのだろうか? 十階建てのビルの屋上に立ち、今にでも飛び降りそうな少女が何を思って、何を考えているのなんか他人の俺には分からない。分からないが、うら若い少女が制服姿のまま外界を見下ろす様は何処となく絵になるものだと思ってしまう。


 話しかけようか否か。話したところで少女の意思は変わらないし、意味も無い。意味の無い行動に意義はあるのか? 煙草の煙を一口吸い込み、鼻から煙を吐き出した俺は溜息を吐く。


 「あの」


 「何か?」


 「止めないんですか?」


 「止める? 何を?」


 「私が、自殺しようとしているところをです」


 「俺がとやかく言ったところで、君は飛び降り自殺を止めるのか? 死にたいなら勝手に一人で死んでくれ」


 酷い……。少女が擦り切れそうな声色で呟き、視線を足下に下ろす。


 「理由とか、聞かないんですか?」


 「理由を聞いたところで俺に何か出来るとでも? 飛び降りたいのなら、死にたいのなら直ぐに決めた方がいい。時間が経てば経つほど、恐怖は植物の根のように忍び寄る」


 少女は俯き、唇をキツく噛み締める。飛び降り、死ぬ事で少女に幸福が訪れるなら俺からは何も言わない。これ以上言葉を交わしても無意味と判断した俺は、煙草の火種を潰すと助言を与える。


 「君、俺は君の名前を知らないし、興味も無い。だが、考えてみてくれ」


 「……」


 「俺が今煙草の吸殻を落としたとしよう。吸殻は質量が小さいから、人に当たったとしても多少不快感を与えるだけだ。だが、人が落ちてきたらどうする? もし他人に当たったら、君の自殺に巻き込まれる形になるだろう。いや、当たらなかったとしても、一面に散らばった臓物と血で心的外傷を与える可能性もある」


 俺は指で煙草の吸殻を弾き、ビル風に乗って夜闇の中へ消えて往く様を眺め「もう一つ、君には家族が居るのか?」と、少女に問う。


 「父と母、弟がいます……」


 「なら君が選択しようとしている個人的な幸福は、家族の不幸と引き換えにして成立するだろう。賠償金、自殺者の家族という周囲からの視線、果ては家庭崩壊……。

 不幸の一部分を切り取っても、人の人生が狂うのに十分な要素を孕んでいるのが自殺という選択だ。死ぬか生きるかは君自身の選択だが、周囲への影響を考えた方がいい」


 自分勝手な理屈をつらつらと語り、新しい煙草をクチに咥えた俺は、歪な形をしたジッポのフリントを回し火を着ける。


 「貴男は、自殺をするなと言ってるんですか?」


 「死ぬなと一言も言っていないだろう? 俺はただその選択が齎すリスクと可能性の話をしているだけだ。さっきも言ったが、死ぬなら一人で死ね。誰も巻き込まず、慎ましくな」


 紫煙を吐き出し、少女の顔を一瞥した俺は彼女の瞳に滲んだ涙の一雫を垣間見る。


 昔、知り合いに言葉がキツ過ぎると言われたことがある。理屈っぽくて、感情も何も感じないと、ある女が俺によく言っていた。


 「……見ず知らずの人に、聞いてもらいたい話があります」


 「どうぞ」


 「嫌がらないんですか?」


 「話を聞くだけで何を嫌がる。俺は暇だから此処にいて、煙草を吸っている。話くらいなら聞いてもいい」


 少女の視線が俺と足下を交互に見据え、黒タイツに包まれた足が片方鉄柵を跨ぐ。


 「どうした? 飛び降りないのか?」


 「話を聞いて貰ってからでも、遅くないと思いまして……」


 「そうか」


 彼女がもう片方の足を跨いだ瞬間、突風が吹き荒び少女は目を大きく見開いたまま、ネオンの海に真っ逆さまに落ちようとしたが、彼女が伸ばした手を反射的に掴み上げる。


 「手を伸ばすような真似をするなら、死のうとするな。半端な覚悟で自分の命を粗末にするな。馬鹿者が」


 胸を上下に揺らし、喉を鳴らしながら唾液を飲み込んだ少女の目には、強い生への渇望が見て取れた。死にたくないと、言葉無く涙で潤んだ瞳が叫んでいた。


 俺は少女を鉄柵の向こう側に引っ張り、ヘナヘナと脱力気味で座り込んだ彼女へ煙草を一本差し出す。


 「煙草、いるか?」


 「……一応、学校では禁止されてるので、はい」


 「そうか」


 それも個人の選択ならば強要はしない。少女は自分の心臓に手を当て、深呼吸を繰り返しながら顔を真っ青に染めていた。


 「で、話とは?」


 「は、話?」


 「話を聞いて貰いたいんだろう? 此処には誰も訪れないし、俺達二人以外の人間は誰も居ない。……愚痴くらいなら、聞いてやる」


 コンクリートの地面に座り、少女に目線を合わせた俺は顎に手を当て、無精髭を指で撫でる。

 「……私が死にたいと思ったのは、突然全てが嫌になったからです」


 「嫌になった?」


 「はい……。親の期待も、教師達からの期待も、みんなからの期待も、何もかもが嫌になったんです。誰も私の事を理解していないのに、分かった風な口を利くのが、堪らないほどのストレスでした」


