「終わった……」
絞り出したような声、というのは正に今みたいな声を言うのだろう。そのくらいの重苦しい声を出してしまったが、真中さんは咎める事無くお疲れ様と言ってくれた。
「あの量を全て終わらせるのは骨が折れたでしょう。休み休みやっても良かったのに」
「それも考えたんですけど……でも、一気にやった方がミスは減るかなと思いまして。下手に中断すると集中力も途切れて、再開する時に手間取るじゃないですか」
「確かにね。あのくらいなら、まだ纏めてやれなくもないだろうし」
そう話しつつ、真中さんが自分の鞄の中を漁り始めた。何を探しているのだろうかと思ってそのまま見ていたら、取り出していたのは赤い目薬。ちらっと見えた文言は『疲れ目や目のかすみに』だった。企画課の仕事ではパソコン作業も多いので、そういうアイテムを一つ持っていても良いのかもしれない。
「真中さんでも、あの量を超えたら翌日に持ち越しますか?」
「その時の状況によるわ。比較的手が空いてる時期ならスケジュールを調整して一日それだけを出来るようにするし、やる事が多い時期なら時間か量かで区切ってやるし」
「やっぱり、これが唯一の正解! って言えるような方法はないんですね」
「そうね。推奨される方法やマニュアル自体はあるけど、実行者や実行時期や内容によっては別の方法を取るべき時もあるから」
「……そうですね」
考えてみれば当たり前の話である。レポートの書き方だって、一日集中して書く方が進む人と毎日少しずつやる方が良い人といるだろう。最も、大学のレポートとなればそれなりの文量が必要になるし事前調査が必要な事も多いので、中々一日では終わらないものだが。
「ずっとパソコン見続けて目も疲れてるだろうし、少し休憩取りなさい」
「ありがとうございます。今日はまだセルフカフェに行っていないので、飲み物確保も兼ねて行ってきて良いですか?」
「良いわよ。あと一時間で終業時間だし、長居し過ぎないようにね」
「はい」
無事に了解を貰ったので、よっこいしょと言いながら席を立つ。軽く体を伸ばしてから部屋を出て、カフェの方へと向かった。視界の端で課長が動いて真中さんの方へ行っていたように見えたけれど、気づかなかったふりをする。
カフェの入口に着いたのでそっと中を伺うが、誰も居なかったのでほっと胸を撫で下ろした。中途半端な時間だから、使う人もそうそう居ないのだろう。
今日は紅茶の気分だったので、カップにティーパックを入れてお湯を注ぐ。蒸らす時間の確認も兼ねて、最近気に入っている曲を一曲歌った。気分良く歌い終えた後で蓋を取ると、綺麗な茶色が現れる。
人が居ないから飲んで帰ろうと思い、相席用テーブルの一つに腰かけた。カップを両手で持ち、息を吹きかけて冷ましながら一口、また一口と含む。芳醇な香りが鼻の奥を抜けていき、疲労で凝り固まっていた肩がほぐれていった。
「……あれ、君は」
丁度紅茶を飲み終えたところで、入り口から声がした。驚いた弾みでカップを落としそうになってしまったが、間一髪キャッチする。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは慰労会で再会したあの男性だった。
「お久しぶりです。確か、慰労会でお会いした方です……よね?」
「そうだよ。ごめんね、休憩中だったのかな」
「いえ、もう飲み終わったのでどうぞ」
ここに来たという事は、彼も休憩しようと思ったという事だろう。邪魔になってはいけないので、カップを握ったまま慌てて立ち上がった。
「いてくれて大丈夫だよ」
「でも、私は飲み終わりましたし」
「慰労会の時はそんなに話せなかったから」
「……」
真中さんに心配を掛けてしまうという気持ちと、少しなら大丈夫ではという気持ちがせめぎ合う。ちらっと時計を確認すると、十七時十分を指していた。あと五分くらいなら大丈夫だろうか。
「真中には俺から言っておくよ。俺が引き留めたせいだから、君の事は叱らないでほしいって」
「……分かりました」
