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第4話

 部屋の掃除を、ヴァリエナ淡々とこなした。窓を開け放って、端切れで作ったハタキで埃を払い、手すりを拭いて床を拭き上げる。古いボロボロのカーテンを取り払い、曇った窓を磨く。


 リィザも埃を払った家具をワックスで磨き、まだ使えそうなカップやランプなどはミルフィーネが拭いていた。


 破れた壁紙を補修しながら、カルナは三人の様子を見る。黙々と作業をしているが、時折話もしているようだ。三人の仲は悪くないようだ。カルナも輪の中に入りたかったが、カルナが近づくとヴァリエナの表情が固くなる。ついつい、距離を取ってしまっていた。


(どうしたものか……)


 抜けた床板を外し、道具袋から板を取り出し打ち付ける。魔法の収納袋は、質量を無視して物を運べるが、大っぴらにして良い品ではない。妖精族だけが作れる品物故に、ミストナーク村での買い物では使えなかったのだ。


 だが、こういう時は便利だと思う。


 道具袋の中には、壁紙や板材、漆喰にタイルと、必要なものが一通り揃っている。世界中を巡り、人助けをやっている内に身に付いた技術は、剣や魔法ばかりではない。大工仕事もその一つだ。


 器用なおかげで作業は苦ではないが、沈黙は良いものではない。思案していると、背後からミルフィーネの声がした。


「カルナさま、休憩しませんか?」


「ん? ああ……」


 振り返ると、既にヴァリエナたちがお茶の準備を始めていた。稼働させたばかりの魔道キッチンを動かし、湯を沸かしたらしい。ダイニングテーブルは元々置いたままになっていた大きな一枚板のテーブルだ。綺麗に拭き上げてある。あとはクロスを敷けば完璧だろう。


「ありがとう」


 席につくとティーカップを受け取った。ヴァリエナたちはカルナとは反対側の遠い席に固まっている。


(これが現在の距離感というやつか……)


 早いところ縮めたいものだ。


 お茶を啜っていると、ヴァリエナが控えめに提案してくる。


「甘いものがお好きでしたら、菓子なども作れますが」


 ヴァリエナはオーブンに視線を向けて言った。カルナは食べることは好きだ。勿論、反対する理由がない。


「本当? 良いね。ぜひお願いするよ」


「それだったら、ヤギとかニワトリを飼っても良いかも知れないぜ。庭は広いしさ」


「リィザ、庭園なのよ」


「いや、良いアイディアだよ。今度ミストナーク村に行ったときに聞いてみよう」


 何しろ、動物を飼うのは悪いことじゃない。世話は大変だが、あの愛らしさには癒されるものだ。

「お世話します!」


 ミルフィーネは嬉しそうだ。彼女のためにも、小さい友人は必要かも知れない。


(休憩を誘ったのも、菓子の提案も、彼女に気を使って貰ったのかもな……)


 沈黙をヴァリエナも気まずく思っていたのかも知れない。


「ヴァリエナは、料理は好きなの?」


「はい。凝ったものは作れませんが、故郷の料理は全て覚えています。ミルフィーネに教えても?」


「勿論。文字が書けるんだから、記録に残しても良いね」


「記録に―――……」


 ヴァリエナの瞳が、一瞬輝いた。


 彼女たちにとって、故郷を偲ぶものはもう、料理しかないのかも知れない。妹に伝えたいと思うのも、そういう気持ちが強いのだろう。


 料理のレシピ集などは、普及はしていないが大都市には存在している。いずれ、ウェルネス王国の料理を纏めて、出版すればヴァリエナ個人の資産にもなりそうだ。


(それなら、僕はパトロンになれば良いわけだし)


 仕事の関係を密にすれば、より良い関係が築けるのではという、打算も無くはない。パートナーになれば、笑顔を見せてくれるかもしれない。


「ところで、ご主人様。今日もあの部屋を借りて良いのかい?」


「良いよ。狭くなかった?」


「三人で、楽しいです」


 ミルフィーネは笑顔だ。彼女の笑顔には、思わず笑みを返してしまう。


(ああ、癒される……)


