次の日、渡守さんは休みだった。
「風邪でもひいたのかな……」
車を取りに行って濡れた身体をろくに拭かず、私を送ってくれたから風邪をひいたのかもしれない。
お昼休みに家に行ってみようかな。
今日は朝から山背部長が昨日の件で来るらしく、社長は在社していた。
「おう、来たぞ」
十時近くになって山背部長がやってきた。
いつもと同じく横柄な態度で、応接セットのソファーに座る。
「わざわざご足労いただき、申し訳ございません」
完全に恐縮しきって社長はその前に座った。
私も席を立ち、コーヒーを淹れる。
山背部長にはぞうきんの絞り汁でも出してやりたいところだが、私は常識人なのでちゃんとコーヒーを出した。
「オマエんとこの作業員、怪我したらしいじゃないか」
「はい。
申し訳ありません」
本当にすまなさそうに社長が頭を下げ、心が痛い。
山背部長はまるで知らないといった口ぶりだが、白々しい。
ケンジさんが怪我をしたとき、彼はまだ現場にいた。
しかしケンジさんを心配することなく、逃げるように帰っていったらしい。
「安全第一だっていつも言ってるよな?」
「はい、わかっております」
どの口が安全第一なんて言うんだろう。
彼が無理を通したせいでケンジさんは怪我をした。
安全が大事なら、雨が降り出していたのに工事を無理強いしないはずだ。
「テメエんとこの人間が怪我したせいで、無事故記録が途切れたじゃねぇか」
これにはさすがに社長も腹に据えかねたようで、黙ったままぶるぶる震えている。
山背部長の本音はこれなのだ。
人が自分のせいで怪我しようと関係ない、大事なのは体面と会社の利益だけなのだ。
「納期は守れねぇ、安全管理もできねぇ、どんだけオレらに迷惑かけるつもりだ、ああっ?」
「……もう、し、わけ、……あり、ま、……せん」
屈辱に顔を染め、社長が頭を下げる。
それを見て勝手に足が動いていた。
私は我慢が効かなくてすぐ口が出る。
それで失敗もしたし、欠点だってわかっていた。
けれどこんなの、黙っていられるはずがない。
「誰のせいで怪我をしたと思ってるんですか!」
「ああっ?」
山背部長の前に仁王立ちになる。
彼は不快そうに私を睨めつけたが、かまうもんか。
「あなたが雨が降ってるのに、安全よりも納期を優先した結果です!
怪我で済んでよかったですが、もしかしたら死んでいたかもしれないんですよ!?
人の命をなんだと思ってるんですか!」
一気に思いの丈をぶちまける。
社長が止めようと私の服を引っ張るが、暴走機関車になった私は止まらない。
「は?
親会社の命令は絶対、元請けの命令は絶対に決まってるだろーが。
だいたい、オレは安全確保ができねぇ状態で作業しろとか言ってねぇ」
にやりと嫌らしく、彼の顔が歪む。
それがさらに、私をヒートアップさせた。
「あなたが無理強いしたから、みんな仕方なく作業を続けたんです!」
「いい加減にしろよ、証拠はあるのかよ!」
「作業員全員が聞いています!」
「だからなんだって言うんだよ。
下請けはオレに従っていればいいんだよ!」
山背部長が立ち上がり、私の胸ぐらを掴む。
おかげで軽く、首が絞まった。
ああ、これは殴られるのかな。
覚悟を決めて彼を睨み上げたものの。
「はい、ストップ。
話は全部聞かせてもらった」
どこからともなくスーツ姿の若い男性が現れる。
「え、誰?」
山背部長はもちろん、私も社長もなにが起こったのか理解できていなかった。
「誰って俺ですよ、俺」
社長とふたり、まじまじと彼を見る。
銀縁スクエア眼鏡をかけ、髪もきっちりセットしたこのイケメン、どこか見覚えが……。
「あ、ノブか!」
「渡守さん!?」
社長と同時に声を上げた。
いつもと違う格好だからか、雰囲気が全然違う。
なんか、エリートリーマンに見える。
「なんでそんな格好?」
社長の疑問は私も同じだったので、うんうんと勢いよく頷いた。
「ん?
まあいいじゃないですか。
……で。
お話は全部、聞かせていただきました」
全部って、どこで聞いていたんだろう?
まさか、朝から隠れていたとか……?
渡守さんが出てきた方向は書類をしまう倉庫になっている。
ごく自然に渡守さんが山背部長の前に座る。
私たちにも視線で座るようにいわれ、近くの椅子を引き寄せて私も座った。
「元請けの命令は絶対、でしたっけ?
俺の親父は現場を大事にする人で、とくに安全面に関しては気を配っているはずですが」
「はっ。
テメェの父親の話とか知るかよ」
山背部長は一介の作業員の話だと聞く必要はないと思っているのか、膝に頬杖をついて不機嫌そうにそっぽを向いた。
「え、俺の親父をご存じない?
渡守とかけっこう、珍しい名前だと思うんですが」
なにかに気づいたのか、山背部長の顔が上がる。
「俺の親父の名前、渡守健三っていうんですよ」
これ以上ないほどいい顔でにっこりと渡守さんが笑ってみせる。
それを見て部長は、みるみる顔色を失っていった。
「も、申し訳ございません」
山背部長の姿が消えたかと思ったら、床の上で渡守さんに向かって土下座していた。
「私どもの指導が行き届かないばかりに、ご迷惑をおかけして……!」
もう全部、渡守さんは知っているのに、まだこの人は保身を図るんだ。
それを冷めた目で見ていた。
「このことは社長にはご内密に……!」
足に縋る部長を、渡守さんが冷たく見下ろす。
「昨日の事故から今日の顛末、さらに日頃の態度まで全部、父はすでに知っています。
それを踏まえてそちらとの契約を切り、こちらの会社と直で契約したいとのことでした」
「そ、そんな……!」
さらに縋ってくる部長を邪険に振り払い、渡守さんが立ち上がる。
「すでに会社のほうへ、通告がいっているはずです。
帰ってご確認を」
「は、はい……」
これ以上は無駄だとわかったのかふらふらと山背部長は立ち上がり、まるで魂が抜けたかのように帰っていった。
「どうなってんだ、いったい」
一騒動収まり、社長がふーっと息をつく。
「え、社長も渡守さんが元請け会社の社長の息子だって知らなかったんですか?」
「知らん」
まあ、社長は大雑把だしね。
それに普段の渡守さんからは御曹司のにおいなんて感じられないくらい、現場に馴染んでいるし。
だから私も昨日、気のせいと片付けたくらいだ。
「驚かせてすみません。
父から社長になりたいのなら現場を知ってこいといわれて、ここで働かせてもらっていました」
勢いよく渡守さんが頭を下げる。
御曹司にもいろいろ事情があるんだ。
「まあ、別にいいけどよ……」
社長はまとまらない考えをどうにかするように、頭を掻いていた。
「それで。
父としては……というより会社としては先ほど言ったとおり、こちらと直で工事の契約を結びたいと思っています。
社長も親会社から独立しようといろいろ準備されていましたし、ちょうどいいと思うんですがどうでしょう?」
話す渡守さんはスーツと相まって、完全にエリートビジネスマンだった。
「いい話だがすぐには返事はできない。
一度詳しく、話を聞かせてくれ」
「はい、わかっています」
渡守さんが頷く。
一気に全部が、うまく動き出している。
神様って本当にいるんだなって思った。