自分は今、売られようとしている。
艶があっただろう白金の長い髪は土に汚れ、頭を飾っていた黒レースのマリアベールは地面に落ち、修道服の上着は乱れ、白いハーフパンツは薄汚れていた。
腕と足を拘束されて、フランは地面に転がっている。布で口を縛られて声も出ず、魔法を使うための媒体である紫水晶のロッドはこんなことをした依頼人に没収されて、何もできない。
フランは愛らしい顔に似合わない疲れた目元を垂れ下げた。彼女がどれだけ苦労をしたのかは、その濃いクマを見れば分かるだろう。
こんな状況でも泣かずにどうにかできないかと、必死に考える姿というのは可哀そうなものだ。
そんな惨めなフランなど気にも留めずに依頼人だった老け顔の男は、汚い笑みを浮かべながら取引相手の恰幅の良い男と話をしていた。
傍にいる荷物番だろう青年は興味なさげで誰もがフランをただの商品としか見ていない。
商業道から少し外れた森の中は静かなものだ。自分たち以外の存在を感じさせず、小鳥たちの鳴き声だけが響いている。仮に口を塞がれていなくとも、声を上げても誰にも気づかれないだろう。
商業道を商人や冒険者が通れば話は別だが、助けてくれるかは怪しいものだ。フランはその現実を理解して、自分の不幸さを心中で嘆いた。
(いつもそうだ、私って運がない)
フラン・ベガレットは不幸体質だ。加入したパーティには必ずと言っていいほど裏切り行為を受ける。囮にされて放置されたり、約束を破られてしまったりと良い思い出がない。
依頼人にだって騙されることも多い。報酬額を低くされることや、依頼内容と違うことをさせられることだってあった。それでもフランはソロで冒険者を続けて、弱音も吐かずに生きるためになんだってやってきた。
私が何をしたというのだろうか。フランは自分の人生を振り返るけれど思いつかなかった。誰かを羨ましいと思ったことはあれど、不幸を望んだことはない。悪事にだって手を染めてはいないし、貸してもいない。
神様なんて信じられない。自分の現状にフランは抵抗する気が失せてくる。どんなに考えてもこの状況を打破できる方法が思い浮かばなかった。
いつだってそうだ、自分は優しさを捨てきれない。どんなに酷い目に遭っても疑っていくことなんてできない、弱い人間だ。
魔法を教えてくれた師匠だって、「お前は優しすぎる故に弱い」と注意していたのだから。フランは師匠の言葉にその通りだなと涙が零れそうになるが、ぐっと堪えながら取引を進める男たちへと目を向けた。
「顔に疲れがだいぶ溜まっているが、可愛い顔はしている。化粧で誤魔化せば良い値で売れるだろう」
「そうだろう。こんな良い品が一人で冒険者なんてやっているから驚いたものさ」
女一人の冒険者なんて無防備にもほどがある、自分から狙ってくださいと言っているものではないかと、老け顔の男が下品に笑う。それはそうだと同意するように恰幅の良い男が頷いた。
まるで自分たちは悪くない、獲物が歩いていたから捕まえただけだと言うような態度にフランは眉を寄せた。
(人間なのか、この男たちは)
同じ血の通った人間なのかと疑いたくなる。全ての人間が良い人ばかりだとフランは思っていない。そこまで世間知らずなわけでもないのだから、悪人がいることぐらい理解している。
けれど、ここまで悪事に何の躊躇いもない姿を見ると同じ人間であるとは信じたくなかった。
ガハガハ笑う二人の男を眺めることしかできない。契約書が渡されたのを見てあぁ、自分はとうとう売られてしまうのかとフランが諦めた時だった。
「ガウァアアアッ」
鳴き声と共に茂みの奥から飛び出してきた。なんだと皆が注視すれば、そこには灰毛の薄汚れた狼の魔物が獲物を見つけたような眼差しを向けている。ひと際、大きいその魔物に続くように一匹、また一匹と姿を露わす。
「ひぃ、エアウルフっ!」
「おい、山から下りてきたとか、聞いてないぞ!」
恰幅の良い男が荷物番をしていた青年を呼ぶも、剣を握る彼の手は僅かに震えて頼りない。しっかりしろと叱られて前に立つが、群れのリーダーだろう大柄なエアウルフが一声、吠えれば腰が引ける。
彼らの反応にエアウルフたちが気づかないわけがない。魔物にだって知能はあるのだ、相手が恐れを感じていることなどお見通しだった。また一つ、リーダーが吠えて、群れのエアウルフたちが飛んだ。
「うわぁぁっ」
襲い来るエアウルフに青年は剣を振り回し、老け顔の男は一目散に逃げて、恰幅の良い男は腕を噛みつかれる。何の役にも立たない剣に青年は泣き声を上げながら駆けだし、腕を負傷した恰幅の良い男はまた一匹のエアウルフに襲われる。
「オレを狙うな! こいつを狙えっ!」
恰幅の良い男はそう吐き捨てて、フランの髪を掴むと群れの中へと投げ捨てた。手足を拘束されているフランはただ地面に転がるしかない。起き上がることもできず、顔を上げれば複数のエアウルフに囲まれていた。
エアウルフたちの視線が集まる。隙ができたとばかりに恰幅の良い男も逃げ出して、フランだけがその場に残された。
あぁ、自分は囮にされたのかと現状を理解して、フランは全てを諦める。今の自分は彼らの〝エサ〟でしかないのだから。
一匹のエアウルフがフランの顔に近づき匂いを嗅ぐ。ふんふんと鼻を鳴らしてから、リーダーに向けて小さく鳴いた。問題はないといっているふうに見えるその光景をフランは見つめることしかできない。
リーダーの大柄なエアウルフが一つ鳴く。匂いを嗅いでいた鼻が引き、唾液に濡れた牙が向けられた。
(あ、食べられる)
フランがそう思った瞬間――目の前が赤く染まった。