「ありがとう。一旦一休みして良いわよ」
「ありがとうございます……」
真中さんにリサーチ結果を渡しつつ、何とかそう答える。そして、鞄の中のポケットに手を伸ばし入れていた目薬を手に取った。両目ともに差して、目頭を押さえ目を瞑りぐるぐると目玉を回す。暫く続けていると、目薬が行き渡って疲れが解れていく感じがした。
「パソコン作業の後に目薬差すと、効いてるって感じしない?」
「しますよね。湯船に浸かった時と同じような声が出そうになりますもん」
「貴女集中すると平気で二時間くらいパソコンの画面見続けているものね。あんまり酷使すると視力に影響するかもしれないから、ちゃんと一時間毎に休憩入れなさいね」
「はい」
「やあやあ今日も真中君は絶好調だね」
確認しなくても横槍の主が誰かは分かったが、無視する訳にもいかないのでそちらの方へと視線を向ける。そのまま羽柴さんに助けを求めようとしたけれども、彼女は打ち合わせで別部署に行っていたんだった。
「部下の成長を見られて嬉しいよ。いつぞやの真中君は、集中し過ぎて話し掛けた俺の存在を完全に無視していた事もあったからね」
「え、そうなんですか?」
「課長!」
顔を真っ赤にした真中さんが、課長に食って掛かる。そんな真中さんを見た課長は、にんまりという言葉がぴったりの笑みを浮かべ、何食わぬ顔でそうなんだよと言い私の方を振り向いた。
「そんな一生懸命な所がらしいと言えばらしいのだけどね。耳元で叫んでも肩を叩いても無反応だったものだから椅子ごと彼女を揺らしたら、真中君椅子から落ちてしまって。当時は大騒ぎになったね」
「……」
そりゃ騒ぎになるだろう。もうちょっと、こう、どうにか出来なかったのだろうか。
「俺は当時の上司に怒られるし、真中君は床の上で動けないでいるし。そ……いや、周りにいた面々もおろおろと互いの顔を見合わせているばかりだし。立とうとしていた真中君を手伝うために手を握ったら、文字通り叫ばれて流石の俺も途方に暮れてしまったよ」
自業自得だろう。そんな言葉が喉まで出かかったが、何とか抑え込む。下手に反論したら面倒な事になるのは確実だ。
いきなり過去を暴露された真中さんが不憫だからどうしたものかと思っていると、ドアの向こう側から物音が聞こえてきた。一番近い場所にいた月城君が、様子を確認しに行ってくれる。暫くして彼がドアの向こうから連れて来てくれたのは、もうすっかり見慣れた部長様もとい菊野さんだった。
「研修の時ぶりだね、有谷さん」
「そうですね。ありがとうございます」
タイミングが余りにも良かったものだから思わず口から感謝の言葉が零れたが、菊野さんは突っ込まないでいてくれた。真中さんをからかっていた課長の声が止み、この場に静寂が訪れる。
「銀行との打ち合わせで外出してね。近くに美味しい和菓子屋があるって聞いたから買って来たんだ」
「和菓子ですか?」
「うん、どら焼きなんだけど。皆で食べてね」
「……ありがとうございます」
一瞬だけ私が受け取って良いのかと思ったが、真正面から渡されているのに受け取らないのも失礼だ。そんな訳で、お礼を言って受け取り箱を開けさせてもらった。いつの間にか集まっていた他のメンバーにも配っていき、課長と真中さんにも手渡す。いつも通りの表情で受け取った課長とは対照的に、真中さんは眉間に皺を寄せて難しそうな表情であった。対菊野さんという意味では、ある意味いつも通りの表情である。
「今度は何のつもりなの?」
「文字通りの差し入れさ。いちいち邪推しないでくれないか」
「普段やらない事をこう何度も繰り返されたら、不審に思うのも当たり前でしょう」
「君だって、大好きな甘いお菓子を食べられるんだから悪くない状況だと思うが」
「私は間に合っているわ」
「そうか。それじゃあその手の中にあるどら焼きは返してもらおう」
「それとこれとは話が別よ。せっかく有谷さんが渡してくれたんだし、和菓子に罪は無いもの」
「何だ。何だかんだ言って君も差し入れを喜んでいるんじゃないか」
「相変わらず脳内が花畑ね」
「誉め言葉として受け取っておこう」
会話そのものはさておき、空気はとても冷たい。それに、どうしてわざわざ……と思う気持ち自体は私も同じである。とは言え、確かにどら焼きに罪は無いし丁度疲れていたのも事実だから、早速頂く事にした。
「有谷さんに一つ聞きたいのですがね」
後ろから声を掛けられたので、一旦食べるのを止めて振り返った。そこにいたのは小柴さん……今日は眼鏡を掛けているようだ。何となく手元を確認すると、彼の手にもしっかりとどら焼きが握られている。
「先程真中氏が言っていましたけども、菊野氏は良く差し入れを持って来られるので?」
「そうですね……時折、ああやって菓子折りを持ってきて下さって」
「ほう。いつ頃からかはご存じです?」
「私がインターンに参加している時にも下さった事があります。けれど、それ以外の時期がどうかまでは分からないです」
「そうですか。いえいえ、ありがとうございますよ」
「はい……」
お礼を言ってくれた小柴さんは、成程成程と頷きながら自分の席に戻っていった。彼は初夏の辺りに交通事故にあって骨折してしまい、数か月の入院を余儀なくされていたのだと聞いている。つまり、わざわざこうやって尋ねられたという事は……少なくとも、彼が入院する前にはやっていなかったという事なのだろう。
(……己惚れたらダメだとは思うんだけど)
ここに入ってきて、菊野さんは真っ先に私の名前を呼んでくれた。そして、他にも社員はいたのに私に手渡してくれた。インターン時にセルフカフェで再会した際も話してみたかったと言ってくれたし……例え一つ一つは偶然に見える些細な事柄だとしても。人間だもの、どうしたって都合の良いように解釈したくなってしまう。
「有谷ちゃん、良い?」
「北方さん」
「あのね、どら焼き六個余ったんだよ。一つは有谷ちゃんに渡そうと思うんだけど、もう一つは他メンバーで分けても良いかな?」
「私が頂いて良いんですか?」
「そりゃ、名指しで貰ったのは有谷ちゃんだからね。六個とも欲しいなら、それでも良いけど」
「食べきれないので一つで大丈夫です。独り占めするのも申し訳ないですし……お気遣い頂いてありがとうございます」
「いやいや、何の何の。それじゃあ残りの五個はこっちで分けるね。ありがとう」
そう言ってくれた北方さんは、弾むような足取りで歩いていきどら焼き希望者を募り始めた。五人以上手が上がったので、じゃんけん大会が始まっている。しれっと参加している課長や加わらずに見守っている真中さんや月城君を横目に、手に残っていたどら焼きを再び食べ始めた。