彼女の事だし、普通に事情を説明すれば怒りはしないと思うけれども。でも、証人は多いに越した事ないだろう。彼と話してみたかったのはこちらも同じだし……なので、もう一度席に座った。
コーヒーを淹れ終えて戻ってきた彼は、私の隣へと腰を下ろす。改めて彼の方へ視線を向けると、彼の口角が少しだけ上がった。間近で見ると尚の事、今までの人生では縁が無かったレベルのイケメンである。彼が動く度に、コーヒーの香りに混じって爽やかな香りがした。
「インターンって実際の業務もやるんだよね? 今は何をしているの?」
「最近は真中さんと一緒に店舗へ行きました。頼まれていた販促物を渡して、売り場のメンテナンスをしないといけないからって」
「訪店? 君は確か企画課だよね?」
「本来行く営業課の方が妊娠中で、真中さんが代わりを申し出たと言っていました。企画課でも、新商品導入の際等に店舗担当の方と一緒に訪店して化粧品担当の方へ説明する事もあるとかで、良い経験になるからと」
「そう言えば、もうじき産休に入る人がいると聞いた事があるな。成程それで」
「はい。私としては、経験出来てありがたかったです」
会話が一旦途切れたので、彼が動いてコーヒーを一口飲んだ。それは何気ない日常動作の筈なのに、妙に洗練されていて優雅に映る。彼がカップを置いてもう一度こちらへ視線を戻した瞬間、何故かどきりと心臓が一跳ねした。
「あ、の」
「うん?」
「私は、インターン生の有谷真衣と言います。貴方の……お名前をお伺いしても、宜しいですか?」
彼の名前を知りたかったので、まずはこちらから名乗る事にした。企画課の方ではないだろうから私の名前は知らない筈だし、彼の名前を聞きたいのはこちらの都合である。となれば、私から名乗るのが道理だろう。
「……菊野蒼治だよ」
「菊野さん、ですか。どちらの部署に所属されているのですか?」
「今は財務部にいる」
「ざいむぶ……ですか」
「そう。簡単に言えば、会社でこれから使う予定のお金を調達してくる部署」
「……失礼ですが、経理部とはどこが違うのですか?」
「経理部は経費管理とか毎月の売り上げの管理とかをする場所で、財務部は金融機関から融資をしてもらうために準備したり社債を発行して資金を調達したりする場所だね」
「ええと……つまり、日々のお金を管理するのが経理部で、未来のお金を管理するのが財務部だと考えたら大丈夫ですか?」
「それで合ってるよ」
肯定してくれた菊野さんは、もう一度カップを手に持った。そして、そのまま中身を全部飲み干し、空になったカップを軽く潰す。彼の仕草の一つ一つから目が離せなくて、つい視線で追いかけてしまった。
「うちのインターン生を不当に引き留めないでくれる?」
次に社債とは何かというのを教えてもらっていたら、カフェの入口から不機嫌そうな声が聞こえてきた。しまった、と思って時計を確認すると既に半を過ぎている。
「真中さん、すみません」
「時間はちゃんと意識するようにね。でも、貴女が謝る事は無いわ。反省すべきなのは菊野君の方よ」
吐き捨てるように言うと、真中さんはじろりと菊野さんを睨みつけた。美人の怒り顔というのはなかなかの迫力だが、菊野さんは意にも介していない。
「お迎えが来たみたいだから、今日はこの辺で。付き合ってくれてありがとう」
彼は、もう一度私の方を向いてそう言った。こちらこそと答えていると、ふっと彼の右腕が動く。右腕は私へと伸びてきて、頭を抑えられたような感覚がした。
「菊野君!」
頭を撫でられたのだと気づいた時にはもう、彼は既にセルフカフェを出ていったところだった。怒っている真中さんの声が、遠くの方で響いている。
「有谷さん大丈夫? セクハラで訴えるなら協力するわよ?」
「い、いえ、それは大丈夫なので……」
「そう?」
「心配かけて済みません。お手数お掛けしました」
「次からはスマホ持っていきなさい。あの男に絡まれたら私に即連絡する事、良いわね?」
「わ……分かりました」
何とか返事をすると、戻るわよと言って真中さんが歩き出す。どこかふわふわとした心地のまま、彼女の後を追った。