喉が渇いた気がして、ふっと意識が浮上した。布団の中に潜りスマホで時刻を確認してみると、丁度日付が変わったくらいを示している。
(……静かだな)
スマホの電源を消して、再び布団から顔を出した。普段住んでるマンションにいる時ならば、この時間でも何らかの物音がしたり窓の外に光が見えたりもするのだが……まるで、全世界が寝静まっているかのように、物音ひとつ光ひとつ聞こえないし見えない。
流石に怖気づいたが、そういう時に限って喉はどんどん乾いていく。一華ちゃんを起こそうかとも思ったが、こんな真夜中に付き合わせるのも申し訳ない。ここはコテージの中だし、スマホのライトで床を照らしながら進めば大丈夫だろう。
深呼吸して覚悟を決め、起き上がって上着を羽織る。皆を起こさないように注意して布団から抜け出し、キッチンの方へと向かった。
(誰かいる?)
ライトの明かりを頼りに廊下を進んでいると、リビングの方から光が漏れているのに気づいた。もしかして、私以外にも誰か起きてきたのだろうか。そうっと入口に近づいて中を覗くが、明かりが弱くて流石に誰かまでは分からない。眼鏡も掛けてないしどうしたものかと思っていると、かたんと音が鳴って淡い光が揺れた。
「誰かいるのか?」
聞こえてきた声のせいで、乾いていた喉が更に干上がった。どっどっどっと心臓が早鐘のように鳴り響き、床に縫い付けられたかのように足が動かない。そうこうしている内に声の主、もとい菊野さんはこちらに近づいてきた。
「あれ? 有谷さん?」
「あ……はい」
「どうしたの? もしかして眠れない?」
「いえ、あの……喉が渇いたなと思って」
「そうか。それなら、こっちにおいで」
「はい……」
断る理由もないので、彼の後を付いていく。座って待っててと言われたので、大人しく椅子に座った。
「お茶で良いかな?」
「あ、自分でするので大丈夫ですよ」
「良いの良いの。ついでだし」
「……ありがとうございます」
彼の両手には、それぞれコップが握られていた。一つ手渡された後で、彼が私の右隣に座る。もしかして、菊野さんも喉が渇いたからここに来たのだろうか。
「菊野さんも喉が渇いてこちらに?」
「いや、せっかくだから夜空でも眺めようと思って」
「夜空を……」
「と言っても、どの星がどれとか何て名前とか、そういうのは分からないんだけどね」
そう言って、菊野さんは肩を竦めた。いつぞやに課長がやっていた時は、ほんとにやる人いるんだなぁ程度にしか思わなかったけれども……彼がやると様になっていて見惚れてしまう。贔屓目とは、正にこういう事を言うのだろうか。
「私も、授業で聞いた事があるくらいです。星座の名前とかは知ってますけど」
「星座……確か、有谷さんは今月の10日が誕生日だって言っていたよね。それなら何座になるのかな?」
「かに座です。菊野さんは11月10日でしたよね?」
「覚えていてくれたんだ。うん、そうだよ……何座なんだろうね?」
「ええと……あ、11月10日はさそり座だそうです」
スマホで検索した結果を伝えると、そうなんだと頷く声が聞こえてきた。優しくて爽やかな印象の彼がさそり座というのは、ちょっと意外な気もする。
「……」
「……」
恐らくどちらも然程星座に興味がないせいで、会話が途切れてしまった。それでもこの場を離れ難くて、淹れてもらったお茶をちびちびと普段よりも時間を掛けて飲んでいく。
「……有谷さんは、以前ここに来た事があるって言っていたよね?」
「はい。もう随分前の事ですけど」
「それじゃあ、学生の時?」
「中学生の時でした」
そう伝えると、菊野さんが一瞬だけ動きを止めた。そして何事かを口ごもり始めたが……声が小さくて聞き取れない。
「誰と行ったの?」
「家族とです。丁度受験の年で、煮詰まってたから気晴らしにと」
「へぇ。普段から良くキャンプするお家なのかな?」
「そういう訳でもないです。確か、弟が……あ、私弟が一人いるんですけど、弟が当時見ていたアニメか何かの影響で行ってみたいって言っていて。それで、私のリフレッシュも兼ねて一泊二日で行ってみるかとなりました」
「そうなんだね。楽しかった?」
「楽しかったですよ。森の中を散策して、川で水遊びして……カレーも作りましたね。私達は昼ご飯に、でしたけど」
「……川にも行ったんだ?」
「はい。本格的に水遊びしたのは昼ご飯を食べてからでしたけど、カレー煮込んでた間もちょろっと川辺に」
「その時は、何をしていた?」
いつになく固めの掠れた声が聞こえてきたので、菊野さんの方を振り向いた。真剣な彼の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。怖いくらいに綺麗な瞳が、泣き出しそうに潤んでいた。
(……彼になら)
正直に言っても良いだろうか。今まで見てきた彼の姿を考えれば、へらへらと人の噂を吹聴するような人には見えないし……それに、少しでも距離を縮めたいと願うならば、いずれは話さないといけない話だ。今回の話も、大学の時の騒動も。
「……歌っていました」
「歌って、た」
「はい。私、歌を聞くのも自分で歌うのも好きなので……当時好きだった曲とか流行りの曲を、一人川辺で」
「曲のタイトルとか覚えてる?」
そんな問いかけに、記憶を掘り返しながら答えていく。彼の瞳が一際大きく見開かれ、先程よりも更に強い視線が私に注がれた。
「……間違いない」
「菊野さん?」
「いや、多分そうだとは分かってたけど、やっぱりどこか一抹不安はあって……でも、間違いない」
「あの、一体……!?」
どうしたのだろうと思って、もう一度彼の名前を呼ぼうと口を開いた。しかし、その声が言葉になる前に、私の右手が何かに強く握り込まれる。そして、それが彼の左手だと気づいて悲鳴を上げかけた。
「俺は、君がインターンでうちに来てくれる、もっとずっと前から君を知ってたんだ」
「ずっと前……ああ、そうですよね。私が高校生の時に、大学の文化祭で」
「いや、それよりももっと前から、ずっと」
上ずった声が、耳朶を撫でる。そんな話を、このタイミングでされたという事は。まさか。
「七年前にここの川辺で歌っていた、君を見たんだ」
握られている腕が、痛くて熱い。想定外の事実に、告白に驚いて……私の中から、言葉が消えていった。