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2-4

支払いは渡守さんがしてくれた。


「え、悪いです!」


「いいから。

先行投資?」


意味深に彼が、眼鏡の下で片目をつぶってみせる。


「えっ、あっ、……じゃあ。

ごちそうさまです」


熱くなった顔を見られたくなくて、俯いた。


「ごちそうさまでしたー」


「気をつけて帰んなよ」


「はーい、おやすみなさーい」


上機嫌の後輩を乗せてタクシーが走り出す。


「すみません、後輩のタクシー代まで」


「いいって。

俺らも帰ろうか」


ぺこんと頭を下げた私の背中を押して渡守さんが促し、足を踏み出しかけたが。


「璃世?」


声をかけられてそちらを見ると、昔の同僚がいた。


「あっ、ひさしぶり……」


どういう表情をしていいのかわからず、笑顔を作る。

彼は私なんかよりもずっと早く、会社を見限って辞めていた。


「元気そう、……だね」


彼に言いたいことはたくさんある。

けれど、喉に引っかかって出てこない。


「そっちこそ。

まだ、あの会社にいるのか」


心配そうに彼の眉間に皺が寄る。


「あっ、少し前に、……辞めた」


「うん、それが正解だ」


彼は頷いているが、私はそれが正しいと思えなかった。

あなたが辞めたあと、私たちがどうなったのか知ってる?

ひとりで辞めないでせめて、一緒に辞めようと声をかけてほしかった。


「璃世。

どちら様?」


私の上から渡守さんの声が降ってくる。


「……昔の、同僚」


「そう」


渡守さんの腕が私の身体にかかり、自分のほうへと引き寄せる。

それはどこか、警戒しているように思えた。

もしかしたら彼と私がそれだけの関係ではないと気づいているのかもしれない。


「アンタこそ、誰?」


苛立ちを隠さないまま、彼が渡守さんを睨む。


「璃世の彼氏です」


思わず、渡守さんを見上げていた。

なんでそんな、嘘をつくんだろう。


「昔、あなたとどういう関係だったか知らないですけど。

今は俺のものなんで、手を出さないでもらえますかねぇ」


見せつけるように渡守さんの手が私の頬にかかり、目をあわせさせる。

じっと見つめたまま、まるでキスをするかのようにねっとりと彼の親指が私の唇をなぞった。

レンズの向こうの熱を帯びた瞳に、背筋がぞくりとする。

唇だけを緩めて僅かに笑い、余裕たっぷりの視線を挑発するように渡守さんは彼へ送った。


「べ、別に僕はそんなつもりは。

ソイツとお幸せに!」


動揺した様子の彼は吐き捨てるように言い、足早にその場を立ち去った。


「なんだ、あれ」


不快そうに言い、私を庇うように肩を抱いて渡守さんが歩き出す。

少しだけ歩いて連れてこられたのは、近くの駐車場だった。


「乗ってて」


彼がSUVタイプの外車のロックを解除する。


「あ……」


戸惑う私を残し、彼は精算に向かった。

ロックが解除できたってことは彼の車に間違いないんだろうし、おそるおそる乗って待つ。


「お待たせ」


すぐに戻ってきた彼が運転席に座り、シートベルトを締める。


「あの、お酒は……?」


「璃世を送らないといけないから飲んでない」


そういえば頼んでいたのはコーラだった。

それに渡守さんがそんな嘘をつくとかありえない。


「ほかにないなら車出すけど」


「あっ、はい」


すぐに車は走り出した。

きっと聞きたいことはあるはずなのに、渡守さんはなにも言わない。


「あの、車……」


勇気を出して口を開いたものの、横目でじろりと睨まれて消えていく。


「俺の。

意外と稼いでるんだ、俺」


「そう、なん、だ……」


渡守さんは不機嫌そうで、小さく身を縮みこませた。

土木作業員に高級外車が似合わないとか、失礼だったなと反省した。


無言のまま、車は進んでいく。


「なあ」


唐突に声をかけられ、ぴくんと肩が跳ねる。


「あれ、誰?」


「だから、……昔の同僚」


「違うだろ」


私としては誤魔化したいのに、彼は許してくれないらしい。

なにも言えなくて、堅くバッグを掴んだ自分の手を見つめる。


「……はぁーっ」


しばらくして彼がため息をつき、びくりと身体が反応した。


「ごめん、無理に聞きたいわけじゃない。

ただ、アレが璃世が俺との恋に落ちてくれないわけなのかな、って」


悩むように彼は、後ろ頭を掻き回している。

そういう優しい人だから、私は渡守さんに好意を抱いているのだ。

それにこれは、彼の問題でもある。

私のわけを、彼に知ってもらわなければ。


「その。

昔、彼と付き合っていて」


同期入社して意気投合し、すぐに付き合い始めた。

最初のうちは楽しかったが、会社はあんな状態だ。

仕事の疲弊が関係へと影響していく。


彼が会社を辞めると聞いたのは、もう退職願を出したあとだった。

私には言ってくれなければ、相談もなかった。

しかも彼はよその会社に女を作っており、彼女の口利きで転職も決めていた。


もちろん、彼を責めたが。


『だって璃世、疲れてる僕を癒やしてくれないし。

疲れて帰ってきたら、癒やされたいんだよ』


と、まるで私が悪いように言われた。

確かに、そんな余裕はなかった。

けれどそれはお互い様だ。

私だって疲れていて、彼に癒やしてほしかった。

それに私は少しでも彼の負担にならないように努力していたのだ。


彼が会社を辞めても人員の補充はない。

それどころか同期が辞めたのはお前たちの連帯責任だと御曹司に無理難題を押しつけられ、もうひとりいた同期は身体を壊した。


それからの私は誰かを好きになるのが、付き合うのが怖くなった。

きっとまた、裏切られる。

尽くしても空回りするだけだ。

さらに御曹司の女性への不誠実な態度が恋を苦手にしていった。

渡守さんは彼とも御曹司とも違う。

わかっているけれど気持ちがついていかない。


「璃世はいっぱい、つらい思いをしたんだな」


渡守さんの手が伸びてきて、私の頭を軽くぽんぽんする。


「わかった、じゃあ無理にとはいわない。

ただ、俺が璃世の傍にいるのは許してくれ」


この人はどうしてこんなに優しいのだろう。

なんで私はこの優しさを受け入れられないんだろう。

胸の中がいっぱいになって、息が詰まる。

それでも黙って頷いた。


私を住んでいるマンションの前で渡守さんが降ろす。

そのまま、彼も降りてきた。


「璃世」


彼の腕が、私を包み込む。


「人に抱き締められるのって、リラックス効果があるらしい。

嫌だったら、ごめん」


「……いえ」


厚い胸板が頼もしい。

それになんか、いい匂いがする。


「ありがとうございます」


「ん」


私の顔をのぞき込んだ渡守さんがふわっと笑う。

それだけで心が満たされるのってやはり、私が彼を好きになっているからなんだろうな。


「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


私の頭を軽くぽんぽんし、彼がマンションに入るように促す。

手を振る彼に見送られて、部屋へと行った。

電気をつけて掃き出し窓を開け、外を見ると車が出たところだった。


「あと少し、待ってくださいね」


去っていく車にそっと話しかける。

もう少しだけ私に勇気が出せれば、私も素直になれると思うから――。

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