「……真中さん」
「気にしたら負けよ」
「……はい」
ドアの向こうからの視線が気になるが、気づかないふりをする。一回目が合ってしまった分余計に心苦しくはあるが、直属の担当の指示を無視する訳にもいかない。
「そういえば、他の皆さんもあまり気にされてないですね。割とある事なんですか?」
「いいえ、今の今まで一度も無かったわね」
「そうですか……」
「全く、この忙しい時に。財務部は暇なの?」
真中さんはそう言った後で、机の上のコーヒーを飲み干した。私の方もカップを手に取り、紅茶を一口啜る。
「もしかしたら、何か業務上の用事があるのかもしれないですよ」
「それなら入るのを躊躇う必要ないじゃない。正当な理由があるんだから、さっさと入ってきて用事を済ませて帰れば良い話よ」
「それは……」
「もう少し自分の影響力を考えてほしいわ。一部では、あの財務部部長がインターン生に執着して追っかけ回してるなんて噂されていたし……そのせいで、もし有谷さんに何かあったらどう責任取るつもりなのかしら」
「……」
二の句が継げず、押し黙る。確か、月城君もこの前似たような事を言っていなかっただろうか。
「やあやあ諸君、喜びたまえよ。我らが財務部の部長様から高級お菓子の差し入れだ」
何となくピリついた空気を盛大に打ち壊したのは、出先から戻ってきた課長だった。課長の後に続いて部屋へ入ってきた部長様もとい菊野さんが、私の方を見て微笑んでくれる。無視していたのを怒っているような素振りはない……ちょっと、いや、かなりほっとした。
一方、真中さんの眉間にはくっきりと皺が寄る。そして、そのままの表情で立ち上がり、課長と菊野さんの方へ歩いていった。
「どうして菊野君を入れたんですか?」
「あのままドアの前に突っ立っていられたら邪魔じゃないか。手土産も持っていたし」
「それならば、お菓子だけ貰って追い返せば良かった話です。わざわざ部屋に入れる必要はないじゃないですか」
「そう薄情な事を言ってやるなよ。流石に奴が可哀想になってくるぞ」
「自分の影響力を考えず、理由もなく企画課の前をうろうろされていては困ります!」
臆せず課長に食って掛かる真中さんを、当の課長は面白げに眺めている。そして、何か言おうとしたのか口を開きかけたが、菊野さんが制するように割って入った。
「ここに来た理由ならちゃんとあるぞ。先週出張で遠方に出掛けたから、企画課の皆に差し入れのお菓子を買って来たんだ」
「何で財務部部長の貴方が企画課に差し入れ持ってくるのよ」
「勿論財務部の方にも渡してきたさ。問題ない」
「そんな事の心配をしているんじゃないのよ!」
ヒートアップしていく二人の攻防をはらはらと眺めていたら、ちょいちょいと北方さんに手招きされた。二人を刺激しないようにゆっくりと動いて彼の方へ近づくと、例の菓子折りを渡される。北方さんの周りには、他の企画課の方々やインターン生も集まっていた。
「早く食べたいからさ、これ開けてくれるかな?」
「私が開けて良いんですか?」
「菊野氏がここに持ってきた理由なんて、有谷ちゃんがいるからだろ。それなら、有谷ちゃんが開けて一番に食べなきゃ菊野氏が可哀想だ」
「そ……そうですか」
明言された訳ではないけれど……と思いつつ、断る必要も無いので包装を丁寧に剥がしていく。綺麗な紅葉が描かれている箱の中には、小ぶりの饅頭が沢山入っていた。
「それじゃあ頂きます……あ、美味しい!」
「俺もいっただっきまーす。うーん、餡子が濃い」
「これうちの地元のです。懐かしい」
「そうなのか。帰省した際は是非買ってきてくれ」
「この会社のだと高いんで別の会社のなら」
「こっちにも回すから箱貸してー」
「ちょっと待ってな、今渡す」
わいわいと皆で饅頭を手に取り、めいめいが頬張っていく。ちらりと菊野さん達の方を確認すると、相も変わらず二人で言い合っていた。
課長の方はどこに行ったんだろうと思ってもう一度周りを確認すると、何食わぬ顔でこちらの輪に加わって饅頭を食べ始めている所だった。饅頭を食べる前に二人を止めてくれないだろうか。
「真中君、そんなに怒っていたら美人も台無しだぞ。そら、食べなさい」
饅頭片手に真中さんへ近づいた課長は、しれっとそう言って真中さんの口に饅頭を押し込んだ。口元に手を当てむぐむぐと饅頭を食べる真中さんを、課長は満足げに頷きながら眺めている。
(……あれ?)
さっきまでは涼しい顔で真中さんに応戦していた菊野さんが、どうしてか面白くなさそうな顔をしていた。まるで、誰かに嫉妬でもしているかのような。
そう思った瞬間、ずきりと心臓が痛んだ気がした。思わず胸元に手を当ててみるが、特段異変は感じられない。どうしたと言うのだろう。
「有谷さんはもう食べた?」
低くて柔らかい声が降ってきたので顔を上げる。いつの間にか私の隣に来ていた菊野さんは、普段通りの落ち着いた表情になっていた。
「頂きました。ありがとうございます、美味しかったです」
「気に入ってもらえたなら良かった。あの、他にも何か好きなお菓子とか苦手な食べ物とかはある?」
「そうですね……お菓子なら甘い物の方が好きで良く食べます。塩味の物も嫌いではないです。苦手なのは辛い物ですかね」
「そうか。覚えておくよ」
「……ありがとうございます」
私の好みなんて、わざわざ彼に覚えていてもらわなくても良い情報だと思うけれど。でも、人の好意を無下にするものではない。
そう思ってお礼を告げると、彼の口角が上がった。彼は間違いなくイケメンに分類されるタイプの顔つきなので、そんな風に微笑まれると心臓に悪い。
(この人が、真中さんと同期で部長になった人って事か)
部屋に入ってきた時、課長は彼の事を財務部の部長だと明言した。そして、真中さんの事をさん付けで呼ばなかったし、真中さんも気安く話していたし。少なくとも……近しい距離の相手であるのは間違いないだろう。
(……羨ましい?)
ふっと浮かんだ感情が意外なもの過ぎて、思わず自問自答してしまった。彼らはこの会社で数年一緒に働いてきたのだ。私よりも距離が近いとか、仲が良いとかは当たり前の話の筈である。だから、インターン生の私に……入社出来るかまだ決まっていない外部の人間である私に、そんな事を思う資格なんてないだろう。
それなのに、それなのに。一度芽生えた感情は、ずっと靄のように胸の中に残ってしまっていた。