 早く姉とも打ち解けたいものだ。リィザの方は気さくなようなので、大丈夫だろう。


 部屋は片付けているが、まだまだ追い付かない。キッチンと風呂の水は使えるようにしたが、風呂のタイルは張り直しが必要だし、部屋は決めたようだが掃除が終わっていない。


「まあ、のんびりやろう」


 幸い、大きな事件は起きていないし、どこかの王国からの呼び出しもない。久しぶりの休暇なのだ。


「そう言えば、カルナ様は何処でお休みに?」


「一階の手前の部屋だよ」


 屋敷のなかで、それほど大きくなく、入り口に近い利便性で選んだ部屋だ。ヴァリエナがその言葉に、顔をひきつらせた。


「そちらは、バトラーの部屋では……?」


「入り口に近いからね。万が一モンスター入り込んだら、近い方が良いでしょ」


 使用人区画のひとつを使うカルナに、ヴァリエナは額を押さえた。貴人である彼女には、平民のカルナの感覚が解らないのかも知れない。


 部屋は狭くても住めるのだ。今までの宿暮らしを考えれば、大分広いのだが。


(それにしても、ウェルネス王国か。あまり情報がないからな……。ヴァリエナにあとで聞いてみようか)


 滅んだ理由が、人間の手によるものなら、カルナが介入する隙はない。だが、魔王の手によるものなら、カルナが動かなければならなくなる。ヴァリエナたちはもう救えないが、被害が拡大するのはまずい。


(司祭にも手紙を送っておこう)


 大陸中の国々に教会勢力として根を張るスーリエルダ大聖教は、情報網も凄い。主神は女神スーリアだ。多くの国は、スーリエルダ教を信仰している。ウェルネス王国も国教がスーリエルダ教なら、情報は入っているはずだ。


「あと一働きして、夕飯にしようか」


 カルナはそう言うと、カップのお茶を飲み干した。




   ◆   ◆   ◆




 桶に張った湯を手で掬いながら、ヴァリエナはホゥと息を吐いた。湯など、随分使っていない。王宮で暮らしていた時も、湯は贅沢品だった。


 風呂は補修が必要なのでまだ使えないが、カルナはヴァリエナたちにも湯を使わせてくれた。彼にすれば、愛人を身綺麗にするためだろうから、特別慈悲深い訳でないのだろうが、それでも気持ちはスッキリする。


 髪を念入りに洗い、白く痩せてしまった身体を磨く。もしかしたら、今夜にでも呼び出されるかも知れない。ヴァリエナとリィザは覚悟して準備を整えていた。


(さすがに、態度が悪かっただろうか……)


 櫛を見つめながら、そんなことを思う。ヴァリエナはカルナの所有物。それは解っているはずなのに、あの時、どうしても心が挫けそうになったのだ。


 ―――ああ、捨てさせられた誇りは、決して戻ってこないのだ。


 それが、奴隷となったヴァリエナの運命。そして、ミルフィーネの運命なのだ。


(ミルフィーネは、カルナ様を嫌ってはいない……。だったら、何も知らず、主人に愛されるよう努力させた方が良いのだろうか……)


 少なくとも、愛情を得られれば幸せにはなるかもしれない。何処かで何かを諦めながら生きるより、不幸ではないかもしれない。


(解らないわ……)


 銀の櫛を手にし、今の自分には惨めなほどに似合わないと思う。食べ物もろくに食べずにいたせいで、傷んでくすんだ髪。艶やかだった過去の自分と、どうしても比べてしまう。


 カルナは、奴隷に対して折檻するような男ではないのだろう。それは救いだ。だが、異端者かも知れないと言う疑いが、ヴァリエナに後ろめたさを覚えさせる。温かい食事も風呂も、綺麗な服も、きっと手にする度に心が削り取られてしまう。


「お母様……」


 ヴァリエナは呟いて、冷えた身体を抱き締めた。





 風呂から上がり、濡れた髪を三つ編みに結いながら歩く。すっかり窓の外は暗くなってきた。廊下に置かれたランプが、柔らかな光を灯している。


 ミルフィーネは先にリィザと部屋に戻ったはずだ。もう寝てしまっただろうか。


 そう思いながら歩いていると、背後から声をかけられた。


「ヴァリエナ、ちょっと良いかな」


「カルナ様」


 振り返りながら、ヴァリエナはくつろげていた襟元を直した。湯上がりの姿を見られるなどはしたないが、恥じらうのも嫌だった。毅然とした態度を装う。


(まさか、お相手……?)


