「うもっちゃん、おはよー」
私が仕事の準備をしていると作業員さんたちが出勤してきた。
「おはよーございまーす」
私も元気に挨拶を返す。
あれから渡守さんの紹介で、彼の勤め先の土木会社に事務員として雇ってもらった。
渡守さんはもしかしたら今までの会社よりも給料が悪いかもしれないと言っていたが、悪いどころか増えた。
前の給料を聞いた社長と渡守さんから、
『それで今まで、よく生活できたね……』
と心配されたくらいだ。
「おはよう、璃世ちゃん」
そのうち、渡守さんも出勤してきた。
「お、おはようございます……」
ホワイトボードに予定を書き込んでいた私の隣に彼が立つ。
そこにタイムカードがあるのだから当たり前だ。
けれどなんとなく、一歩横に動いて距離を取ってしまう。
できた一歩の距離を無言で見つめつつ、渡守さんは打ったタイムカードを元の位置に戻したかと思ったら、私との距離を詰めてきた。
黙って、彼を見上げる。
渡守さんはにこにこ笑って私を見下ろしていた。
それをなんともいえない気持ちで見つめつつ、そろりと横へ一歩、また移動する。
すぐにまた、彼が笑顔のまま距離を詰めてくるので私も横へ移動したが、やはり詰められる。
「えっと……」
「ん?
なに?」
渡守さんはとぼけて見せたが、絶対に愉しんでいる。
「今日、終わったら食事、行かないか?」
「あー……」
渡守さんはちょいちょい、私を食事に誘ってきた。
別に嫌じゃないし、誘われるのは嬉しい。
それに彼なら、私が少しでも不快に思っているのを察したら、二度と誘ってこないと思う。
しかし、私には少々、問題があるのだ。
「……今日は前の会社の後輩と約束があっ、て」
曖昧な笑みで、やんわりと誘いを断った。
「そう。
残念」
軽い調子で言い、彼があっさりと引き下がる。
いつも、そう。
私が断ってもくどくど言わず、さっと諦める。
「あ、えっと」
また誘ってください、そう言えばいいとわかっていた。
けれどなかなか、言いづらい。
「そろそろ行くぞー」
「わかりましたー!」
まごまごしているうちに社長が渡守さんに声をかける。
「じゃ、いってくる。
あと頼むな」
「はい、いってらっしゃい」
社長に留守を任され、笑顔で送り出す。
ひとりになって、大きなため息が出た。
「あーあ」
また、断ってしまった。
今日は用事があったからとはいえ、申し訳なくなってくる。
もうちょっと私に、勇気があれば。
いや、御曹司に喧嘩を売るような私に勇気がないなんて、あるはずないんだけれど。
昼間、事務所でひとり、過ごす。
社長も現場に出ているので、留守番と電話番も兼ねていた。
「うーん、そろそろ一息入れるか……」
ポットからお湯を注ぎ、お茶を淹れる。
現場にあわせて、私も十時と三時の休憩を入れていいようになっていた。
こんな天国な職場この世にあったのかと驚きだ。
「どうしようかな……」
お茶を飲みながら携帯で美味しそうなお店を探す。
まだあの会社で苦労している後輩には、美味しいものを食べさせたい。
いくつか候補を決めたところで画面を閉じ、仕事を再開する。
ここでの仕事は営業事務と総務、経理も兼ねていた。
前の会社では営業事務をしていたので見積もりを作ったりだとかは問題ないが、簿記などはわからない。
そう言ったら、勉強してくれと頼まれた。
とはいえ、仕事の空き時間で勉強してくれてかまわないし、参考書や資格取得の受験料も出してくれるという。
本当に至れり尽くせりで驚いてしまう。
お昼休憩を取り、あらかた仕事が片付いたので簿記の勉強をするか掃除をするか悩んでいたら、ドアが開いた。
「おい、来てやったぞ」
「あっ、こんにちは……」
入ってきた年配の男性はずんずんと事務所の中を進んでいき、応接セットのソファーへ横柄な態度で座った。
慌てて立ち上がり、ドリップのコーヒーを淹れる。
来客用にペットボトルのお茶を置いてあるのだが、それを出したらこんなものをオレに飲ませるのかと以前、怒鳴られた。
「あーあ、なんでオレがこんなところに来ないといけないんだ」
スーツの男性――
山背部長は親会社の部長さんだ。
でっぷりと出たお腹と脂ぎった頭は不潔そうに見え、さらに彼を苦手にしていた。
「どうぞ」
淹れたコーヒーを彼の前に置く。
「今日はどのようなご用件で……?」
私が言った途端、彼はじろりと私を睨み上げた。
「はぁっ?
用があるから来てやったんだろうが。
社長はどうした?」
「社長はまだ、現場ですが……」
「このオレがわざわざ来てやったというのに、いないってどういうことだよ!」
彼がテーブルを叩き、身が竦む。
どういうことも私は彼が来るなんて聞いていないし、社長もなにも言っていなかった。
きっと、社長も山背部長が今日来るなんて知らないんじゃないだろうか。
「えっと……。
社長に連絡、取ってみますね」
「あーあ、どいつもこいつも……」
笑顔を貼り付け、ぶつぶつ言っている彼からそろりと離れる。
ダッシュで物陰に隠れ、社長に電話した。
しかし、なかなか出ない。
現場では呼び出し音は聞こえにくいし、それに取れないときもある。
緊急のとき以外はメッセージを入れるようにいわれていた。
けれど、これは緊急だ。
「どーしよう……」
「社長はまだかー!」
私は困っているというのに、山背部長が大声で吠える。
一応、社長にメッセージを送り、少し悩んで渡守さんに電話をかけた。
祈る思いで呼び出し音を聞いていたら、……繋がった。
「あっ、お疲れ様です!
