汚泥で汚れた馬車の床の上に座ったまま、ヴァリエナは妹のか細い身体を引き寄せた。疲労が溜まっているが、眠ることも出来ない不安にさいなまれ、神経を尖らせる。身体は感覚がなくなるほどに冷え、つま先や指がじんじんと痛んだ。ガタガタと、馬車は揺れる。周囲の女たちはじっと唇を結んだまま、一言も発さない。重たい鉄の鎖がじゃらと音を立てる。
ふと、頭よりも背の高い部分につけられた小さな鉄格子の窓から、ガヤガヤと喧騒が聴こえた。賑やかで明るい、人の営みの音だ。ぎゅっと妹の手を握り不安そうな顔をしていると、下の方から「ねねさま?」と心配そうな声がした。
「大丈夫、心配いらないわ、ミルフィーネ」
笑みを向けながら背を撫でてやると、ミルフィーネはヴァリエナの腰にしがみついた。幼い妹を優しく撫でながら、自分の腕に視線をやる。ジャラリと音を鳴らす、重たい鉄の鎖。鎖は腕と首を繋ぎ、両の脚にも同じものがつけられている。ヴァリエナが魔法の使い手であることから、他の女奴隷より多く魔法封じの鎖をつけられているのだ。
本当は、不安だった。雑踏が大きくなったということは、馬車が街に着いたということだろう。奴隷商会に着けばヴァリエナたちはすぐに競売にかけられる。手元に長く置かない方が、費用がかからない。商会に着いたらすぐに身体を清められ、清潔な衣服を着せられ、化粧を施される。女奴隷の場合、見た目の良さが売れ行きに繋がる。化粧は、血色を良く見せる為でもある。そんな現実が、自分の身に降りかかるとは。
(皮肉だ……)
悔しくて、唇を噛む。妹と、あとどれ程一緒にいられるだろうか。ヴァリエナは十七歳。魔法も使えるので戦闘奴隷としても使えるだろう。だがミルフィーネはまだ十一だ。互いに引き裂かれ、一生逢えなくなる。自分が居なくなれば、ミルフィーネを守るものは何もなくなってしまう。
自分はどうなっても良いから、妹だけは助けたかった。母とミルフィーネを守ると約束したのに。身を護るすべを持たなかった自分が悔やまれる。世間知らずでなければ、もう少し状況は変わっただろうか。
程なくして、馬車が停まった。ギィと音を立て、扉が開く。怯えるミルフィーネを抱きしめる。ヴァリエナは扉の向こうにいた、でっぷりと太った男を見た。奴隷商人だろう。一緒に乗っていた女たちも、虚ろな瞳を向ける。
「さあ、出ろ。お前たち。すぐに支度だ! 良いご主人様に買われたければ、身綺麗にしろ。急げ!」
商人はそう言って、威嚇の為に鞭を鳴らす。女たちは「ヒィ!」と悲鳴をあげて、慌てて馬車から降りていった。ヴァリエナはミルフィーネを支えながら、それに続いた。
◆ ◆ ◆
夕刻まで商品として立たされていたヴァリエナだったが、幸か不幸か、買い手はつかなかった。ミルフィーネも同様だ。奴隷商人が、ヴァリエナたちの価格を他の女奴隷より高く見積もっていたからだ。姉妹離れ離れにならなかったことに、ホッとする。
ここにいても状況は変わらないが、少なくとも今すぐミルフィーネと引き裂かれるという事はない。その日売れ残ったのはヴァリエナとミルフィーネ。それに、目付きの悪い赤毛の女一人。他の奴隷たちは皆、買い手がついたようだ。
商人がヴァリエナたちを牢に戻そうとしたときだった。ギィと重たい扉が開く。黒いローブを頭からすっぽりと被った人物が、部屋の中に入ってきた。
「済まない。まだ構わないか?」
クローズにした看板を勝手にひっくり返し、男が入ってくる。正体を隠した姿に、奴隷商人は眉を寄せたが、何かを理解したように「ははぁ」と頷いた。
ヴァリエナは男の姿に、ゾクリと産毛が逆立つのを感じ、身震いする。
漆黒のマントに、銀の仮面。皮膚が見えている部分は殆どない。ただ立っているだけだというのに、男には一瞬の隙もなかった。
護身術を習った程度ではあるが、戦闘経験のあるヴァリエナには解る。只者ではない。目付き悪い女も、何処か警戒しているように身を固くする。
商人は
「どのような奴隷がご入り用でしょう? 予算など有りましたら、相談に乗らせて戴きますが」
奴隷商人は下卑た作り笑いを浮かべる。このまま売り残したくもないのだろう。ヴァリエナは緊張した。