 何もかもが嫌になった。肩辺りで切り揃えた黒髪が印象的な少女は、深い溜息を吐きながらそう言った。


 「何もかもが嫌になったから、死のうとしたのか?」


 「はい。乾電池式の機械とか玩具ってあるじゃないですか。私が思うに、人も詰まるところ其れ等と同じなんですよ。

 自分の中の電池が切れた瞬間に、人生の意味を見失ってしまうんです。私、学校や家じゃ結構良い子で過ごしていたんですよ? 言う事を聞いて、従って、期待に応えて……。そんな人生、人に操られる機械や玩具と何の違いがあります?」


 心底下らないと言った様子で自分自身を鼻で笑った少女は「やっぱり煙草、一本貰ってもいいですか?」と話し、煙草の箱から真新しい煙草を一本だけ引き抜いた。


 「つまり君は優等生ってわけか。まだ歩き始めたばかりの人生に嫌気が差して、文字通り自分自身を放り投げようとしていた訳だ」


 「そうですね。貴男が余りにも私に対しての無関心だったから、最期にと思って話しかけただけです。……このビルの階段を上っていた時は本当に死のうとしていたのに、いざ外界を見下ろしてみると、やっぱり怖かった。ネオンの光が、亡者の手のように見えてしまったんです」


 少女は鉄柵に寄り掛かり、煙草を摘んだまま外界を見下ろす。


 「綺麗だと思っていたものが、突然汚らしく見える感覚を知ってますか?」


 「さあ? どんなに綺羅びやかでも、美しくても、所詮は人が作り出した光の塊がネオンの正体だ。虫寄せの明かりに集まる羽虫を人に例えたら、ネオンの光は人の心を閉じ込める帳のようなもの。人心を惑わし、錯乱させる甘美な幸福を光にしているだけに過ぎないだろう」


 「……リアリストなんですね、貴男は」


 「年を食えば、大人になるということは、現実を見なければならないことだ。夢を見て、将来を語れる時間は子供の間だけ。生きて、幸福を求めたければ現実と戦わなければならないと、俺は思うよ」


 煙草を口に咥え、ジッポのフリントを回し火を着ける。薄い紫煙を風に乗せ、ネオンの下を歩く人々を眺めた俺は、ポケットに突っ込んでいた缶コーヒーのプルタブを引いた。


 「幸福とは何でしょう」


 「限りなく透明な空気のようなものであり、不明瞭で不確かな欺瞞に満ちた空の器だろう」

 「意味が分かりません」

 「解説したところで意味はない。幸福の定義とは人それぞれのであり、個人各々の捉え方でしかない。君が自殺を最良の選択だと感じていたこと、死の恐怖により飛び降りを止めたこと。幸福とはその場で変化する故に、不明瞭で不確かなものなんだよ」

 火種を燻らせ、先が長くなった煙草の灰を指で弾く。

 「人は幸福を求め、何かの為に生きる生物だ。何かとは生存であったり、金を稼ぐ為であったりと多岐にわたる。だが、人は生きるために幸福を求め、幸福を求めるあまりに不幸を直視せざるを得なくなるのも、人の性だろう。別に俺は君が勝手に死のうが生きようがそんな事等どうでもいい。残酷な物言いだろうが、それもまた人の選択であり、意思だ」

 「つまり貴男は私の選択が幸福と不幸の存在を証明し、その結果が意思に表れると言っているんですね?」

 「賢いな。要点を纏めてくれると非常に助かるよ」

 消えかけていた煙草の火種を潰し、また新しい煙草に手をかけたとき、少女の手が俺のジッポに伸びる。

 「どうした?」

 「煙草、吸ってみようかなって」

 「無理して吸う必要な無い。君の見てくれと話しから推測するに、未成年だろう?」

 「経験としてです。どうせこの一本を吸ったら、もう吸いませんので。」

 「なら吸ってみるといい。吸い方は分かるか?」

 「いいえ」

 「教えてやろう。簡単だ、煙草よフィルターを唇で咥え、息を吸いながら火を着ければ紫煙が上る。あとは」

 俺の言葉通りに煙草の煙を吸った少女が激しくムセ、目に涙を溜めながら胸を押さえる。

 「初めてなら、煙を肺に入れない方がいい。口腔内で煙の味を楽しむのも、また煙草の魅力だ」

 少女の背を擦り、最後の缶コーヒーを渡した俺は自分の缶に口を着け、一気に中身を飲み干した。

 「に、苦くて、辛いですね」

 「それを好きだと話す人もいる。止めるか?」

 「いいえ、貰ったものなので、最後まで吸い切ります。これも、経験ですので」

 「そうか」

 暫し無言で煙を燻らせ、紫煙を夜風に乗せていた。誰かと、こうして煙草の煙を夜に散らすのは、久しぶりだった。

 「……貴男の名前、聞いてもいいですか?」

 「名前は聞かないほうがいい。俺と君はどうせもう会わない。君がどうしてもというなら、俺を勝手な名前で呼べばいいし、俺は君を学生と呼ぶよ」

 「……分かりました。では、私は貴男をお兄さんと呼びます。私よりも、年上に見えるので」

 「ああ、分かったよ。学生さん」

 それから俺と学生は、夜のネオンを見下ろしながら、少しだけ話をしたのだった。

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