今、いいですか」
少しでも彼の時間を奪うまいと、早口で捲したてる。
『どうした?』
様子がおかしいと気づいたのか、渡守さんは心配そうに聞いてきた。
「その。
山背部長がおいでになっていて」
そろりと背後に視線を送り彼をうかがいながら、声を潜める。
『わかった、社長に伝える。
悪いけどもう少しだけ、相手してて』
「よろしくお願いします!」
『うん』
すぐに電話は切れた。
渡守さんに電話が繋がってラッキーだった。
「その。
社長と連絡がつきました」
「あーもー、オレを待たせるなよ」
貴重な時間を無駄にされたとばかりに山背部長は貧乏揺すりをしているが、別に次の予定があるとかいうわけではないはずだ。
彼はしょっちゅう、用もないのにやってきては文句を言ってコーヒーを飲んで帰る。
どうもうちを、無料の喫茶店かなんかと間違っているみたいだ。
「……これでも、どうぞ」
間を持たせないといけないので、三時のおやつに持ってきたドーナツを新しいコーヒーとともに出す。
「おっ、お子ちゃまのくせに気が利くな!」
思わずドーナツを引っ込めそうになったが耐えた。
山背部長は早速、かぶりついている。
なんか、あんな人間に食べられているドーナツが可哀想になってきた。
「すみません、お待たせしました」
山背部長がドーナツを平らげてコーヒーを飲み干した頃、社長が帰ってきた。
「おっせーよ」
「申し訳ありません」
恐縮して社長は彼の前に座ったが、悪いのは連絡なく来た山背部長だ。
「それで、ご用件は……」
「忘れた」
まったく悪びれる様子もなく、山背部長が笑う。
それに怒りがふつふつと湧いてきた。
うちに来てコーヒーをせびるのはまだいい。
でも、社長は作業を中断してわざわざ現場から帰ってきたのだ。
なのに、〝忘れた〟とは?
きっと忘れたのではなく、最初から用はなかったに違いない。
「ああ、そうですか、忘れた、ですか」
社長の声には皮肉が含まれていたが当たり前だ。
しかしそれが相手に伝わればいいが、彼は気づく様子がまったくない。
「あ、そうだ。
最近、利幅が低くないか?
無駄な経費使ってるんじゃねーよ。
そこの事務員とか」
ちらっと山背部長の視線がこちらに向かい、カッと頬に熱が走った。
「電話番とか近所のばばぁに小遣い渡してやらせときゃいーんだよ」
呆れるように彼がため息をつき、俯いて唇を噛みしめる。
確かに今はまだできることが少なくて電話番くらいしか役に立っていない。
けれど今後、忙しくて手が回っていない事務や経理の仕事を私に任せたいと社長は言ってくれたし、そのために頑張って勉強している。
なのになんで、こんな役立たずみたいに言われなきゃいけないんだろう。
「お言葉ですが」
すっと姿勢を正し、社長が真っ直ぐに山背部長を見る。
その真剣な態度に部長は少し、たじろいでいるようだった。
「兎本さんはしっかりやってくれています。
以前から課題だった、見積もりや請求書の電子化は彼女のおかげでできました。
これからもっと、活躍してくれるはずです。
私は彼女に投資してよかったと思っています」
社長が私を庇ってくれ、胸が熱くなった。
しかも、期待してくれている。
それだけでこの会社に雇ってもらえてよかったと思えた。
――けれど。
「前のばばぁがパソコンに疎かっただけで、電子化とか誰でもできるだろうがよ。
正社員じゃねぇで派遣で十分だしな。
さっさとこんなヤツ、クビにしろ」
不快そうに山背部長が社長を睨み上げる。
彼のほうへと一歩、踏み出しかけたがかろうじて耐えた。
ここで私がなにか言って、社長を不利にするわけにはいかない。
それに同じ失敗は繰り返さないと誓ったではないか。
「子会社とはいえ、うちは独立した会社です。
赤字を出しているわけでもなく、そちらにご迷惑をおかけしているわけでもないはずです。
うちにはうちのやり方がある。
お話はそれだけですか?
でしたら、お引き取りを」
立ち上がった社長がドアを開け、山背部長に帰るように促す。
「けっ、オレに逆らったらどうなるのか、覚えてろよ」
捨て台詞を吐き、部長は帰っていった。
「……はぁーっ」
大きなため息をつき、社長が疲れ果てた様子でどさっとソファーへ腰を下ろす。
「お疲れ様です!」
速攻で冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、彼の前に置いた。
「ありがとう。
兎本さんもわるいね」
力なく社長が笑う。
「いえ、私は全然!
社長が庇ってくれましたし」
「そう言ってくれると助かる」
今度はほっとしたように笑い、社長はペットボトルを開けて口をつけた。
親会社の部長は最悪だが、社長は尊敬できる人だ。
だから私に後悔はないし、辞める選択肢もない。
それに社長は、これからを考えているし。