「やあやあ、鬼様の居ぬ間に……とはお前も考えたな」
「褒めても何も出ないぞ」
目の前で繰り広げられる会話に呆れつつ、カステラを口に運ぶ。もう一切れいるかいと北方さんに聞かれたので、鬼様もとい真中さんの分を確保しておいた。甘い物は好きらしいので、きっと喜んでくれるだろう。
「しかし災難だったね。有谷さんは怪我とかしなかった?」
「大丈夫です。鞄も、修理の目途が立ったので良かったです」
「そうか、それなら良かった」
菊野さんはそう言って、私へ微笑みかけてくれた。それはやっぱり嬉しいし、顔が熱くなってどきどきして、ふわふわと浮き立つような心地になる。一方で、そんな風に浮かれていたからこんな事になったのではないか、そんな場合ではないくせに、と責めるような感情も消えないでいる。
「そういや例のスクリーンはどうなった? 何か分かったか?」
「損傷が激しくて張り替えじゃ間に合わないとの事だったから新品に変えたよ。何か映ってないかと思って社内カメラも確認してみたが……それらしい人物は映って無かったな」
「うーむ、収穫なしか」
唸っている課長が三つ目のカステラに手を伸ばす。案外、彼も甘い物が好きらしい……悔しいが、真中さんとは趣味が合いそうだ。
「しかし、何か手を打たないと第三第四の被害が出かねない……という事で、各部署に鍵付きのロッカーを人数分設置する事にした。一般的なビジネスバックやリュックが入る程度の大きさだが、無いよりは良いだろう」
「よっ、太っ腹~」
「漸く念願の鍵付き個人ロッカーが……」
「鞄じゃなくて食糧入れてても大丈夫ですかね?」
菊野さんの言葉へ、めいめいが好きに返事していく。それに倣ってありがとうございますと伝えながら……そういう大掛かりな事を決められるなんて、やっぱり彼は凄くて遠い人なんだなと寂しさを覚えてしまった。そんなの、分かっていた筈なのに。
「元々他の部署からも希望は上がっていたし、社外の人間も出入りするからな。それに、昨今は悪評が直ぐに広まりやすいから、何かあったならば早いうちに対策を講じていないと企業のイメージダウンや入社希望者減に繋がりかねない。流石に、その辺りは社長も理解してくれたよ」
彼の口から社長という言葉が出て来て、先程とは別の意味で心臓がどきりと跳ねた。この会社の社長……つまり、菊野さんの、お父さん。
「……菊野さんが、わざわざ社長に掛け合って下さったという事ですか?」
「ああ、うん。うちの社長は気難しいからね」
「そうそう。悪い人ではないんだけど、頭が固いというか、昔気質というか」
「古い人間なんだよ。色々と」
吐き捨てるように告げられた言葉が、妙に印象的だった。あまり仲が良くない親子というものが存在する、というのは知っているが……目の当たりにする事は多くなかったから、何となく居心地が悪い。
「それはそうと、有谷さんは新しい鞄は買わずに修理に出すの?」
「修理と言うか……切れている場所に当て布を縫い付けてカバーしようかな、という感じです。ちょっと出掛けるくらいなら、それでも問題なく使えそうなので」
「……それじゃあ、仕事用の鞄は別で買うつもりなのかな?」
「は、はい……訪問先にも持っていく物ですし」
「それならさ、今度一緒に買いに行かない? 俺も鞄買い換えようと思っていたし、君の分まで一緒に買うよ」
「……えっ」
今彼は何と言った。今度、一緒に買いに……鞄を、君の……私の分まで!?
「数駅先の店なんだけど、良い店なんだ。手入れして使えば十数年は持つし、経年劣化で取っ手が壊れたとか角が破れたってなっても持っていけば修理してくれるし」
「で、でも、あの」
「遠慮しなくて良いよ。一人で行くよりは二人の方が楽しいだろうしさ。だから、ね?」
「……菊野君、ストップ」
驚愕の申し出と展開に戸惑っていたら、羽柴さんが割って入って助け舟を出して下さった。そうか、羽柴さんは北方さんと同期だと言っていたから……菊野さんや真中さんの先輩になるのか。
「有谷さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫、です。驚いただけで」
「そうよね。そんな良い鞄なら安くない買い物でしょうし、そんな値の張る物をいきなり買ってあげるって言われても困るわよね。菊野君先走り過ぎよ」
「……それは」
菊野さんの肩が、目に見えてがくりと落ちた。悲しませたかった訳では……落ち込ませたかった訳ではないので、羽柴さんの横から顔を出して菊野さんの方へ向かって口を開く。
「お気持ちは……気遣って下さった気持ちはありがたいと思っていますし、嬉しいと思います。でも、だからといってそれに甘えていてはいけないと思うんです」
もし、私が功績を上げたから褒賞として会社が買ってくれる……とかなら、甘えても良かったのかもしれない。でも、彼は明らかに自費で買おうとしてくれていた。それなら、そんな……付き合っている恋人でも親族とかでもないのに、買ってもらうなんて流石に申し訳ない。只でさえ、こうやって差し入れを定期的に貰っているのに……それ以上も、だなんて不相応にも程がある。
「なので、次の仕事用鞄は自分で買います。来週給料日ですし、自分で使う物だから自分で選んで買う事で、責任も持てると思うので」
贈り物は嬉しいし、貰った物は勿論大切に使うけれど。でも、働いて自分で稼いだお金で買った物はまた格別だろう。そういった物を毎日身に着けていたら、きっと自信も付くに違いない。
「……うん、そうか。そうだね」
「そんな風に言って頂けた事は、本当に嬉しかったですよ。そこは、確かなので!」
「そうか、それなら良かった」
拳を握りながら告げると、菊野さんは漸く顔を上げて笑ってくれた。良い子だねぇとか青春だねぇとか聞こえてくるが、気恥ずかしいので気づかないふりをする。
(……!?)
刹那、刺されるような視線を感じて体が震えた。思わず振り返ったが、特段変な様子は見受けられない。
(何だったんだろう……)
もうすっかり、いつのも企画課の雰囲気だけれども。どうしても、ざわざわと落ち着かない心地のままだった。