一面に広がる緑の中を、青い空が抜けていく。壮大な景色に目を奪われ、言葉を失ったままひたすらに魅入った。
「それじゃあカレーを作り始めましょう。真衣、誠、手伝ってくれる?」
「うん」
「分かった」
「それじゃあ俺は火の準備をしよう」
「お願いね」
そんな会話をして、母さんを手伝い野菜を切っていく。玉ねぎ、肉と炒めてじゃがいもと人参を入れて……煮込み始めた頃合いで、すっかり手持無沙汰になってしまった。
「ねぇ、母さん。ちょっと川見て来ても良い?」
「川に? 一人じゃ危ないわよ」
「こちらからも良く見える場所だし大丈夫だろう。俺がちゃんと見ておくから……ああ、でも、川の中には入らないように」
「着替え持ってきてないし入らないよ。それじゃあ行ってくる」
両親にそう告げ、川辺に向かった。じゃりじゃりと音を立てながら歩を進め、きらきらと光っている水面をぼんやりと眺める。
(……こんな追い込みの時期に、のんびりしてて良いのかな)
不安は正直ある。今この瞬間だって、他の子達は必死に勉強しているのだ。志望校のランクを下げれば合格圏内は余裕なのだが、通学が大変になってしまうし……希望しているところに入れれば自転車通学で十五分ほどなうえ、制服もセーラー服で可愛い。だから頑張ってきたけれど、模試の判定ではいつも五分五分の確率しかでない。塾の夏期講習で毎日勉強して、学校の宿題も塾の宿題もやって、過去問も解いて……頑張っているのに。これ以上、どう頑張れと言うのだろう。
「すげぇ! 外でもちゃんとカレーだ!」
何とも言えない心地でいたら、誠のはしゃぐ声が聞こえてきた。誠のあんな声、久々に聞いたかもしれない。ここ最近はずっと出掛けられなくて、家で過ごす事が多かったから……そうだ、それだけでも、来た意味はあったのかも。
深呼吸して、もう一度川を眺めた。眩しさに目を細めつつ、そう言えば最近は全然歌っていなかったなと思い出す。周りを見渡してみてもうちの家族以外は居ないみたいだし、久々に歌ってみようか。
「突然連れ出されて、やってきた砂浜は。容赦なく私を照りつけて……」
ぱっと思い出した夏の歌を口ずさむ。近くに手頃な大きさの岩があったので、そっと腰かけて続きを歌い上げる。気分が良くなってきたので、もう一曲歌っちゃおう。
「ずっとずっと信じてた、いつか君に出逢えると。そう信じて、今日まで生きてきた……」
水面に向かって、空に向かって、気ままに手を伸ばしたり胸元に持ってきたり。テレビでみたパフォーマンスを思い出しながら歌っていると、霧が晴れたかのように心のモヤモヤが晴れていったのが分かった。
「真衣! 出来たわよ!」
丁度歌い終わった辺りで、カレーが完成したとの報が入った。返事をして、皆の元へと駆け足で戻る。
(すっきりした! やっぱり、歌うのは最高!)
もしかして、三年生になってからカラオケに行ってなかったからストレス溜まってたのかな。それなら、月に一回とかでカラオケ行って、行けない間はちょっと口ずさむくらいでもすれば、良い気分転換になるのかも。
漸く光が見えた気がして、弾んだ心地のまま家族キャンプを終え。以降の勉強を頑張れたお陰で、無事第一志望の高校に合格出来たのだった。
***
「……そんなに、前から」
私の事を。呆然としたまま繰り返した言葉に、菊野さんが頷いた。さらりと揺れた彼の髪の動きが、いやに印象的に映る。
「そうなんだ。それで、君の歌に聞き惚れて、歌っていた姿が印象的で忘れられなくて……そしたら、その二年後に大学の学祭で再会出来たから。驚いたけど嬉しかったよ」
「よく……同一人物だって分かりましたね」
「声を覚えていたからね。地声と歌声だと違う人もいるけど、君はそこまで変わらない印象だったし」
「なるほど……」
「だから目で追ってたんだけど、まさかそれが功を奏するとはね。ほんと、君が転ばなくて良かった」
「……その節はありがとうございました」
恥ずかしいので、当時の自分をあまり思い出したくはないのだが。周りがオープンキャンパスに色々行ってるという話を聞いて、どこか行ってみようかという話になり……丁度かの大学の学祭があるからという事で一華ちゃんと一緒に行ったのだ。
結局、明鏡大は受ける事すらしなかったのだけれども。学力的にかなり頑張らないと難しいというのもあったし……社長令息とか令嬢とか、重役の子供とか、そういう裕福な人が多いブルジョワ大学としても有名だったから、馴染めなさそうだなと思って希望しなかったのもある。それなのに、好きになった相手はそこの卒業生で勤めている会社の社長令息だというのだから、皮肉なものだ。
「そこで連絡先とか聞けたらまた違ったんだろうけど、女の子へのアプローチなんてした事なかったからどうすれば良いかも分からなかったし。再会出来た事実に高揚してたからそこまで気も回らなかったというのもあるんだけど」
相変わらず、彼の左手は私の右手を掴んでいる。どくんどくんと跳ねている心臓の音は、果たしてどちらのものなのだろう。
「それでも忘れられないまま、どうして忘れられないのかも分からずにいたら、インターンでまた再会出来たでしょ。三度目の正直だ、これを逃したらもう好機はないと思って、俺なりに色々して……そうしていくうちに、一生懸命業務を頑張ってる君を見て、頑張っているんだな、可愛いなって思って。困っているのを見て、助けたいって、力になりたいって思って」
さっき喉を潤したばかりなのに、もうからからに乾いていた。菊野さんの視線は相変わらず私に真っ直ぐ向けられているし、右手は熱いし、鼓動は早鐘だ。心なしか、距離も先程より近い気がする。
「君の事が好きなんだ。だからどうか、結婚を前提にお付き合いをしてもらえないだろうか」
その言葉に、息を飲む。目の前の彼の眼は、どこまでも澄んでいて美しかった。