「ただいま戻りました」
「ありがとう。持ってきた資料は机の上に置いておいてね」
「はい」
問題無くお遣いを完遂してきたので、自分の席に戻る。ポケットに入れていたスマホを取り出して、鞄の中にしまった。
「今日は出くわさなかった?」
「出……いえ、お会いしませんでした」
「そう。それなら良かった」
姿は何度も見掛けたし何度も目が合ったけれど、という言葉を飲み込み返事する。別に嘘はついていない……会話はしていないのだから。
しかし、何だかんだ真中さんとのこの遣り取りにも慣れてきてしまった。何でここまで彼の事を警戒、というか最早邪険にしているのだろうとは思うが、下手に突っ込むのも憚られる。トラブルに首を突っ込む趣味はない。
「すっかり有谷君のお姉さんじゃないか、真中君」
「課長」
「可愛いインターン生を守りたい気持ちは分からんでもないが、そこまで心配しなくても良いと思うがね」
「お言葉ですけれど、あの菊野君が自分から他者に話しかけていこうとしている時点で普通じゃありませんもの。しかも、一歩間違えればセクハラと取られかねない事までして!」
「ほう、あいつ何をしたんだ?」
「……彼女の了解を得ずに、頭に触れていました」
「ああ成程、こうやって?」
「え? きゃ……!!」
私が止める間もなく、課長の手が真中さんの頭の上に伸びる。真中さんが握っていたボールペンが、デスクの端の方まで勢いよく転がっていった。
「真中ちゃん遊ばれてるねぇ」
前に色々と事情を教えて下さった社員の北方さんが、呟きつつ近づいてきた。何かを手渡されたので確認すると、先程真中さんが落としたボールペン。ありがとうございますと伝えた後で、ボールペンを真中さんの机の上にそっと戻した。
「あれこそセクハラで訴えるべきじゃないんですか?」
「いやあ、された相手がそうと思わなかったらセクハラではないんだよ」
「確かに……嫌がってはなさそうですね」
私は他者の感情の機微に鋭いタイプではないが、それでも真中さんが課長からの接触を不快に思っている訳ではなさそうなのは分かった。戸惑って照れている、という方がしっくりくる表情である。
(私は一体何を見せられているんだろう……)
まさか、インターン先でも一華ちゃんと彼を目の前にしていた時のような感情になるなんて思わなかった。もういっそ付き合ってくれないだろうかあの二人も。
「それにしても、菊野氏がねぇ」
「……課長じゃない方の菊野さんですか?」
「そうそう。確かに、業務でもないのに自分から人に話しかけてるイメージはないんだよな」
「そうなんですね……」
相槌を打ちながら、もう一度真中さんと課長の方へと視線を向ける。さっきまでの小学生みたいな雰囲気はどこへやら、お互い真剣な表情になって業務の話を始めていた。ちょっと切り替えが早すぎる、置いていかないでほしい。
(……菊野って、そんなに聞く苗字ではない……よね)
有谷もそこまで多くはないと思うが、菊野もそうだと思う。それなのに、この会社には菊野が二人いる訳だ。そして、そもそもこの会社の名前はキクノコーポレーション……もしかして、二人とも経営者の血縁とかそういう人達だったりするのだろうか。
気にはなったが、真中さんに呼ばれたので一旦思考を打ち切った。インターンはあと三週間あるので、聞く機会はあるだろう。
まずは目の前の事に集中しようと思い、返事をして真中さんに近寄った。
***
「今日はもう一人いるんですか?」
寝耳に水だったので、思わず真中さんへ問い掛ける。その通りよと言って頷いた真中さんは、詳細を教えてくれた。
「最初の訪店の時に、営業課の大原さんの話をしたでしょ?」
「はい」
「今回のインターンでは大原さんにも担当しているインターン生がいるのよ。それで、この前の結果報告に行ったら、次の訪店にはその子を一緒に連れて行ってほしいって」
「なるほど」
「先月は体調が安定していたから一緒に店回りしていたみたいだけど、今月の検診で外回りは控えた方が良いって言われたんですって。でも、営業は店舗回ってなんぼだ、現地でしか得られない経験がある、だからお願い出来ないだろうかと頼まれたのよ」
「そういう事ですか」
ここ数年の夏の暑さは異常だし、妊婦さんともなれば猶更無茶をしない方が良いのは確かだ。それに、企画課以外のインターン生と話してみる絶好のチャンスでもある。もしかしたら同期になるかもしれない相手だし、頑張って話してみよう。
会話をしながら階段を下りていき、駐車場に出た。ぐるりと周囲を見渡してみたが、それらしい人影は見当たらない。
「まだ待ち合わせの時間にはなっていないし、それまで待っておきましょう」
「はい……あの」
「何?」
「真中さんは、今日一緒のインターン生に会った事あるんですか?」
先入観が云々という問題もあるとは思うが、私としては全く見知らぬ他者と多少は人となりを知っている他者では後者の方が圧倒的に話しやすい。そんな訳で、何か一つでも情報を得られればと思い真中さんへ尋ねてみた。
「数回挨拶しただけね。確か、彼も貴女と同じ大学四年生って聞いてはいるけど」
「彼……って事は男性ですか?」
「そうよ」
「どんな感じの方ですか?」
「そうね……強いて言うなら中性的な感じ」
「中性的?」
予想外の単語が飛び出てきたので、驚いたまま単語で聞き返してしまった。しかし、真中さんは特に咎める事無く口を開こうとする。しかし、彼女の口から言葉が出てくる前に、背が高い細身の人が近づいてきた。
「遅れて申し訳ありません。もういらしていたのですね」
「まだ待ち合わせの時間じゃないから大丈夫よ。貴方が、大原さんが言っていたインターン生の月城君?」
「はい。営業課でインターンをさせて頂いております、月城要と申します。今日は宜しくお願い致します」
挨拶してくれた月城君は、律義に腰を折って丁寧にお辞儀してくれた。彼が顔を上げたタイミングで、真中さんが口を開く。
「私が企画課の真中瞳で、横の子が私の担当するインターン生の有谷真衣さんよ」
「有谷真衣です。こちらこそ宜しくお願い致します」
向こうも丁寧にしてくれたので、私の方も丁寧にお辞儀した。顔を合わせて見上げた彼の表情は、穏やかなものだ。
「それじゃあ早速向かいましょう。有谷さんが助手席、月城君は後部座席に座ってくれる?」
「分かりました」
「はい」
真中さんの指示に合わせて車へ乗り込み、ドアを閉める。三人を乗せた車は、店舗へ向けて静かに発進した。