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貴方と私の境界線(3)

「ごめんね有谷さん。日吉さん、悪い人ではないんだけど猪突猛進というか、周りが見えなくなるというか……」

「知り合いなの?」

「ああ、うん。そうなんだ。僕が所属している作家事務所の人で」

「……作家事務所? 月城君が?」

 そんな話は初耳だ。しかし、嘘を言っている様には見えない。

「立ち話も何だから、そこのカフェとかで話せないかな? ああ、日吉さんは俺が遅れるって事務所の方に伝えてもらって良いですか?」

「え! 是非同席したいんですが!」

「いきなり自分の腕を掴んできた男とお茶飲みたい女性なんて居ないと思いますけどね」

「う……分かりました。先に事務所に帰ってます……」

「宜しくお願いしますね」

 項垂れながら歩いて行く日吉さんの背中を、月城君は笑顔で見送った。そして、さあ行こうかと言って歩き出す。一緒にカフェに入って席に座り、それぞれ飲み物を注文した。

「まずは、改めて謝罪するよ。うちの日吉が、本当にごめん」

「あ、ううん……もう大丈夫。ご丁寧にありがとう」

「本人にはきちんと言っておくから。今回はたまたま相手が有谷さん……僕の同僚だったからまだ良いものの、もしそうでなかったなら、場合によってはセクハラだ痴漢だって言ってもっと大事になってたかもしれないし」

「それはそうだね……宜しくお願いします」

 そう伝えると、月城君は頷いてくれた。タイミングよくコーヒーと紅茶が来たので、それぞれ一旦飲んでいく。

「ええと、どこから話そうか……というか、何が聞きたい?」

「え? そうだな……さっき事務所に所属してるって言ってたけど、一体何の?」

「作家事務所なんだ。俺は作曲家として所属してる」

「作曲家……え、月城君ってクリエイターだったの!?」

「そうなんだ。兼業だけどね」

 それは知らなかった。いや確かに、以前昨今のJポップ名曲について話して盛り上がったけれども……てっきり、私と同じような音楽好きの聴く専だとばかり思っていた。

「大学時代から趣味でDTMやっててね。自分で曲作って動画出して、そこそこ聞いてもらえて……それで、音楽で食べていくのも憧れるなって思っていたら、今の事務所が立ち上がるからって事で声を掛けてもらったから入ったんだ」

「そうだったんだ……あれ、事務所的には他の会社務めは大丈夫なの? そういうのって、専業とか契約とか色々大変そうなイメージなんだけど」

「決まりや制約が無い訳では無いけど、副業OKの他業種の会社なら正社員で働いて良いよって言われてるんだ。作曲家として一本で行くのも憧れはするけど現実難しいのは分かってるし、DTMって機材とか音源ソフトとか動画制作外注とかで何かと経費が掛かるから……別の安定した収入源がある方が、かえってやりやすいんだよ」

「ふーん……」

 私はマルチタスクが苦手なので、考える事が増えそうな兼業はとても出来そうに無い。体力も標準だし、スケジュール管理とかも大変そうだし……月城君凄いな。

「それじゃあ、今日あのカラオケ店にいたのは何かの曲の打ち合わせ?」

「そう。今度ネットCMのBGMを任せてもらえる事になって。一から俺一人でやるのは初めてだから、今まで以上に気合い入れて頑張ってるところ」

「え、凄いじゃん! 情報解禁したら教えてよ!」

「良いよ。まだ初期の打ち合わせの段階だから、企画そのものが立ち消えにならないように祈っててくれれば」

「分かった!」

 まさか、こんな身近にプロがいたなんて。世の中狭いものである。ついでに月城君の作家名を聞いてみると、肝心と名乗っていると教えてくれた。肝心要、ゴロ合わせみたいなものだよ……との事らしい。

「……さっきの、というか、日吉さんはさ」

「うん」

「私に何の話がしたくて、あんな行動に出たのか分かる?」

 月城君の事務所は作家事務所だと言っていた。作家事務所という事は、作曲家とか……或いは作詞家とかが所属するようなところだろう。そんな事務所に、歌うだけの私がいたところで何の戦力にもならないと思うのだが。

「ええとね……うち、一応作家事務所なんだけど、歌手部門というか歌手も複数人在籍してて」

「じゃあ、歌手としてって事? でも、作家事務所ってレーベルとか音楽事務所から依頼を受けて曲を作るところじゃなかったっけ? 歌う人はもう決まってるものでしょ?」

「基本はそうなんだけど、最近は一般企業のCMソングとかも手掛ける事が多くてね。でも、そういう時って歌手が決まってない事も多いから、歌手探しを一からしてると大変なんだよ。見積取って打ち合わせして……依頼料だっているし」

「なるほど……だから自社に歌手が居た方が、話が早いって事か」

「そうそう。歌声合成ソフトを使うんでも良いんだけど、中にはやっぱり人に歌ってほしいっていう風に言われる事もあるから」

「……そうなんだ」

 突如降って沸いた話に、ひやりとした心地になる。歌うのは好きだけど、仕事にしたいとか歌手になりたいとか、そういうのは考えた事がない。憧れが無い訳ではなかったけれど、あの時に……大学で騒ぎになった時に痛感したのだ。あんな怖い思いをするくらいなら、周りに迷惑をかけてしまうくらいなら、歌手にはなりたくない。私は、ただ自分の思うように歌っていたい、望むのはそれだけだ。

「もし……もしもの話だけどさ」

「うん」

「有谷さんが、うちの歌手部門に興味があるっていうなら喜んで資料渡すし所長に話もするよ。一応歌唱テストがあるんだけど、有谷さんなら間違いなく一発クリア出来ると思うし、今いるメンバーの中でも十分やっていけると思う」

「……」

「だけど、無理強いはしない。勿論、一緒に仕事出来たら嬉しいなって思うけど、歌とか音楽ってのは嫌々やるようなものじゃないからさ。どんなに実力がある人であっても、気持ちが向かないなら無理してまでやるべきではないと思うし」

「……うん。ありがとう。正直、私は……歌うのは好きだけど、そういう活動をしたい訳では無いから」

「そうだよね。大丈夫だよ。ああ、でも」

「何?」

「良ければ、俺の作った曲を試聴してアドバイスとか感想とか貰えたら嬉しいな。やっぱり、そういうのは同じくらいの熱量で対象を好きな相手からのものじゃないと、参考にしづらいし」

「うん。そういう事なら大丈夫。協力出来ると思う」

「ありがとう」

 目の前の月城君がそう言って微笑んだ。釣られるように口角を上げると、再び彼の口が開く。

「明日からはまた出勤だね」

「うん」

「勿論、有谷さんは僕の大事な同期の同僚だって事実は変わらない。キクノの方でも、これからも宜しく」

「こちらこそ、宜しく」

 挨拶して、その場を締めくくる。俺が誘ったからここは奢るよ、と言ってくれたので有難く甘える事にした。

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