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貴方と私の境界線(2)

『七年前にここの川辺で歌っていた、君を見たんだ』

『君の事が好きなんだ。だからどうか、結婚を前提にお付き合いをしてもらえないだろうか』

『今月中には何らかの返事を貰えると嬉しいな』

 何度も何度も、彼の言葉がこだまする。私が覚えていたもっとずっと前から、彼は私を知っていた。彼も、私を好きでいてくれた。これを幸福と言わずに何を幸福と言えようか……そう思う反面、私なんかが彼に釣り合うものだろうか、金銭感覚も価値観も違うだろうに、本当に大丈夫なのだろうか、そんな疑問や不安を湧き上がる。考えていても仕方ない事ではあるのだけれども、返事の如何でこれからがガラッと変わってしまうのだ。流石に、何も考えずに返事なんて出来ない。

 自室のベッドの上でぼんやり天井を見ていると、ぴこんとスマホが鳴った。画面を確認してみると、ごめんと手を合わせているスタンプ画像が映っている。どうやら、一華ちゃんから返事が来たようだ。

『今日は予定があるの。来週なら空いてるけど』

『それなら来週一緒に行こう。良い?』

 内容を確認した後で、そう打って送信する。暫くすると、了解した旨を伝えるメッセージとスタンプが送られてきた。

(……来週は一華ちゃんが一緒に行ける、けども)

 現状今も悶々と悩んでいるのだ。歌えばすっきりするだろうが……こういう時に限って家族は皆用事があるみたいだし。

(でも、三連休は今日で終わりだ。明日からはまた仕事が始まるんだから、このままでいるのもどうなんだろう)

 もやもやとした状態を引きずったままで、業務に全力投球出来るのか。集中出来るのか。そうしないと迷惑を掛けてしまうだろうから、やはり気分を晴らすためにも歌いに行った方が良いだろう。感情込めて熱唱していれば、気が付く感情も見えてくる答えもあるかもしれない。

 そうと決めたら、早いに越した事は無い。思い立ったが吉日という言葉もあるし、昼間ならそうそう危ない事もないだろうからヒトカラしに行っちゃおう。スマホを握ったまま起き上がり、着替えるべくクローゼットへと向かった。


  ***


「朝焼けが街並みを染めていくように鮮やかに、君の微笑みが心を照らしていく」

 合いの手が無いのは少々寂しいが、その分歌詞を意識して歌うのには良い筈だ。何か見えるかもしれないと思ったから、恋愛ソングばかりを入れたのだ。

「これほど綺麗な景色があるなんて知らなかった。霧が晴れた後の景色に魅せられた」

 ふっと脳裏に星空が浮かぶ。そう言えば、あの時は満点の星空だった。少し会話が途切れた際に見上げたけれど、本当に綺麗で幻想的だった。ずっと、こうやって一緒に眺めていたいと思ったくらいに。

「視界の中にいる色鮮やかな君が、眩しいくらいに輝いてる」

 今度は意中の彼の姿が浮かぶ。穏やかな彼の顔が、真剣な眼差しが、確かに綺麗で眩しかった。そんな事を考えながら、サビ、二番と歌い上げていく。歌い終わったので画面の端を確認すると、表示された消費カロリーは二十一キロとなっていた。結構な消費量である。

(……確か、この曲って返歌もあったような)

 今歌っていた曲は男性が意中の女性に向けて歌う告白の歌だったが、女性側からの返事の歌もあった筈だ。タイトルを思い出したので機械を操作し探してみると、案の定現れる。選択して送信ボタンを押し、イントロが流れてきたのでマイクを構えた。

「闇夜に煌く一筋の光の先、それが知りたくて駆けだした」

 画面を眺めながら、ゆっくりと歌い出す。公式PVが採用されているらしく、見慣れたキャラクターイラストが画面の真ん中に現れた。

「きらきら煌く贈られた言葉、初めての色彩に気づいたんだ」

 君の事が好きなんだ。とても真面目で、誠実な言葉を彼は私に贈ってくれた。個人的にはけじめって大事だと思うんだけど、最近は何となく付き合い始めたとかそういう明確な事はなかったとかって話も聞くから、何だかな……とは思っていたのだ。そんな大事な事をはっきり伝えないなんて、そりゃすれ違って誤解が生じて、時と場合によっては大事に発展してってなってもおかしくないじゃないか……と、昔から、そう思っていたので。それなら、そういう部分の価値観は、彼と私で案外似ているのかもしれない。

「色づいたその景色の先に、君がいるのが嬉しかった」

 不安なら山ほどある。心配だって山ほどある。考え始めたらキリがないし、足が竦みそうになるけれど。でも、それでも譲れない何かがあるから、人は恋愛に踏み切るのではないのだろうか。前に進もうと一歩を踏み出すんじゃないだろうか。一旦頭の中をクリアにしたかったので、二番からはより歌詞を意識して感情を込めて歌っていった。

(……結局、未来がどうなるかなんて誰にも分からないんだし)

 それなら素直になった方が良いんじゃないだろうか。純粋な、感情に目を向けた方が良いんじゃないか。絶対にぶれない、揺らしたくない感情があれば、例え途方もない困難にぶち当たったとしても、どうにか出来るのではないだろうか。

「それなら、私は……」

 もう一度、彼の事を思い出す。差し入れを持って来てくれた時の顔を、一緒に夕飯を食べた時の顔を、告白してくれた時の顔を……帰りの車の中で見た横顔を。思い出して、彼の言葉も反芻して。見えてきた事は、単純な事。

「……私も貴方が好きだから、ずっと一緒にいたい」

 それが私の、嘘偽りない感情。育ってきた世界は違うけれど、年だって五つ離れているけど、まだまだ彼については知らない事の方が多いけれど。知らないから知りたいと思うし、知って戸惑う事があっても、一緒に模索していきたいと思うし。そう心から思うんならば、彼が一歩踏み出して歩み寄ってきてくれたみたいに、私も応えるべきなんじゃないか。

 覚悟は決まった。返事の内容も決まった。後は、どうやって彼に伝えるのが良いかを考える必要がある。流石に、それは……遠距離とはいえ既にラブラブ彼氏持ちの、要は既に成功体験をしている一華ちゃんに相談しても良いのではなかろうか。頼ってばかりで申し訳ない思いはあるけど、でも、あの時だって、頼られない方が悲しいと言ってくれた。そんな一華ちゃんの気質は、一華ちゃんの事は、他の人よりは分かっているつもりだ。

 気合いを入れるように、パンと両手で頬を張った。タイミング良くフリータイム終了を告げる電話も鳴ったので、荷物を纏めて部屋を出て会計を済ませる。まずは帰って夕飯の準備をしてから色々考えよう……そう思っていたら、後ろからすみませんと叫ばれ、いきなり手首を掴まれた。かつての記憶が蘇ってきて、一気に体と心が凍り付いていく。

「あの! さっきカラオケで歌っていた方ですよね!」

「え、な、何ですかいきなり」

「凄く上手くて感動しました! あの、怪しい者では無いんですけども!」

「いえ、あの、急いでいるので」

 そう言って振り払おうとするのに、力が強くて振り解けない。怖くて、怖くて、呼吸が浅くなってきた。

「少しだけ! すぐ済みますから!」

「い、嫌……やめ」

「日吉さん。それは明らかにマナー違反ですよ」

 突如第三の声が現れた。あれ……この声には、聞き覚えがある。

「いきなりごめんね、有谷さん。ほら離して、日吉さん……これ以上やるとセクハラになるよ」

「……月城君?」

 私から日吉さんなる人物を引き剥がしてくれたのは、他ならぬ月城君だった。

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