「そうだな……。ん、随分と小さい子供も居るんだな」
ミルフィーネに視線を向ける仮面の男に、ヴァリエナはギクリとした。妹に興味を抱く男の目的は、大抵は小児性愛の類いの変態だ。今日も何人か貴族らしい男が品定めに来たが、値段に釣り合わず諦めていた。
(大丈夫、大丈夫よ……)
きっとまた、ミルフィーネに付けられた値に、舌を巻いて逃げ出すに違いない。祈るようにそう思ったヴァリエナだが、商人の態度はこれまでと明らかに変わった。
「お目が高い! ここだけの話ですが、この少女は亡国の王女なのです」
「なに? 一体何処の……」
「湖の美しい国、ウェルネス王国でございます。この美しい姉妹が奴隷落ちしたのは、哀しい理由があるのです。本来なら、白金貨五枚の価値があると思いますが、お客様は運が良い! たったの、二枚でございます……」
「っ!」
いきなり昼間の半分以下の値段だ。流石に値段を高く見積もりすぎたと思ったのだろう。王女という身分も、相手には証明できない。奴隷商人にとっても、半分以上、素性を本気にしているとは思っていないようだった。今のヴァリエナには身分を証明する材料もなく、身につける宝石もドレスもない。シミ一つない肌と、仕事をしたことのない手だけが、貴人である証明をしていた。
白金貨一枚の価値は、大金貨百枚だ。通常の奴隷は、高くても大金貨一枚。庶民でも手に届く労働奴隷はそれより安い金貨五十枚が平均だ。仮面の男が貴族なのか資産家なのかは解らないが、身に付けているものは上等だ。
ヴァリエナは冷や汗が流れた。ミルフィーネは良くわかっていない様子で、不安そうにヴァリエナの服を握る。仮面の男は表情が解らない。穴の空いた目が、ヴァリエナを見上げた。
「姉妹か」
「左様です。姉の方は容姿が美しく、魔法が扱えます。今は封じてありますが、護衛や戦闘奴隷としても使えるでしょう。教養も有りますので秘書にも使えるかと。読み書き出来る奴隷は希少です」
「優秀だな。そちらの女性は」
売り込みに、仮面の男は淡々としたものだ。ヴァリエナは自分には興味を示さなかったと感じた。少しだけホッとする。この分なら、目付き悪い女が買われる可能性も十分ある。ミルフィーネもヴァリエナも、付加価値のせいで高額だ。ヴァリエナの方は魔法が使えるだけに、商人もはした金では売りたくないようだ。
もっとも、長く市場に留まれば、その分値段は下がっていく。
(けど、もう一人の女は―――…)
彼女は問題があって、売れ残っている。自分の話題が振られたのに、女は平然とした様子で傷んだ赤毛を弄っていた。
「……この女は、犯罪で奴隷落ちした犯罪奴隷です。まあ、殺しはやっていません。ケチな盗みです」
「成る程」
値踏みする仮面の男に、女はニヤリと不適に笑った。
仮面の男は唸りながら、三人の奴隷の前を行ったり来たりする。
「うーん……。規模が……。しかし……。まてよ……。とすると……」
奴隷商人の顔に、「さっさと買え」と書いてあるように見えたが、仮面の男は気にした素振りもなく、ブツブツと悩んでいる。その間に、犯罪奴隷の女は飽きてしまったようで欠伸をした。
(神様……)
―――もう少し、ミルフィーネと一緒に……。
ヴァリエナは城から逃げ延びた日を想い、歯噛みする。仮面の男も商人も殺し、逃げ出してしまいたい。
(この鎖さえ無ければ……)
ジャラリと鎖を鳴らすのに、奴隷商人が何かを感じ取ったのか、不快そうな顔で鞭を握った。
「おい、女―――」
「よし、決めた!」
折檻の為に商人が伸ばした手は、仮面の男の声で動きを止めた。商人は仮面の男を見上げる。
「お決まりですか」
「ああ」
購入するつもりらしい仮面の男に、ヴァリエナはビクッと震える。ミルフィーネの肩に手を伸ばした。
「白金貨二枚だったか」
「妹姫ですね?」
奴隷商人が機嫌良く笑う。ヴァリエナは息を呑み、瞳を揺らす。白金貨二枚は、ミルフィーネの値段だ。
「ねねさま……」
「待っ……」
発言する前に、仮面の男がヴァリエナを見た。
「姉君の方は? 妹が二枚だから、四枚―――いや、優秀なんだったな。十枚か?」
