「……大丈夫?」
「大丈夫です……」
空元気も元気のうち。言霊という言葉があるように、口にしていればいずれ本当に現実になる。そんな訳で虚勢を張るも、流石に今回の件は堪えた。
「無理しなくて良いわ。私物があんな事になっちゃ、誰だって落ち込むわよ」
「真中さんの言う通りよ。無理はしないでね」
「……」
心配してくれている真中さんと羽柴さんへ力なく頷き、実は見間違えだったという期待を込めてもう一度腕の中の鞄をじっくりと眺めていく。しかし、鞄の正面と側面には……見間違えようがないレベルに、大きな切り裂き傷が入っていた。
「やっぱり、荷物全体が入る大きな施錠可能ロッカーを各部署で導入すべきね。社外の人の出入りも無い訳では無いし、早いうちに要望書を出しておくわ」
「ありがとうございます」
真中さんへお礼を言い、もう一度鞄を眺める。裁縫が得意な母さんなら修理なりリメイクなり出来るかもしれないが、明らかに刃物で切られた鞄を見せたら卒倒してしまうかもしれない。入社祝いにと言ってお祖母ちゃんから貰った物なので、簡単には捨てたくないし……帰ったら色々方法を検索してみよう。もしかしたら、私にも出来そうな案があるかもしれない。
「課長に報告しないといけないでしょうけど……どう説明したら良いものですかね。流石に、こればかりは誰かが悪意を持ってやったとしか思えないですけど……一体誰がこんな酷い事……」
「……順当に考えて、社内の誰かの仕業でしょうね。もっと言えば、社内の人間でも企画課に自由に出入り出来る人間」
「そうなると、やっぱり可能性が高いのは企画課の中の誰かになりますよね。でも、今の企画課に、そんな事するような人がいるとはとても思えませんが……」
「……」
てっきり、そうよねと肯定してもらえると思っていたのだけれども。予想に反して、真中さんも羽柴さんも言葉を詰まらせた。すぐに肯定出来ないという事は、つまり、二人とも企画課の中にそういう事をする可能性がある人がいると思っている事に他ならない。そう気づいてしまって、背中の辺りがぞわっと粟立った。
「……一旦、現状を課長に報告しましょう。当事者である有谷さんも、鞄を持って一緒に来てくれる?」
「分かりました」
「羽柴さんは通常通り業務をお願いします。取引先から連絡が来る予定になので、私が居ない間に来た場合は対応頂ければ」
「分かったわ」
「お願いします……それじゃあ行きましょう」
「はい」
そう言った真中さんが立ち上がり、課長に近づいて一言二言話しかける。課長の視線がこちらに向けられ、私の腕の中に向けられた。話し掛けられたタイミングではいつも通り飄々としていた様子だったが、こちらを確認した瞬間一気に真顔になる。
「込み入った話になりそうだから場所を変えよう。二人とも付いてきてくれ」
「分かりました」
返事をして、先を歩く課長の後に付いて行く。下の小会議室に移動するだけなのに、歩いている時間が無限のように感じられた。
***
『なるほど。昼休みで席を外している間に、有谷君の鞄が傷つけられていたと』
『こちらも鋏かカッターかで切られている感じだな……スクリーンを切った犯人と関連がある可能性も視野に入れておいた方が良いな』
『たまたま選ばれて有谷君だったのか、意図的に狙ったのか。どちらにせよ、警戒しておくに越した事はない。気を付けておきなさい』
昨日言われた言葉が、脳内に浮かんでは消えていく。思考がどんどん落ちていきそうになったところで、お待たせと言って声を掛けられた。
「紅茶で良かった?」
「ありがとうございます。持って来て下さって……セルフカフェに誘って下さって」
「良いのよ。丁度私も休憩しようとしていたところだったし」
「大変そうな作業をされていましたもんね」
「ええ。でも、もう終わったから大丈夫」
「流石です」
手渡されたカップを受け取り、冷ましながら飲んでいく。じんわりと温かさが体内に広がっていき、漸く人心地ついた。
「……真中さんはどちらだと思いますか?」
「どちらって?」
「たまたま私だったのか、私を狙ったのか」
「あくまで私の主観だけど、良い?」
「はい」
「……意図的に狙われたと思う。最近の貴女を見ていたら、特に」
「そう、ですか……」
「スクリーンの方は分からないけれど、少なくとも……貴女の物が無くなったりとか今回の鞄だったりとかは、どうも関連があるように感じるのよね。多分、私が似たような目に遭って来たからだと思うんだけど」
「……でも、真中さんに意地悪していた方々は、もう企画課には居ないって」
「大多数は別部署にいるけど……もしかしたら関わっていたかもしれないって人が、一人だけ残ってるのよ」
「え……」
五月後半、正に初夏というタイミングなのに、体中が凍り付いたかのように動かなくなる。ちらりと私を見た真中さんは、それでも言葉を止めずに再び口を開いた。
「状況証拠だけで、推測の域を出ない状態だったし……飛ばされた人達と違って業務そのものは真面目にこなしていたから、下手に飛ばすよりも監視しておく方が良いと思ったのかもしれないわ。もしかしたら、私が知らないだけで……異動させる予定だったけど、長期で休職する事になったから話が無くなったって可能性もあるけど」
今の企画課にいる人で、長期休職していた人。心当たりは一人だけ。あの嫌な感じの笑顔が脳裏をよぎり、ざわざわと落ち着かない心地になる。
「……今の話は全部推測でしかない。もしかしたら、全然別の人がやっていたかもしれないし、ランダムで貴女が選ばれた可能性も否定出来ない。でも」
自分の分を飲み終わったらしい真中さんが、カップを潰して立ち上がった。聞き逃すまいと、彼女から目を離さずにじっと続きを待つ。
「警戒はしておいても良いかもしれないわね。私も注意しておくわ」
「……分かりました」
それだけ返事をして、残っていた紅茶を飲み干す。戻りましょうと促されたので、真中さんの背中を追った。