 心臓が僅かに速まる。花嫁修業中にも夜の知識はあったが、実践したことはない。知識として知って、怖いとか、恥ずかしいとか、思った程度だ。


(大丈夫。教育係も、殿方に任せれば良いと言ってたわ)


 ゴクリと喉を鳴らし、誘われるままに後について行った。


 てっきり部屋に連れて行かれるのかと思ったが、カルナが連れてきたのは大広間だった。暖炉のある大きい部屋には、寛げるソファーと小さなテーブルがある。


 カルナはワイングラスを二つ出して、ヴァリエナに勧めた。


「まあ、座って」


「……はい」


 おずおずと、グラスを受け取りながらソファーに座る。飴色の革が張られたソファーは、座ると思ったよりも深く沈んだ。


 グラスを覗き込み、写り込んだ自分と目が合う。甘い香りの、軽めのワインのようだ。このくらいなら、酔いもしない。


「実は、ヴァリエナに聞いておきたくて。思い出したくはないだろうけど」


「何でしょうか」


 一体何を聞かれるのだろうか。ヴァリエナは眉をひそめた。カルナは慎重に言葉を選んでいるようだった。


「君が、どういう理由で奴隷に落ちたのか……。ウェルネス王国がどうなったのか、何があったのか。知っておきたいんだ」


 ヴァリエナは目を見開いた。手が震える。


 自分から、何を聞き出そうというのか。


 思い出したくないのは事実だが、怨み言も言いたくなる。声が震えて、なかなか出ない。


「っ―――っく」


 ヴァリエナはワインを飲み干した。喉が熱くなり、気分が高揚してくる。


 カルナはじっと、ヴァリエナ見ていた。


「風のない、夜でした……」




   ◆   ◆   ◆




 風のない夜だった。いつもなら湖を渡る風が森の木々を揺らす音が聞こえるのに、その日はやけに静かだったと、ヴァリエナは覚えている。


 ウェルネス王国は古い王国だが、経済事情は良くない。かつてはミスリルの鉱山があったが、今では枯渇し、採掘しても爪の先程の鉱石が出るだけだ。


(お父様は、今夜も遅くまで話されているのね……)


 ヴァリエナはその日は、怖い夢を見たとベッドにやって来たミルフィーネと、一緒に眠っていた。窓越しに見える塔の明かりは、ヴァリエナの父である国王が、逼迫した経済を建て直すために遅くまで有識者たちの意見を聞いているためだ。


 新しい産業も、林業も、あまり良い状態ではない。昨年の冬に起きた、大規模な雪崩の影響が大きかった。


 ヴァリエナは、恐らく自分が嫁ぐことが最善だと、知っていた。王がそれに踏み切らないのは、王家の血はヴァリエナとミルフィーネにしなく、ヴァリエナが嫁げばウェルネス王国が大国に呑み込まれるからだ。


 ヴァリエナは、女王になることを期待されている一方で、姫として嫁ぐ運命も定められていた。

 いずれにしても、ヴァリエナの意志はない。だが、家族と国民のためなら、身を捧げられる。そう思っていた。


 不意に、ヴァリエナは嫌な気配にベッドから身を起こした。何があったとか、そういう訳ではない。いわゆる虫の知らせだった。


「ねねさま?」


 ヴァリエナが起きたのに気づいて、ミルフィーネが目を覚ます。ヴァリエナは振り返って、ミルフィーネの髪を撫でてやった。


「起こしたわね。少し……外の様子を見てくるわ」


「ミルフィーネも行きます」


 しがみつくようにガウンの裾を引くミルフィーネに、ヴァリエナは微笑んだ。


 テラスへのガラス扉を開き、外に出る。風はなく、不気味な生暖かさがあった。


(何かしら。嫌な空気……)


 その時、空に赤い稲妻が走った。雲などないのに、王宮の上空を中心に、六本の稲妻が空を走る。


「きゃあ!」


「あれはっ……!?」


 ヴァリエナはミルフィーネを庇うように抱くと、部屋の中へ駆け込んだ。すぐに、街や城の監視塔から、警戒の鐘の音が鳴らされる。


 ドガァァアァン!