「は」
「聞いていなかったな。奴隷を買うのは初めてで、相場も解らん。そちらの赤毛の女性も合わせて、出来れば白金貨二十枚で手を打ちたいんだが、勉強して貰えるか? 持ち合わせが今日はそれだけで……」
仮面の男の言葉に、ヴァリエナは絶句した。目付きの悪い女も、ヒュウと口笛を鳴らす。
(白金貨二十枚!? いったい、何処の貴族だというの? 王族でも、そんなお金は動かさないわ……。それに、それじゃ完全に赤字よ)
相場を知らないとは言ったが、あまりにも法外な金額だ。白金貨一枚で、小規模の町ひとつを運営するに足る金額になる。常識外れな金額に呆けていると、仮面の男は「ダメか?」と困ったように聞く。商人は目を見開いたまま、固まっていた。
「その金額……」
ヴァリエナが思わず間違いを正そうとしたのを、目付きの悪い女が鎖を引いて止めた。顔を近づけ、耳元に囁く。
『何ですか?』
『あの御仁にゃ悪いが、妹と一緒に買われるチャンスじゃないのか? アタシだって、どうせなら金持ちに買われた方が良い。上手くやりゃ、愛人として楽が出来るじゃないか』
その言葉に、ヴァリエナは(確か)に、と思った。愛人はともかく、姉妹二人を買おうという客が、次に現れる可能性は低い。犯罪奴隷は相場より安いはずなので、彼が相当損をするのは明確だが、自分で言い出したのだ。不可能な金額ではない。それに、『今日は』持ち合わせがないと言った。男の資産はその程度では揺らがないのだろう。
ヴァリエナは小さく頷いた。
『妹に手を出す変態じゃなければ良いんだけど……』
『アタシらも買うんだ。子供専門ってわけじゃないんだろ。育てて食うのかも知れないし、もっとヤバい奴かも知れない』
『もっとヤバい……?』
含みのある言い方に、ヴァリエナは皮膚が粟立った。
『生きたまま皮を剥ぐような、嗜虐趣味』
その言葉に、ヴァリエナはゴクリと喉を鳴らす。あの怪しい仮面が、余計に不安を掻き立てた。
『いざとなりゃ、協力して逃げようぜ? アタシはリィザ』
『……ヴァリエナです。妹はミルフィーネ』
ニヤリと笑うリィザに、ヴァリエナは胸がざわついた。その瞳には、暗い陰りがあった。
◆ ◆ ◆
ヴァリエナたちがこそこそと話し合っている間に、交渉は終わっていたようだ。意外にも、奴隷商人はボッタクリをしなかった。ミルフィーネの元の値段と、ヴァリエナの値段。それに、リィザの値段を足した金額である、白金貨十二枚と金貨三十枚で落ち着いたようだ。法外な値段に後から文句を言われないようにするためか、仮面の男が引き続き上客となるのを見込んでなのかは解らないが、とにかく、ヴァリエナは仮面の男の所有物となった。
「急がせて申し訳ない。街の外に馬車があるんだ。そこまで来て貰うことになる。妹姫君、歩けますか?」
自分の奴隷だというのに、丁寧な口調でいう仮面の男に、ヴァリエナは戸惑いながら後をついていく。ヴァリエナたちの鎖はまだ解かれていない。契約で、男の家に着いてから解錠の魔法で外れるようになっているのだ。ヴァリエナの場合はさらに、魔法の使用を封じる腕輪が付けられた状態だ。
仮面の男は鎖を外そうとしたが、それが奴隷を買うときの規則らしい。途中で逃げられて文句を言われては堪らないが、雇い主の元から逃げた場合は知らぬという事なのだろう。
三人の女たちはローブを被せられ、仮面の男に着いていく。街はもう人通りが少なく、視線があまりないのがありがたかった。奴隷落ちした屈辱は大きい。
「ご主人様、私たちは貴方の奴隷です。私の事はヴァリエナと、妹はミルフィーネとお呼びください。もはや国も有りません。そのようなお言葉は……」
「アタシはリィザだよ。好きな名前を着けるご主人様も居るけどね」
リィザはそう言ってククと笑う。自分の奴隷に、忌まわしい名を着けたり、名を捨てさせることもあるのだ。
「そう? じゃあミルフィーネ、疲れたら言ってくれ。何なら、おんぶしてあげる―――」
「問題有りません! 妹が歩けないようだったら、私が背負います!」
ヴァリエナはサッと青ざめた。
(やはり小児性愛者なのだっ!)
