ぱちぱちと穏やかな音を立てながら、目の前の焚火が燃えている。揺れる炎を眺めていると、ここ数日の喧騒が遥か遠くに消えていったような心地がした。
(……もう大学生なのだから)
いい加減、干渉はよしてもらえないものだろうか。講義は欠かさず出ているし、課題も全て提出している。前期の試験は全科目が秀だった。文句を言われる筋合いはない筈だ。
だというのに、あの人達はこれ以上何を求めていると言うのだろうか……いや、彼らの事だから、きっと全教科満点でないと認めないという事だろう。正直、大学なのだから進級と卒業に必要な単位が取れていれば問題ないと思うし、教授だってそう言ってくれたのに。
『高校生まで或いは社会人になってからは中々出来ない事でも、大学生の内なら可能な事は多い。だから、勉強だけでは身に着けられない経験も沢山積んで、人生が豊かになるよう大学生活を謳歌する方が良いと思うがね』
電話越しに怒られていた俺を見たらしい教授は、そう言ってくれた。親なんてものは、いつまでも子供が心配なものだから言いたくなるのだろうが……とフォローもしてくれたが、恐らくあの人達が心配しているのは自分達の体面だけだろう。
火にかけていた飯ごうが吹き零れ始めたので、火の具合を確認する。問題なさそうだったのでそのままにしておき、吹き零れが終わったのを確認してから焚火を消した。蒸らしている間に、おかずとなる缶詰を準備する。
「……声?」
飯ごうの蓋を開けようとしたら、微かに人の声が聞こえてきた。大方他のキャンプ客だろうが……どうしてかその声が気になったので、確かめるべく声がした方へと向かう。
少し歩いて行った先の、川辺に一人少女がいた。大きな岩に腰かけて、水面の方へと体を向けている。俺よりは年下に見えるが、いくつくらいだろうか。
背中まである彼女の髪は艶やかで、きらきらと日光を反射していた。ほっそりとした白い腕を天に向けて伸ばしていて、時折その腕が揺れ動いている。
そして、先程よりもっとはっきり、彼女の声が聞こえてきた。緩急のある発音、抑揚のある響き……どうやら歌っていたらしい。
「……」
立ち去る事も、進む事も。動く事すら出来ずに、ただただ彼女の歌に聞き入っていた。伸びやかで聞きやすく、柔らかで安定した歌声に飲まれ……まるで、世の中には俺と彼女の二人だけであるかのような錯覚すら覚える程だ。遠くに聞こえていたざわめきも、せせらぎさえも彼女の歌にかき消された。
「真衣! 出来たわよ!」
「分かった! 今行くね、母さん!」
突如第三の声が聞こえて、はっと我に返る。真衣と呼ばれたその少女は、返事をして駆けていってしまった。一瞬だけ見えた彼女の横顔はきらきらと光っていて、煌めきが俺の心の奥深くに刻まれる。
彼女がいなくなった後も、しばらくその場から動く事が出来なかった。
***
「ふむ、どうやら今回も愛しの彼女には会えなさそうだな」
「変な言い方をするな」
一人で頷きながら語る従兄に突っ込みつつ、飯ごうの蓋を開ける。焦げた部分を多めに奴の方へと取り分けながら、昼食の準備を進めた。
「これで十回目だろ? 十分愛が重い方だと思うが」
「十二回目だ」
「そうか。凄い執念だな」
「……どうも」
言い返すのも面倒なので、適当にあしらい食事を始める。奴に気を取られたせいか、いつもよりも焦げが多い……やはり最寄り駅で撒いておけば良かった。
「しかし、それでも会えないとなると都内には住んでいないんじゃないのか」
「そうかもしれないな。住んでいたとしても、事情があって来られないという可能性もある」
「何かしら手掛かりはないのか? このままキャンプ場に通い続けるよりは、手掛かりを元に素性を調べた方が効率良い筈だが」
「背中まであるロングヘアーで歌がとても上手かった」
「それだけじゃ絞り込めんだろう。他には?」
「真衣と呼ばれていた」
