「お願い! 待って底無しちゃん!」
私は底無しちゃんを追いかけると迷うことなくその腕を掴んだ
「ついて、こないで!」
しかしすごい力で振り払われてしまう
「少しだけ、話がしたいだけなの」
それでも諦めずに底無しに語りかける
「……独りにさせて」
その言葉からはさっきまでの異常性は全く感じられずむしろこのぐらいの年齢にしては落ち着いているほうだ
「本当に、少しでいいから」
「今は、少しだけ頭が動くけど、またすぐに、きっと元に戻る……だからお姉ちゃんは今のうちに黒いお姉ちゃんのところに行くべき、守りたいんでしょ?」
底無しはこちらを振り向くとそれだけ言ってまたそっぽを向いてしまう
「そう、だけど……私はあなたのことも知りたい」
ソラちゃんのことは優先すべき事項だ
それでもまずは目の前の問題を解決しないといけない
「そんなもの、知ってどうす――ぐ、うぅぁ」
底無しちゃんは普通に会話していたかと思うとくぐった声を漏らしながら口を両手で押さえ込む
その指の間からは唾液がぼとぼとと滴り落ちる
「底無し……ちゃん?」
確実に、また底無しちゃんを纏う空気が変わった
「ダメ、やっぱりお腹すいたなぁ、そんなに、わたしに付いてきたいなら食べてもいいってことだよねぇ!」
底無しちゃんは言いながら目を虚ろにさせて私にしがみつく
「もう、状態が元に戻って……!」
私は慌てて底無しちゃんの拘束が強くなる前に振り払うと少し距離を取った
「お姉ちゃんが自分で付いてきたんだよ! 食べてもいいよぉってー」
底無しちゃんの目からはもう先ほどまでの光は一切ない
「食べて欲しくて付いてきたんじゃないよ、私はあなたと話がしたいだけ」
「わたしがお姉ちゃんを食べて一つになればぁ、ずっとお話出来るよ?」
会話もまた、通じなくなってしまった
そんなときまた視界がぐらりと揺らぐ
(ほら、言っただろ、おまえの手には負えない、変われよ、オレがどうにかしてやるから)
「変わらないよ、絶対に」
ダイチの言葉を振り切って自分に言い聞かせる為に一度言葉にする
「なんのお話してるの?」
不思議そうにこちらを見る底無しちゃんに私は微笑みかける
「……底無しちゃん、いいよ、食べたかったら、食べて」
「……え」
「でもお姉ちゃんも死にたくはないから、腕一本とかで手を打ってほしいなぁなんて」
これは、賭けだ
さっき起こったことを考えれば私の想像さえ合っていれば同じことが起きる筈
まあ、腕をあげたなんて言ったらソラちゃんに烈火の如く怒られそうではあるが
「ほんとーに食べていいの?」
「いいよ」
おずおずと訊ねてくる底無しちゃんに笑顔で頷く
「う゛っ……!」
先ほどは指先から伸びた口だったが今回は腕が口になり私の右腕に強く噛みつく
(やっぱり、トリガーはこれ……さっきよりも強い、飲み込まれる――)
噛みつかれた瞬間、私はさっきよりも強い感情に飲み込まれた
「本当にこの子はよく食べるねぇ」
「きっと健康に大きく育つぞ、どんどん食べなさい」
「ままとぱぱは食べないの?」
「私達はいいんだよ、――がたくさん食べないと」
「そうだそうだ、俺達のことは気にするな、一杯食べな、うまいか?」
「うん! 美味しい!」
ままとぱぱはいつだってわたしにたくさん食べさせてくれた
家は貧乏でお金なんてないのにお腹が空いて困ったことはなかった
いつだってままの作ってくれるご飯は美味しかった
その日は突然やってきた
「パンデミックが起きたって! に、逃げないと!」
「――絶対にパパの手を離すんじゃないぞ!」
そう言ってぱぱは強くわたしの手を握ってわたしを抱えて走る
「あの人達は、なんで人を食べてるの……?」
周りでは人が人に噛みついていて
たくさんの建物が燃えていた
「見ちゃだめだ! 前だけ向いていなさい!」
お父さんはそう言ってわたしの視界を手で隠す
「ここまで来れば……くそ! 政府はどうなってるんだ、何か情報はっ……」
「あ、あなた! 大変よ! こっちにも感染者が!」
「くそっ! ――下がっていなさい!」
ぱぱはわたしを腕のなかから下ろすとままと一緒に後ろへと追いやる
「――には手を出させないわ!」
さらにままがわたしをかばうように腕に抱き締める
そこからはままの腕で何も見えなかった
「うわぁぁぁぁ!! くそ! 噛まれた! ……なんだ、この、感じは……うがぁあ!!」
「あなたっ! いやぁ!!」
「ぱぱ……まま……」
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
ただひたすらに痛かったのだけ覚えている
それから意識が……なくなった
「おい、君! 大丈夫か!」
「至急! 至急! 生存者確認、見たところ一桁の少女です、噛まれては、いるようですが自我を保っています」
「お腹……空いた」
目を覚ますと世界は霞がかっていた
そして
「君、一体どうし……ぐわぁ!!」
「隊長! 大丈夫ですか! くそ! やはりゾンビ化して……」
「おじちゃん、お腹すいたよ……」
ただただお腹が空いてどうしようもなくて、周りの全てが、食べ物に見えた
「くっ、しまった! 撃てなかっ、た……ぐぅ」
でも、食べても食べても食べても食べても
お腹が一杯になることはなかった
それからのことはほとんど覚えてはいない
「なるほど、オメガウイルス適合率10パーセントにすら届いていないのに自我を保っていると」
「はい、かなり意識は混濁しており感染者特有の空腹を常に訴えていますが異能も使えるようです、それもとても強力な異能を、いかがいたしますか? 危ない個体に変わりありません、処分しますか?」
「いや、使えるときが来るかもしれない、地下牢にでもいれておけ、暴れられては困る、一番奥の牢屋だ」
「お腹……すいた……」
「貴様はゾンビだ、何も食べずとも、生きていけるだろう、よかったではないか、餓死もしないぞ」
それから私は……一度も満腹を感じたことはない
ハッと意識が覚醒する
腕の痛みはまだあり噛みつかれたままなのだと知る
おそらく、今見た記憶は底無しちゃんのもので、記憶を見ている間はそれ程時間は経っていないのだろう
私の腕に食い込む歯が少しずつ緩くなっていく
それでも、あの記憶が本当に底無しちゃんのものだったのだとしたら
あまりにも
残酷過ぎる話だ