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待ちに待った始まりの時(1)

「この辺の洋服は端に纏めておくわね」

「ありがとう一華ちゃん」

「姉ちゃん、これはどこに置くの?」

「そのまま置いてていいよ。家具入れてから開けるから」

「分かった」

 晴れて大学を卒業し、キクノに入社する日が目に見えて近づいてきた。そんな訳で、今日は母さんと誠、一華ちゃんが引っ越しの手伝いに来てくれている。

 本当は家からでも通えなくはなかったし、母さんは無理に一人暮らしする必要もないでしょうと最後まで渋っていたが。繁忙期は残業で帰りが八時過ぎる事もあるらしいし、何より通勤で往復二時間取られるのは正直時間が勿体ない。

そんな訳で、本社の最寄り駅から徒歩十分の場所で一人暮らしを始める事にした。本当は会社の目の前のアパートにしたかったのだけれども、それに関しては母さんは勿論父さんからも許可が下りなかった。

曰く、女の子の一人暮らしなのだから、セキュリティがしっかりした……最低でもオートロックがある建物でないとダメとの事らしい。まぁ一理あるとは思うし、こちらの場所の方がスーパーやコンビニが近いので利便性もある。思っていたよりは家賃も高くなかったし、悪くないだろう。

 業者の人とやりとりをしながら、部屋の中に荷物を運び込んでいく。朝早くから作業を始めていたのだが、全て運び終えた時にはすっかり太陽が高く昇っていた。

「確か、電気とガスはまだ使えないわよね」

「明日来てくれるんじゃなかったかな。今日は食べに行くか買ってくるか」

「それなら、駅の近くにレストランがあったからそちらで食べましょう。一華ちゃんにもご馳走するわね」

「ありがとうございます!」

 戸締りをして玄関に向かい、靴を履いてマンションを出る。直ぐに入れた洋食レストランにて、美味しい料理に舌鼓を打った。


  ***


 新品のスーツに身を包み、髪を結び化粧してから眼鏡を掛ける。忘れ物が無いかをもう一度チェックした後で、これまた新品のパンプスを履いて家を出た。

(……お仲間がいっぱい)

 本社の方へ歩いていると、新入社員らしきスーツ姿の人達が沢山歩いていた。本社の方が駅に近く、周辺には他の会社のビルも色々あるから周り全員がキクノの新入社員とは限らないが、何となく親近感を覚えてしまう。そのまま人の波に乗って進み、無事本社へとたどり着いた。

 中に入って受付を済ませ、指定されている席へと座る。インターン時の初日と同様、最初は全体で入社式を行って、その後各部署へ向かうという流れだそうだ。ちらりと周りの様子を伺うが、見知った顔がいくつかあってほっとした。

「有谷さん、久しぶり」

「月城君! 月城君も入ったんだね!」

「うん。知った顔がいて良かった」

「営業課でインターンしてたメンバーはいない?」

「今のところはいないね。でも、まだ入社式が始まるまでは時間あるし、そのうち来るかもしれない」

「企画課の方は二、三人見つけたよ。やっぱり、より積極的にインターンに参加していた顔ぶれだなって……全員真面目に取り組んではいたけど」

「あ、一人入ってきた。ちょっと行ってくるね」

「いってらっしゃい」

 月城君を送り出し、もう一度椅子に座り直す。更に一人二人知った顔を見つけた頃合いで、入社式が始まった。

(……いよいよだ)

 ずっとずっと、待ちに待っていたスタートが訪れた。一時はどうなるかと思ったが、こうやって最速でスタートラインに立てたのだから、張り切っていかないと。

「続いて、弊社社長である菊野栄治からご挨拶させて頂きます」

 会長さんの話が終わったと思ったら、次は社長さんか。会長も菊野さんで、社長も菊野さん……結局聞きそびれたままだったが、やっぱり、課長と菊野さんは彼らの関係者なのだろうか。

「新入社員諸君、よく我が社に参られた。我々の新しい仲間を心から歓迎致します」

 目の前では、品の良いスーツに身を包んだスタイルの良い男性が朗々と言葉を紡いでいる。どことなく、菊野さんに声が似ているような気がしないでもない。

(……けど、何と言うか)

 菊野さんに対してはそこまで思わなかったが、目の前の社長からは、何と言うか威圧感めいたものを感じた。正直、ずっと対峙しているのはご遠慮願いと思うようなタイプだ。

 社長の挨拶も終わり、次は各役員の紹介に映った。インターン中にはお目に掛かれなかったお偉いさん方が、一列に並んで順に紹介され始める。

「では、続いて各部の部長を紹介致します」

 その言葉にどくんと心臓が跳ねた。もし、まだ変わっていなければ、もしかして。

 そんな私の望み通り、彼も壇上に上がった。他の部長に比べて明らかに若いからか、彼が現れた瞬間少しだけ場がざわつく。しかし、すぐに静かになり各部長の紹介が始まった。何人か紹介された後に名前を呼ばれ会釈した菊野さんを、じっと眺める。

「!」

 新入社員は数十人いるから、流石にこちらには気づかないかなと思ったのに。菊野さんはこちらに気づいてくれて、しっかり目を合わせて微笑んでくれた。部長の紹介が終わって彼が壇上から降りた後も、まだばくばくと心臓が鳴っている。

(……気づいてくれたのは、嬉しい、けれど)

 彼との距離を、思い知ってしまった。私は入社したばかりの一般社員、片や彼は一つの部署を纏める長なのだ。余りにも、立場が違い過ぎる。

 そう思って寂しい気持ちになったが、ふるふると首を横に振って感情を追い出した。私は何の為にここに入社した? それは、この会社の商品を介して、困っている人を助ける為だろう。そこの根底を、私の軸を間違えてはいけない。

(まずは目の前の事を、すべき業務を全力で頑張る)

 もう私はお客様じゃないし、お勉強や選考に来たインターン生でもない。正当な報酬を毎月貰って、この会社で業務を行っていく正社員だ。漸く、念願の内輪に入れたのだから……スタートラインに立てたのだから、現を抜かしていてはいけない。

 再度決心を心に刻み、拳を握る。全体の式が終わったので移動を開始して下さい、とアナウンスが入ったので、誘導に従って移動を開始した。

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