「……真衣と言う名前の女性は、それなりに多いだろうな」
「だからここに通っているんだ」
一縷の望みを賭けて。もしかしたら、次はいるかもしれないと思って。また、あの歌を聞けるかもしれないと思って。あわよくば会話が出来ないだろうかとも思うけれど、向こうは俺を知らない訳だから不審がられて警戒されても困る。
「しっかし、人間変わるもんだなぁ」
「何が」
「氷の貴公子とまで言われている蒼治が、ここまで他者に執着するなんて」
「勝手に言ってるだけだろ。別に、俺は何も変わっちゃいない」
「でも、らしくはない。可能性に懸けるなんて真似、普段のお前ならしないだろ」
「……そうだな」
確率論は好きじゃない。そんな不確かなものに頼るくらいならば、確実な結果を得るための努力をすれば良い事だ。ヤマを張って一部分しか勉強しないより、テスト範囲の内容を満遍なく頭に叩き込んだ方が高得点を取れるのは自明の理である。
「そう言えば、大和は今年卒業して就職だよな。うちに来るのか?」
「そのつもりだ。一部は縁故採用だ何だと言うだろうが、俺は傍系だし気楽にやるさ。お前は、最初は別の企業に行くのか?」
「いや、俺もそのまま入社だろうな。今も一部の業務はやっているし」
「……直系の一人息子は大変だな」
そう言われて肩を叩かれそうになったが、体を捻ってひょいっと避ける。大和の文句を聞き流しながら、食事を再開した。
「会社の業務もやれ、勉学は疎かにするな、失望させるな……大学生の今でもこれなんだから、社会人になっても変わらないんだろうな」
「お前の両親相変わらずだな。結果を出してなんぼっていうのは分かるんだが、もうちょっと、こう、頑張ってる息子を労うとかないのかね」
「頑張るのは当たり前、結果が出ないと怠慢、結果の出ない努力は努力ではないらしいからな。まともに取り合ってると馬鹿を見る」
それでも小さい頃は、もう少し一生懸命だった気がする。今度こそ褒めてもらえるかもしれない、今度こそ凄いねって言ってもらえるかもしれない、と思って……そんな考えに見切りをつけたのは、中学校に入った辺りだったか。
(彼女は家族と仲良さそうだったな)
母親に名前を呼ばれた彼女は笑顔だった。眩しい笑顔を向けて、母親の元へと駆けていった。愛されている者特有の、朗らかな笑顔だった。
(……もし、もしも)
これから先の未来で、彼女と再会出来て、仲を深めていく事が出来たならば。
あの日のような笑顔を、いつか俺に向けてくれる事があるだろうか。
***
(……今でもはっきりと思い出せる)
走るバスに揺られながら、ぼんやりとかつての光景を思い出す。少女の横顔と歌声は、これまでにも幾度となく脳裏に浮かんでは消え浮かんでは消え、浮かぶ度に鼓動が早くなった。特定の個人を何度も思い出して、会いたいと願うなんて初めてだ。
あれ以降も、再会を願って何度も何度もあのキャンプ場へ向かった。ある時には一泊、時には何泊もした。また彼女の歌が聞きたい、彼女の事が知りたい……そう願って。訪れた回数だけなら、ゆうに三十回を超えるだろう。
しかし、未だ彼女に会う事は出来なかった。もしかしたら、住んでいるのはかなりの遠方で、本当に偶然訪れていただけだったのかもしれない……二十回目を超えた辺りから薄々そう思っていたけれど、それでも奇跡を信じてあの場所に通い続けた。彼女の素性をほぼ知らないから、それしか出来なかった。
(……会いたい)
どうしてここまでしても彼女に会いたいのか、会いたいと願っているのか、正直理由はよく分からない。会えない可能性の方が圧倒的に高いのに、それでも諦める事が出来ないでいる。
秋が来て冬が過ぎて、春が巡り、再び夏がやって来たけれど。あのキャンプ場を訪れた回数は三桁を超えたけれど。
それでも、彼女とは再会出来ぬままであった。
それでも、諦める事が出来なかった。