『ミズキ……また学校の友達を泣かせたのか』
私がまだ女神アテネに召喚される前の話……。
田んぼからはカエルの合唱が聞こえ、そのあぜ道では子どもたちがランドセルを揺らして駆けていく……。
私はそんな長閑な風景を、古ぼけた民家の二階にある自分の部屋から頬杖をついて眺めていました。
別にそういう興味があるワケではなく、バツが悪くて……。
兄の言葉が、頭の中で何度も反響しているけれど、やっぱり返す言葉が見つからない。
私はこうなった経緯を思い出して、また苛立ちがこみ上げてくる。
『だから……別にあそこまでやるつもりはなかったって、言ってるじゃないですか……』
ムスッとした顔でつぶやくと、兄は眉をひそめて、ため息をついた。
自分でも分かっている。
こんな物言いは子どもの言い訳に過ぎないってことも、兄が心配してくれているってことも。
でも素直に謝るなんて、どうにも悔しくてできない。
『そもそも友達じゃないですけどね、あんなやつ……影口ばっかり言って、本当にムカつく……』
『だからって、暴力に訴えるのはダメだ……。特にミズキの場合、臂力が普通の人の何倍もあるんだから……。お前が力加減を間違えたら、命に関わるんだぞ?』
『暴力になんか訴えてません。ちょっと小突いただけです。そしたら相手の骨が砕けただけ……』
『それを世間一般では"暴力"と呼ぶんだよ、まったく……』
兄はそう言って、私の頭を優しく撫でた……。
怒られてるのに……なんだか心地良くて、私は兄の手にされるがままに頭を預ける。
兄の言葉は正論で、何も言い返すことが出来ない……。
でも私だって好きで暴力を振るったワケじゃないし……。
そもそも先に手……というか口を出して来たのは向こうだし……。
『ミズキ……』
兄がもう一度私の名前を呼ぶ。
その声には、責めるでもなく、ただただ心配する気持ちが滲んでいた。
私は目を伏せ、ただその声を受け止めるしかなかった。
『お前が感じている怒りや悔しさは、決して悪いものじゃない。だからこそ、感情のままに行動しちゃいけないんだ。それはいつかお前自身を滅ぼす……。オレは、ミズキが悪者になる世界は嫌だ』
『……うん』
『よしっ!じゃあお説教は終わりだ。下に降りてご飯にしよう。今夜はじいちゃんの海軍カレーの日だしな!』
『お腹空いてないです……』
『それじゃあお腹が空いたら降りてこい、待ってるからさ!』
兄はそう言って、私の頭から手を離した。
私は離れていく手を目で追いながら、小さくため息を吐く。
ああ……まただ。
また私は兄に甘えてしまった。
兄はいつもそうだ……。
私が困っているとすぐに助けてくれる……。
まるで物語りの勇者みたいに……。
『ミズキは強い子だ。その力は誰かを守るために使いなさい。ミズキなら出来るハズだから……』
部屋を出る直前、兄は優しく微笑みながら言った。
まるで子どもをあやすような物言いにムッとして、私は兄の後ろ姿に向かって舌を出す。
それが私たち兄妹の……最期の会話になるとも知らずに……。
―――――――
――――
――
蒸し暑い熱気と蟲の協奏に苛まれながら、私は兄との最期を思い出していました。
あの人だったらこの状況、どうするでしょうか……?
考えろ、考えろ……。
アザレアさんが倒れてしまった今、この森の状況はますます怪しくなっている。ガーベラさんも消えた。彼女が何かの罠にかかったのか、それとも何かが彼女を連れ去ったのか、はたまた彼女が自主的に姿を消したのか……。可能性は多々あるが、どれも最悪の結末にしか繋がらないように思えた。
マリーさんの言葉が耳に残る。
「最初からおかしかった」という冷たい声が、この森の異常さを一層際立たせていた。
この森は翡翠の色に包まれた静かな楽園などではなく、何か恐ろしいものが潜んでいる場所だったのだ。
「まさか出発早々、全滅の危機……!やはり勇者様との旅は一筋縄ではいきませんわね……!!」
「なんで楽しそうなんですか……?マリーさんはマゾですか……?」
「まさか!わたくしは極めてノーマルですわ!!けれどこの状況、ワクワクするでしょう?ただでさえ未知数の敵がいて、頼りになる味方はわたくしだけ!!これを燃えるシチュエーションと言わずしてなんと言いましょうか!!」
「この状況でよくそんな元気になれますね……」
私は呆れながらマリーさんのポジティブ思考に感心する。
こんな状況でも彼女はいつも通りだ。
むしろいつもよりテンションが高いくらいです。
「”ピンチの時こそ臆さず、笑ってやれ……。”貴女のお兄様の受け売りでしてよ!」
「……そう、ですか」
確かに、兄ならこんな状況でも笑っていそうですね。
仲間の不安を紛らわす為に、わざと道化のように振舞って……。
「マリーさん」
「なんですの?勇者ミズキ?」
「ありがとう、ございます」
「あら?なぜ感謝されるのかしら?」
「さぁ……?なんででしょうね?」
マリーさんがキョトンとした顔で私を見るので、私は苦笑してはぐらかします。
状況は最悪ですが、今はやれることをやるだけ。
兄のように人を鼓舞することなんて出来ませんが、私なりの最善を尽くすつもりです。
「”精神を研ぎ澄まし、限界以上の力を解き放つ…………女神アテナよ、我に真実の力を示し給え。”」
私は静かに瞳を閉じ、深呼吸します。
そして、体内に魔力を巡らせ、解放する。
普段抑えている魔力の枷を外して、感応魔法の感度を最大に引き上げます。
「貴女っ!!それは……っ!!!」
「マ、リーさんは……魔力、貯めて……くださ、い……一瞬、で……ケリをつける……っ」
身体が燃えるように熱く、内側から爆ぜてしまいそう……。
暴れ馬を乗ったらこんな感覚なのでしょうか?
