翌日は雨がやみ、また私は事務所にひとりだった。
「うー、わかんない……」
できた時間で簿記の勉強をしているが、考えても理解できないところがある。
帰りに渡守さんに教えてもらおうかな。
前に、教えてくれるって言っていたし。
気分転換に外に出て、干してあるぞうきんなどを取り込んでいく。
「あ、雨だ」
そのうち、ぽつ、ぽつと水滴が落ちてきて、それは次第に激しくなっていった。
「これは工事、中止だな」
事務所の中から空を見上げる。
雨はかなりの勢いで降っていた。
濡れて帰ってきたら作業員さんたち、冷えているだろうから温かいお茶でも用意しておこう。
けれど、いつまで経っても誰も帰ってこない。
今日、社長は親会社の会議に出ていて現場に不在だし、判断が遅れているのかな……。
でも、いつも社長がいないときに現場を任されている作業員さんらしくない気がする。
どことなく不安な気持ちで外を見ていたら、――電話が、鳴った。
「はい、――」
『兎本さん!?
ケンジが、怪我をした!』
私が言い切るよりも早く、焦るように相手が話し出す。
『社長連絡つかないんだけど、まだ帰ってきてないの!?』
「まだ、です……」
予定の時間は過ぎている。
たぶんまた、引き留められて嫌みを言われている。
「怪我って大丈夫なんですか?」
『意識はしっかりしてるけど、頭打ってるからわからない。
おやっさんが救急車でついていってるから、連絡待って』
「わかりました。
みなさんも、気をつけて」
電話を切り、気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸をした。
ケンジさんが怪我って、なにがあったんだろう。
私だって混乱しそうだが、今はとにかく冷静でいるべきだ。
社長に連絡したが、やはり出ない。
メッセージを送ったところでまた、電話が鳴った。
今度はさっきの作業員さんが言っていたおやっさんからで、運び込まれた病院と足は折れているがそれ以外は大事なさそうだと聞かされた。
さらにケンジさんの奥さんに私から連絡するべきか指示を仰ぐ。
「わかりました、よろしくお願いします」
奥さんには旧知の仲のおやっさんから連絡してくれるようになった。
社長に新たにわかった情報を送ろうとしたら、向こうからかかってきた。
『ケンジが怪我したって本当か?』
社長の声はかなり、深刻そうだ。
「はい。
足を折っていますが、それ以外は心配ないそうです。
病院は……」
『わかった、行ってくる』
すぐに電話は切れた。
きっと病院へ向かったんだろう。
そわそわしながらみんなの帰りを待っていたら、ようやく作業員さんたちが帰ってきた。
「なにがあったんですか!?」
当然、作業員さんの誰もが、暗い表情をしている。
「雨が降り出してオレらが帰り支度を始めようとしてたら、山背のヤロウがきたんだ」
「工期が遅れてんだ、作業を続けろって詰め寄ってきて」
「おやっさんは当然、危ないからって断ったんだ。
でも、納期を一日でも遅らせるなと元請けから言われている、遅れてオマエの会社は責任取れるのかと言われて……」
「昨日の雨もあったし、さらにぬかるんでたんだ。
それでケンジのヤツ、足を滑らせて転んで、担いでいた資材が自分の上に落ちてきたんだ」
悔しそうにみんなが俯く。
雨が降り出した時点で作業をやめていれば、こんなことにならなかった。
なのに工事を続けるよう強要した山背部長も山背部長だし、納期を一日でも遅れたら許さない元請けもなにを考えているんだろう。
今回は足を折っただけで済んだが、死んでいた可能性だってあるのだ。
人の命をいったい、なんだと思っているんだ。
「……許せない」
私から出た声は、怒りで震えていた。
「オレらだって許せねぇよ。
許せねぇけどよ……」
そのまま声は消えていく。
親会社の、元請けの命令は絶対。
逆らっては仕事がなくなる。
どうしようもできないのが、もどかしい。
そのうち、社長とおやっさんが帰ってきた。
ケンジさんはやはり足が折れただけ、その足も綺麗に折れているから回復は早いだろうという話で、みんなほっとする。
「ケンジが俺に、怪我なんかしてすみませんって詫びるんだ。
労災でしっかり治してやるから心配するな、そのためにたけぇ保険料払ってるんだからな、って言ってやったけどな!」
社長が豪快に笑ってみせる。
作業員さんたちも、私も、笑った。
みんな、無理をしていた。
今日はもう帰れと、社長は私も仕事は終わりにしてくれた。
「璃世」
帰り支度をしていたら、渡守さんが声をかけてくれる。
「ちょっと待ってろ。
車、回してくる」
「あー……」
彼はここから徒歩圏内に住んでいるらしい。
その気遣いは嬉しいけれど。
「大丈夫、なので」
車を取りに行っているあいだに私も駅まで辿り着けるので、申し訳なかった。
「バーカ。
俺はこうやって点数稼ぎたいだけなんだから、素直に甘えとけ」
「あいたっ」
その長い指で小突かれた額を押さえる。
レンズ越しに目のあった彼は、悪戯っぽく笑った。
「じゃ、速攻で車取ってくるから。
そのあいだに行きたい店、探しとけ」
「あ……」
私が止める間もなく、渡守さんはさっさと出ていった。
「もう」
口では文句を言いながらも、笑ってしまう。
彼に言われたからではないが、携帯を取りだして応接セットのソファーに座った。
「えっと、元請け会社って……」
ぽちぽちと窓に打ち込んで検索をかける。
どんな社長が納期厳守とか現場に沿わない滅茶苦茶を言っているのか顔を拝んでやりたかったし、あれならお問い合わせに匿名で苦情を入れてやろうかと思った。
「えーっと。
社長は渡守
……ん?
渡守?」
ただの偶然、だよね?
珍しい名字ではあるけれど。
でも、同じ珍しい名字のふたりが、元請けと三次請けにいるのは偶然……?
「いやいや、ありえないって」
浮かんできた考えを、手を振って消す。
一度、現場に行ったが、油圧ショベルに乗っている渡守さんのどこにも違和感はなかった。
ないどころかイケメンも霞むくらいマッチしていたのだ。
「うんうん、ただの偶然だって」
でも、御曹司が嫌いと言われて動揺していたし、いい大学を出ているとも聞いていた。
もしかして……?
「お待たせ」
私が悩んでいるあいだに渡守さんが戻ってきた。
「あ、はいっ!」
慌ててバッグに携帯をしまって立ち上がる。
Tシャツにラフなジーンズ姿の渡守さんからはやっぱり、御曹司臭がしない。
ただの偶然だ、絶対。
私を乗せて車は走り出す。
「璃世。
親会社に乗り込もうとかやめとけよ」
「うっ」
走り出していくらも経たないうちに言われ、息が詰まる。
確かに一瞬、親会社に乗り込んで山背部長に文句を言ってやろうかとは思った。
すぐに考え直したけれど。
「でも滅茶苦茶、腹が立つじゃないですか!
ケンジさんは山背部長のせいで怪我をしたようなもんですよ!」
おやっさんの判断どおり工事を中断していれば、ケンジさんは怪我をしなかった。
おやっさんも社長も、自分のせいだと責めている。
今までは言葉による暴力だったから耐えていればよかったが、怪我は違う。
特に工事現場の一瞬のミスは、命を奪う。
「わかってる。
俺に考えがあるから任せておけ」
重く渡守さんが頷く。
「……はい」
納得はしたくないけれど、真剣な彼の態度になにか考えがあるのだろうと一旦、矛を収めた。