「さっき有谷さんが見ていたリサーチ集計資料、今出せる?」
「はい」
真中さんにそう尋ねられたので、三段引き出しのオールロックを開けて該当の資料を取り出した。ついでに修正テープも引き出しから出しておこうと思い、一番上の引き出しを開ける。修正テープをデスクの上に置いた後で、再び引き出しにロックを掛けた。
「文房具まで全部ロックが掛かる方に入れているの?」
資料を確認していた真中さんに、不思議そうな表情で尋ねられた。文房具は良く使う物なので、正面の通常引き出しに入れる事が多いからだろう。
「前までは利便性を考えてそうしていたんですけど、最近物を失くしやすいので」
「失くしやすい?」
「はい。ボールペンとか資料とか……この前はUSBメモリまで失くしましたし」
「そう言えばそうだったわね。メモリに関しては、貴女普段ちゃんと引き出しに閉まってたから変だなとは思ったんだけど」
「一応あの後、別の場所から出てきたんです。でも……全部データが無くなってて」
「そうだったの?」
「はい。見つけたの戸棚の隙間だったので……多分、知らぬ間に落としてて、その衝撃でデータが飛んだのかなって」
「……そう」
真中さんの眉間に皺が寄る。先日失くした資料は、間違って破棄書類と一緒にシュレッダーに掛けていたようだし……こんなミスや失態を連発するなんて、気が緩んでいる証拠だ。色々と現を抜かしてる場合ではない、気を引き締めていかないと。
「変に気を取られるくらいならば、少々面倒でも安全策を取る方が安心だわね。私も周囲には気を配っておくから、貴女も思い詰めない程度に気をつけて」
「分かりました」
返事をすると、真中さんは自分のデスクに戻っていった。気を取り直して、中断していた作業に取り掛かろうと私もデスクに向かう。
(……?)
ふと視線を感じたので、顔を上げて周囲を確認した。しかし、皆それぞれ作業なり電話対応なりをしていて、顔を上げている人はいない。
「うわっ!」
首を捻っていると、入り口の方から短い悲鳴が聞こえてきた。どうやら、セルフカフェから帰ってきた月城君が持ってきたコーヒーを落としてしまったらしい。よいしょと言って立ち上がり、部屋の端にある掃除用具用のロッカーから雑巾を取り出して彼の元へと向かった。
「月城君、大丈夫?」
「ああ、有谷さん……ごめんね」
「これくらい大丈夫だよ。火傷とかしてない?」
「大丈夫。ありがとう……」
彼の無事を確認したので、雑巾で床を拭いていく。拭き終わったのでカップを持って立ち上がると、月城君は相変わらずその場に立ったままで俯いていた。
「何か顔色悪いよ? もしかして具合悪い?」
「いや……心配かけてごめんね」
「……そう」
大丈夫だと言われてしまえば、それ以上は突っ込めない。でも、普段慎重な彼が飲み物を落として零すという事自体、珍しいと言えば珍しい。
(単に疲れてるだけとかなら良いんだけど)
月城君が所属している小柴さんチームは、丁度来月新製品発売という事で忙しくしているらしい。私達のチームと違って一人多い四人体制らしいが、そもそもやる事が多いので大変なのだろう。
「済みませんね、有谷氏」
「小柴さん……いえ、このくらいでしたら大丈夫ですよ」
「それはそれは慈悲深い事で。もう一度ちゃんと謝りなさいよ、月城氏。只でさえ諸々押していると言うのに、こんな事で煩わせないで下さいますかな」
言うだけ言って、小柴さんは部屋を出ていった。知らず身構えていたらしく、彼の姿が消えた瞬間肩の力が抜けていく。
「……あんな言い方しなくたって良いのにね」
「いや、有谷さんに迷惑かけたのは事実だし、僕のせいでチームメンバーに手間かけてるのも事実だし……」
「月城君は企画課に来てまだ三か月くらいじゃない。それに、私は勝手に気を回して雑巾持って来て、勝手に床拭いただけだよ。月城君が気にする事じゃないから」
「……うん、ありがとう」
「どういたしまして」
返事をして、雑巾を洗ってくる旨を真中さんに伝え部屋を出る。じゃぶじゃぶと雑巾を洗っている間中、ずっと気分が晴れなかった。
***
「真中さん、お聞きしたい事があるんですけれども」
周囲に小柴さんや月城君が居ないのを確認してから、口を開く。正面で定食の味噌汁を飲んでいた真中さんは、どうしたのかと言って顔を上げてくれた。
「最近の月城君、変だと思いませんか?」
「月城君? そうね、何か元気がないというか、覇気がない感じはあるわね」
「元々そんな極端に溌剌としてるタイプではないと思いますけど、それにしても気落ちしている感じで……疲れてるだけにも、正直見えなくて」
「……そうね。上の空というか、心ここに在らずというか、そんな感じよね」
「そうですよね。それが原因かは分からないですけど、この前も資料室にUSBメモリ忘れてきたとかで小柴さんにネチネチ言われてて……他のメンバーの方々は庇って下さってましたけど」
「コンビニのコピー機に挿したまま帰ってきた、とかなら流石に私だって叱るけどね。でも、社内の資料室なんだから、取ってこいで済む話なのに……とは、確かに思ったわ」
「ですよね……」
鯖の味噌煮をつつきながら相槌を打つ。売り切れ必死レベルの日替わり人気メニューを無事にゲット出来たというのに、彼の事が気に掛かって相変わらず気分が晴れないでいる。
「他チームだから私があんまり口出すのもどうなんだろうとは思うけれど、状況が状況だし彼の事は気にしておくわ。新製品の発売まであと一か月を切っているから、小柴さんや他のメンバーは余裕ないでしょうし」
「……ありがとうございます」
お礼を言って、味噌煮とご飯を口に運ぶ。何も出来ない自分が無力で、とてももどかしかった。