私は歯を食いしばって、魔力の制御に集中します。
「翡翠甲虫……忌蜂……卵回蜘蛛……花潮蝶……402……2609……11601……」
無数の生物の気配が頭の中に一斉に流れ込んでくる。
虫の羽音、獣の息遣い、鳥の囀り……。
膨大な情報量の津波に脳が軋み、吐き気を催す。
足元が揺らめくように感じる中、私は全力で命の音色を精査して情報を取捨選択していく。
「見つけた……いる……確かに……ガーベラさんの気配……!樹の根に、囚われている……!!」
私の感応魔法が捉えたのはガーベラさんの微かな存在だった。
彼女は遠くにいる――でも確かに、生きている。
「今すぐ助けに……!」
「いえ、今はっ……それより敵の殲滅を……」
「見つけましたのっ?!!」
それは非常に小さな命でした。
非常にちっぽけで、樹の中に潜んでいる。
「ここから、北北西……距離521……大樹の幹、あたり……樹に寄生して、操っている蟻がいるっ!!敵はそれだっ!!!」
「さすがですわね!勇者ミズキ!!”ラディアンス・ジャベリン"!!!」
眩い光と共に、マリーさんの掌から魔法の光が空へと放たれます。
それは、まるで天に昇る流れ星のように弧を描き……そして槍状の閃光となってターゲットの大樹の幹を貫きました。
――――ギギィ……ッ!!
大樹の倒壊と共に寄生蟻が断末魔のような声を上げ、死滅しました。
樹の根本に出来た大きな空洞からは、白い糸でグルグル巻きになったガーベラさんの姿が……。
「翡翠の樹が魔樹になっていた。生物ではなく植物に寄生するだなんて、珍しいタイプですわね。アザレア様は樹の中から攻撃されて、ガーベラ様は地中から根で引きずり込まれたと……。どおりで感応探知や嗅覚索敵が効かない訳ですわ!」
「自然発生、したものでは……ない、でしょう。あきらかに、だれかが”改良”を……加え、て……ぐっ!」
心臓が破裂しそう……。
血流が早まって、視界がチカチカする……。
なんだか指先から砂になって崩れ落ちていくようにも感じる……。
私はその場に膝を付き、荒い呼吸を繰り返します。
「勇者ミズキ、大丈夫ですか?!少し休んで―――――」
「あと369匹……いる……」
「へっ?」
「翡翠の、森に……寄生蟻がまだ369匹、いる……今ここで、全て死滅させなきゃ……」
私の発言にマリーさんは目を丸くしました。
しかし、すぐに真剣な顔つきになって「本気ですの?」と聞き返してきます。
私は頷きながら、よろよろと立ち上がりました。
「勇者ですからね……こんなの放置してたら、他の方に被害が……」
「そうではなくて!!!それでは貴女の体力が持ちませんわ!!魔力だってもう空っぽのハズっ!!先程の探知魔法はもう使えないでしょう?!!」
「敵の位置は全て記憶しています……樹に寄生している以上、奴らは動けない……一匹ずつ、確実に駆除できます……」
「ならわたくしが閃光魔法で射殺しますわ!位置を教えてくだされば、わたくしがここから……!!」
「そしたら誰がアザレアさんの毒を治療するんですか……?ガーベラさんだって捕まったときに毒に侵されていないとも限らない……」
「っ!!!」
マリーさんは言葉を詰まらせ、手をギュッと握りしめます。
マリーさんの閃光魔法は強力無比ですが、その分消費も多い。
ここで寄生蟻相手に魔力を消費させたらアザレアさんの治療が遅れてしまう。
私はマリーさんに微笑みながら、静かに首を横に振りました。
「私一人で大丈夫……マリーさんは治療に専念してください……寄生蟻を切り刻んで、ガーベラさんを回収次第戻ってきますから……」
深紅の大剣を構え、私は歩き出します。
マリーさんが慌てて私を止めようとしましたが、その手は宙を掴みました。
言っても聞かないと1年間の旅路で理解しているのでしょう。
彼女は悔しそうに唇を噛んで、俯くばかりでした。
私はそれに苦笑いを返しながら、森を歩きます。
一歩進むごとに私の身体は悲鳴を上げました。
まるで骨が軋み、筋肉が裂けるような痛みです。
でも私は歩みを止めません。
だって……ここで私が頑張らなきゃ誰が頑張るというのでしょう……?!
『ミズキは強い子だ……』
兄の言葉が私の中でリフレインする。
死んだ兄に呆れられたくない、褒めて欲しい……その一心で私は足を動かし続けました。
端から見れば、その姿は勇者ではなく滑稽な道化師に見えるかも知れませんね。
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【寄生蟻】
植物に宿り、その養分を吸い取りながら成長する魔蟲。
枝や根などはある程度操ることも可能で、樹の幹から毒針を発射することもある。
蟻のように小さく、並の索敵魔法では見つけることは出来ない。
生涯を同じ樹の中で過ごし、樹が枯れると同時に死滅する性質を持つ。
翡翠の森は370匹の寄生蟻によって魔樹の森と化していたが、銀色勇者ミズキによって絶滅。
この世から完全に消え去った。