 けたたましい音と、土埃が舞い上がった。視界を奪われ、ヴァリエナは噎せながら周囲を見る。近くの屋根が攻撃され、大きく崩落したようだ。人の悲鳴と、怒声が響く。


「ヴァリエナ様、ミルフィーネ様!」


 青い顔で駆け込んで来たのは、ヴァリエナ付の侍女である、メイドのサテュルースだった。


「サテュルース!」


「こちらへ! 南の塔に落雷が! ここも危険です!」


「南……。お父様は!?」


「きっとご無事です。さあ!」


 サテュルースに手を引かれ、ミルフィーネを連れて回廊に出る。咳き込みながら這い出た回廊には、慌ただしく駆け抜ける兵士の姿と、母の姿があった。


「お母様!」


「ヴァリエナ、ミルフィーネ! 良かった、怪我は無いようね。サテュルース、二人を連れて北門へ!」


 母の言葉に、ヴァリエナは息が詰まった。北の門は、普通は固く閉ざされている。そこから出ると言うのは、王城を捨て逃げろと言うことだ。


「お母様、逃げるのですか!?」


「お聞き、ヴァリエナ。襲撃してきたのは魔の者です。これは戦争ではないのです!」


「私も戦えます!」


 杖を握った母に、ヴァリエナは詰め寄った。魔術の知識は、母から教えられたものだ。実戦経験はなかったが、母と父を置いて、民を置き去りにして逃げるなど、一国の姫として出来ないと思ったのだ。


「ミルフィーネを守るのは貴女なのよ?」


 ハッとして、ヴァリエナは怯えるミルフィーネを見た。真っ青な顔で、目に涙をいっぱい溜めながらカチカチと歯を鳴らしている。


「っ……」


「ゲルダ王国へ行きなさい。聡明な王です。きっと助けて下さいます」


「っ、お母様っ……!」


 ヴァリエナは母に抱きついた。その背を、母が優しく撫でる。


 唇を結び、ヴァリエナは顔をあげた。


「必ず、ゲルダ王の援軍を連れて参ります。それまで、どうか……!」


「かかさま」


「ミルフィーネをお願いね、ヴァリエナ」


 母はそういうと、王妃の顔になった。背丈ほどの杖をダン! と床に叩きつけ、兵士の士気を仰ぐ。


「さあ、この国を、魔の者の好きにさせてはなりません!」


「姫様、こちらへ!」


 ヴァリエナは泣きじゃくるミルフィーネを連れ、サテュルースに続いた。


 遠くで、爆音が続いている。恐ろしくて、耳をふさいでも、背後から音が追いかけてきた。


 森中をひた走り、必死で城から逃げ延びる。小高い山を登ったところで、ヴァリエナは城の方角を振り返った。


 空が、赤々と燃えている。涙が滲んだが、泣いてなどいられない。逃げなければ。ゲルダ王国へ行かなければ。


 朝日で空が白み始めた頃、街道沿いに荷馬車が居るのが見えた。サテュルースが近づき、声を掛ける。


 荷馬車は、ウェルネス王国へ向かう途中、異変に気づいて停車していたようだった。


「王国は危険です。ゲルダ王国まで、この方々を連れて行って貰えますか?」


 そう言って、サテュルースが金貨の詰まった袋を商人に渡す。商人は驚いたが、快く頷いた。


「任せてくだせぇ。大変でしたな。さ、狭いですが、乗ってください」


 うつらうつらと眠りかけているミルフィーネを乗せ、ヴァリエナも荷馬車に乗った。腐りかけた野菜の屑が落ちていて、不潔だったが、ヴァリエナも疲れきっていた。そのまま腰掛け、ミルフィーネを抱き締める。


「サテュルース? どうしたの?」


 荷馬車に乗ろうとしないサテュルースに、ヴァリエナは眉を寄せた。


「……姫様。私は、代々ウェルネス王家に使えて来ました。どうか、最期の場所を選ぶ我が儘を、お許しください」


「まさか、城に戻る気なの……!?」


 サテュルースは悲しそうに微笑む。


 彼女の忠義に、ヴァリエナは何も言えない。国と共に滅びる覚悟を決めた彼女に掛けられる言葉は、一つしかなかった。


「……王妃を、最後まで守って下さい。従者サテュルース……!」


「はっ! 必ず!」


 サテュルースはそう言うと、魔力を身に纏わせた。風の魔法が彼女を包み、走るサテュルースをアシストする。


 消えていくサテュルースの姿に、ヴァリエナは祈るしかなかった。


 そこから、数週間。ヴァリエナはゲルダ王国を目指して商人と共に旅を続けた。





 ある日のことだった。


「お金、ですか?」


「へぇ、申し訳ないですが、頂いた金貨だけではとてもゲルダ王国までは……。うちも、慈善事業という訳でありませんので……」


「そ、そうですね。済みません……」


 ヴァリエナは思わず頭を下げた。


 世間知らずだったヴァリエナは、正確なところでの物価や旅費を良く解って居なかった。渡した金貨でゲルダ王国までの旅費は十分釣りがでるほどだったが、ヴァリエナには解らない。


