力いっぱいペダルを踏み込み、車輪を回す。
錆びたチェーンが軋んだ音を発し、嫌な音と共に弾けて切れた。
額から汗を流し、日に焼けた小麦色の肌をした少年は一度自転車から降り、チェーンを見る。赤錆とオイル塗れの送り金は、糸が切れた神経のようにダラリと垂れ下がっていた。
あと少し保ってくれていたら、坂を登り切ることが出来た。夕焼けに燃える坂の向こう側に行けた筈なのに……。少年は汗に濡れた腕で額を拭い、何処か吹っ切れたように部活鞄を肩に掛け、走り出す。
ずっと、ずっと言えずにいた。ありふれていた日常に甘え、言えなかった言葉を胸に、彼は坂を駆け上がる。
空に二つの太陽が重なった。一つは何も変わらない夕焼けと、もう一つは空から落ちる瞬く火球。星を焼き尽くす炎が夕焼けを更に輝かせ、朱色に染めていた。
君だけを見つめていた。
君が笑えば、心が満たされた。
だが、それでも、その白く、冷たい手を握る勇気が出なかった。
残り少ない君の命をから目を背けた自分は……どうしようもない臆病者だ。
君の全てが愛おしかったという気持ちに嘘は無い。何故向き合わなかったと糾弾され、頬を叩かられても何も言い訳はしない。だから、もし、君が自分と同じ気持ちを抱いていたのなら、必ず迎えに行く。たとえ……この日が最期であろうとも。
坂を登り切り、肩で息を整えていた少年は海を見渡す事が出来る小さな丘に辿り着く。
茜色の海と、煌めく波浪。朽ちかけたベンチ。
逸る心と急く身体。深呼吸を繰り返し、ベンチに腰掛ける少女の後ろ姿を視界に入れた少年は、拙い繰り人形のような動きで彼女の隣に座る。
「……元気、いや、身体の方は大丈夫なのか?」
「まぁまぁね。うん、今日は気分が良いかも」
「そっか」
永遠とも思える刹那。刹那のように過ぎ去る永久。どう切り込めばいいのか、どんな話をしたらいいのか、迷い悩む少年の横顔を見た少女はくすりと意地悪く笑った。
「私ね」
「うん」
「明日、死ぬんだって。どうしようもないよね、こればっかりはさ。けど、まぁ……あんまり寂しくはないかな」
「……そりゃそうだろ。明日にはみんな……お前だけじゃなく、世界が死ぬんだから」
「実感無いよねぇ。まさか隕石が落っこちてきて人類絶滅なんて」
「それな。俺もあんまり……実感が無いな」
消毒液の臭いが入り混じった潮風が二人の頬を撫で、過ぎ去った。
彼女の横顔を、意地悪な笑顔と生白い肌を、死へ歩むその心を見つめてしまう。どうして笑えるのかと、何故責めないのかと疑問を抱く。
逃げ出したのだ。彼女の死を認めたくなくて、ずっと隣を歩いてくれていた少女から少年は逃げ出した。直接顔を合わせず、毎日手紙を送っていた。言葉を聞くのさえ怖かったから。
「私さ」
「……」
「日常に、恋をしていたんだと思う」
「……うん」
「君がいた日常に恋をして、ありふれた幸せを愛していたの。君が私の死を怖がっていたように、私も君が見えなくなることが怖かった……」
俯いた少女の肩を掴み、引き寄せた少年は涙を流す。
怖かった。自分達は、身体が離れていようとも、心は繋がっていた。一つの魂を分割したように、互いが互いを求め続けていた。
「俺は……お前を失いたくなかった。お前の死を認めてしまったら、俺は耐えられない。多分……居なくなったお前を求めて、俺は後を追う」
「……」
「逃げ出して、怖がって、勇気を出せなかった俺を赦して欲しいなんて言わない。だけど、今日が最期なら、言わせて欲しい。……俺は、お前が好きだ。ずっと……ずっと……好きだった」
少女の華奢な身体を抱きしめ、世界の終わりを待ち望む少年は魂の片割れを取り戻すように、遠く離れた愛を引き寄せる。
世界が終わる日に……もしも明日があるのなら、次こそは絶対に逃げ出さない。この冷たい身体を離さない。だから……この瞬間が永遠に続けばいいと、切に願う。
「……綺麗な夕焼けだね」
「……うん」
「もっと……見たかったなぁ、君と一緒に」
「ごめん……」
「ううん。今、幸せだから、謝らないで? ……ありがとう、私を好きになってくれて……。同じ気持ちでいてくれて」
「……それは、俺のセリフだよ」
そして、二人は夕照に濡れる海を眺めるのだった。