妹を人形のように着せ替えし、いかがわしい遊びをするのだ。何も知らない妹に、卑猥な手管で惑わそうとしているに違いない。
ヴァリエナは仮面の男背を睨んだ。
「そう? じゃあ、辛くなったら言ってね」
「……」
押し黙るヴァリエナとは逆に、リィザは呑気だった。
「変人だね、ありゃ」
「変態の間違いです」
反射的に否定するヴァリエナに、リィザは「ぶっ」と吹き出した。仮面の男が一瞬振り返ったが、二人とも平然を装う。
不安ばかりだったヴァリエナだったが、リィザがいてくれるのは心強い。彼女は度胸があり、知恵もあるようだ。
(私の身をもってしても、ミルフィーネは守らなければ……)
いまだ怖がるばかりで状況が解っていないミルフィーネの手を握りながら、そう誓う。
歩きながら、リィザが仮面の男に尋ねた。
「馬車は乗り入れなかったんですか? ご主人様」
(確かに。白金貨をあれだけポンと出せるのに、不思議ね)
馬車の都市への乗り入れには、銀貨一枚程度かかる。広い街なので、富裕層や商人は乗り入れするのが普通だ。
「僕の馬車は―――都市乗り入れるにはちょっとね……」
「?」
仮面の男の呟きに、ヴァリエナとリィザは目を見合わせて怪訝な表情になった。
この主人は、何かおかしい。リィザが耳打ちしてくる。
「――姫さん。アイツ、異端者かも知れねえぜ」
「い、異端者っ」
「しっ」
ミルフィーネの手を握っている手のひらが、汗をかいた。ミルフィーネが心配そうに見上げる。
異端者とは、魔王の軍門に下った人間のことだ。各地で人間を襲い、世界を魔物の国に変えようとしている魔王。その魔王に忠誠を誓い、『人ならざる者』へと身を堕とした者。
「昔ね、見たことがあるよ。異端者の馬車。人間の骨で出来た、不気味な馬車……」
「おっ、恐ろしいですね……」
リィザも相当な修羅場を掻い潜って来たらしい。今から自分達を迎え入れる馬車が、恐ろしい馬車かもしれないと思うと、歩むのが怖くなった。
(ああ―――異端者に仕えることになるなんて……)
絶望にも似た気持ちになる。自分の国を滅ぼし、両親を殺した魔王の軍門に、自分も下ることになるのだろうか―――。
そうこうしている間に、一行は門を出て、近くの森へとやって来た。月光に照らされたリィザも、顔色が良くない。
「この辺に……。シルドラ、僕だ」
仮面の男の声に、森の木々がガサガサと音を立てた。森の奥から、馬車が現れる。その姿に、ヴァリエナは悲鳴をあげるのを寸でで堪えた。リィザも驚きで目を丸くし、顔を青くしている。
「お待たせ。さあ、乗って」
「ごっ、ご主人様」
「ん?」
「この馬車―――馬、車……いえ、馬……」
ヴァリエナは何とも言えない表情で、優美な美しい獣を見た。
「うん。馬車っていうか、竜車?」
リィザはポカンと口を開けたまま、微動だにしない。ミルフィーネは気絶寸前だ。フラフラする身体を支え、ヴァリエナは自分はしっかりしなければと、深呼吸する。
白い鱗の美しい竜が、馬車のキャリッジに繋がれていた。気品ある表情は、馬のように扱われていることなど意にも介していないようだ。鼻先を仮面の男に押し付け、ゴルルと喉を鳴らしている。
「りゅ、竜種を馬のようにするなど、初耳です」
「そうなんだよ。目立つから街にはね……。でも、馬力は馬よりあるし、速いよ」
(そうでしょうとも……)
目眩を感じながら、ヴァリエナは促されるままにキャリッジへと乗り込んだ。
(このご主人様は、絶対におかしい……)