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貴方と私の境界線(4)

「へぇ、そうだったの。菊野さんやるじゃない」

 私の話を聞き終えた一華ちゃんは、開口一番そんな風に呟いた。返事の代わりに頷くと、手に持っていたカフェオレの残りをずずっとストローで飲み干し、お代わりを注文している。

「でも合点がいったわ。翌日の真衣、何となく上の空というか落ち着かないというか、挙動が不審だったから」

「言い方~」

「事実でしょ。散策の時に何もない場所ですっ転んだのはどこの誰?」

「……」

 それを言われると何も言えないので、黙って自分の飲み物を飲み干した。丁度一華ちゃんのお代わりがやってきたので、私のお代わりも注文する。

「そんな訳で、この一週間色々考えた訳ですが」

「うん」

「……不安や心配は山ほどあるんだけど。でもね、やっぱり、こういう時は純粋な感情に従うのが一番かなって思うので」

「そうね」

「…………お受けしたいと、伝えるつもりなの」

 最後の方はほとんど掠れたような声になってしまったけれど、何とか最後まで言い切れた。一華ちゃんはグラスを置いて、ゆったり穏やかに笑っている。

「良いんじゃない? 菊野さんと真衣の場合だと、他の人達よりも色々超えるべき壁というか……大変な部分はありそうだけど。菊野さん本人は真面目そうだし誠実そうだし、真衣の事をちゃんと大事にしてくれそうだから。私は賛成するわ」

「あ……ありがとう、一華ちゃん!」

 お礼を言った勢いで、一華ちゃんの手を握ってぶんぶんと振った。子供みたいなアクションをしてしまったが、一華ちゃんは黙って受け止めてくれている。ひとしきり落ち着いたところで手を離すと、一華ちゃんの口が再び開いた。

「そうと決まれば作戦会議ね」

「作戦会議」

「返事そのものはシンプルに正直な言葉で伝えた方が良いだろうけど、時と場所は考えないといけないでしょ」

「そうなの……それで、助力を願いたいなと……ほんといっつも頼りきりで申し訳ないの極みなんだけど……」

「このくらいどうって事無いわよ。蚊帳の外にされる方が堪えるわ」

「頼もしい……これからは一華姉さまって呼ぼうか?」

「それは却下」

 すげなく断られてしまったので、むむっと頬を膨らませてみる。そんな私を一瞥した一華ちゃんは、確認なんだけどと前置きした上でキクノの社則に関して質問してきた。これ以上の抵抗しても仕方ないので、表情を戻して会話に戻る。

「社内恋愛そのものは禁止されてないよ。他の部署には社内で出会って結婚して、今も働いてる夫婦とかが何組かいるみたいだし」

「そうなのね。とは言え、会社はあくまで仕事をする場なんだし突っ込んだプライベートの話をするのは避けた方が良いわよね」

「そもそも、そんな人目が気になる場所で返事する勇気はない……真中さんの事もあるし」

 真中さんは……まぁ確かに少々誤解されやすい御仁だとは思うけれども、だからと言って嫌がらせをされて良い理由にはならないだろう。嫉妬そのものは人間なら仕方のない感情だと思うが、それに囚われすぎて相手の足を引っ張る行動を取るなんて醜いだけだ。そうは思うが、やはりターゲットにされたらと思うと怖い。

「ああ、嫉妬を買って嫌がらせされてたって言っていたわね」

「そうなの。私自身、インターンの時でさえ嫌な視線を感じる事とかあったから……万が一噂が広がったらって思うと中々恐怖」

「となると、社外で待ち合わせして二人きりになるのが妥当ね。今回はOKの返事をする訳だから、普通にデートする感じで誘っても大丈夫なんじゃない?」

「デッ……」

 今まで全く縁が無かった言葉が飛び出してきて、思わず言葉に詰まってしまった。頬と耳が熱くなってきたので、パタパタと両手で仰いで冷ましていく。

「待ち合わせして二人で出掛けるのはデートでしょ。広義で言えば、今私と真衣がしてるのもそうよ」

「そ、そう考えれば、もうちょい敷居が……いや無理、照れちゃう……」

「はいはい。とりあえず、この前の返事をしたいから休みの日に会えないかって素直に誘えば良いと思うわ」

「でも、どうやって連絡したら良いのかな。電話番号しか知らないし、メールアドレスは社内のだから私用で使うのは憚られるし」

「スマホのキャリア一緒だったんでしょ? それなら電話番号でメール送れる筈よ」

「そうなんだ、確認してみるね……あれ、場所はどことか、日時とかは私が決めて提案した方が良いのかな。誘うのはこっちだし」

「その辺は相手の出方次第じゃない? 向こうの方が明らかに忙しいだろうから、下手に日時指定すると全滅って事もあり得そう」

「それもそうか。それなら、都合の良い日を教えてほしいって聞いたら良いかな」

「良いんじゃない? 場所に関しては……向こうがどうしてもって言うならまた別だけど、会社に近い場所だと他の社員と鉢合わせする可能性ありあそうだし、数駅くらいは離れてた方が良いかも」

「それなら前みたいなキャンプ場とかが良いのかな?」

「悪くはないだろうけど、いきなり二人きりでキャンプってのはハードル高くない? もうちょっと、こう……ライトというかフランクに行ける場所の方が、防犯的な意味でも良いと思うけど」

「防犯?」

「菊野さんなら大丈夫とは思うけど、付き合う前から二人きりで車に乗ったり山奥に行くのはどうなんだろうなって。古い感覚だって言うならそれまでなんだけど、真衣は、ほら……別件でも、ちょっと注意してた方が良いかもって話があるし」

 もう数年は経ってるから今更どうのってのは可能性低いけどね。渋い顔と声で告げられた言葉に、そう言えばそうだったと思い出して冷や汗が背を伝った。学祭で歌った日以降、二か月、三か月経った後も付き纏ったり後を付けてきた人が少なからずいたし……今のところは一人で出掛けていても気にならないが、先日の日吉さんの件もあるから用心に用心を重ねるくらいで良いだろう。

「……付き合うならさ、やっぱりその辺の話もしないとだよね」

「そうね……用心するに越した事はないと思う」

 最高から最恐へと一変した一連の騒動。目の前で歌ってくれって言って大学まで押し掛けてきた人もいたし、何度断ってもしつこく付きまとって来たスカウトの人もいた。休みの日も気が抜けなくて、常に視線を感じて一人で外に出るのが怖かった。家族に接触した人もいたと聞いているので……もし、万が一億に一、彼が私と近しい人だと知られたら、彼にも何らかの影響があるかも分からない。

(未だに、思い出すと怖くて足が竦みそうになる出来事だけども)

 これからを願うならば、一緒にいたいと思うのならば。ほんのわずかな可能性であっても、彼に何らかの影響があるかもしれない話を黙ったままでいるのはフェアじゃない。その辺りの覚悟もした上で、彼を誘って二人で出掛ける……中々大変そうではあるが、泣き言を言ってはいられない。貴方の手を取ると決めたのだから、私も一歩踏み出さないと。

 改めて覚悟を決め、ぎゅっと両手を胸の前で握る。次いで顔を上げると、目が合った一華ちゃんは力強く頷いてくれた。

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