 ヴァリエナは身に付けていた指輪を商人に渡した。


「売って、お金に変えて下さいませ」


「良いんですかい? 何だか済みませんねぇ」


「いいえ。どうか、ゲルダ王国まで、お願いします」


 ヴァリエナはそれで何とかなる思ったが、状況は悪くなる一方だった。


 ゲルダ王国には一向に着かず、慣れない馬車旅の疲労と母と離れたショックから、ミルフィーネが高熱を出した。薬も頼めず、水をなんとか分けて貰い、ヴァリエナは大切にしていた首飾りと、銀の櫛を売った。


 ようやく治ったミルフィーネだったが、すっかり痩せて笑顔を失っていた。


(私が、守らないと)


 その気持ちだけで、生きていたのだと思う。


 とうとう着ていた絹の服を売り、安物の粗い麻の服に変えたヴァリエナは、もう姫には見えなかっただろう。商人に頭を下げてパンとスープを貰い、馬の世話をし、繕い物や洗い物をやった。ゲルダ王国までの辛抱なのだ。苦しくても、惨めでも、ミルフィーネがいれば頑張れた。


 ある日の夜。それは起こった。


 眠っていたヴァリエナの服に、商人が手をかけたのだ。ヴァリエナは咄嗟に魔法で商人を跳ね返した。


「何をするのです!」


「チッ、魔術師かっ! クソ!」


 商人の額から、真っ赤な鮮血が流れていた。商人はギラギラした瞳でヴァリエナを睨み、手元の斧を掴んだ。


 ヴァリエナは恐ろしくなって、眠っていたミルフィーネを抱え、その場を飛び出した。




   ◆   ◆   ◆




「気がつけば、森を徘徊していた私たちは、奴隷狩りの一団に捕まっていました。その時に知ったのですが、私たち、ゲルダ王国とは全く別の方角に旅をしていたそうです」


 なんて愚かで、惨めなのだろう。


 金貨の前に、サテュルースの忠義は踏みにじられ、ヴァリエナの誇りは奪われた。


 ヴァリエナがもっと世間を知っていれば、世の中の悪意と言うものを知っていれば、何か違っただろうか。


「櫛を見て、嫌なことを思い出して、惨めになったんです。申し訳ございません。贈り物、感謝致しております」


「いや、そんなことは良いんだ。見たくないなら、しまっておいて構わないし、捨ててしまっても良い」


 カルナの言葉に、ヴァリエナは驚いた。


(本当に、異端者なんだろうか……?)


 疑うことを覚えなければと、必死になっていた心が、僅かに揺らぐ。カルナはじっと、ヴァリエナの話を聞いてくれていた。


 ヴァリエナは戸惑いながら、ワイングラスを傾ける。


「思い出させて悪かったね。辛かっただろうけど、僕の慰めは意味をなさないだろうから」


「いえ、無知が招いたことも多いですから」


 優しげなカルナだが、言葉は冷静だった。ヴァリエナの同情を引くつもりはない。甘く優しい言葉など、信じられないヴァリエナには、ちょうど良い距離感だった。


「でも、ミルフィーネが笑顔で居られるのは、君の努力のお陰だよ。きっとね」


「え……」


 ヴァリエナはミルフィーネの顔を思い出す。故郷を逃げ延びてから、笑顔など無くなったと思っていた妹だが、そう言えば昼間は笑っていた。


 笑えるように、なっていた。


「―――」


「さ、長々と済まなかったね。部屋に戻って、ゆっくり休んでくれ」


「は……い」


 ヴァリエナは立ち上がり頭を下げると、ミルフィーネとリィザが待つ部屋へと足早に駆けていった。


 濡れたままだった髪が、いつの間にか乾いている。


(カルナ様……。不思議なひと……)


 彼が、悪い人間だったら、怖い。


 信じるのは、怖い。


(でも)


 カルナが言った、故郷の料理を綴るという言葉が、ヴァリエナの胸に響いていた。


 もはや、ゲルダ王国の力をもっても、ウェルネス王国の復活はあり得ない。滅んだ国の痕跡を、何かの形で残せるのなら―――。


(私はもう少し、生きていられるわ)




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