「え?出張…ですか?」
ある日の夕食の席で、萌は王谷との出張が決まったことを、昇に報告した。
「しかも函館…結構遠いですね。」
「函館の夜景を今書いている作品に出すので。それの偵察です。王谷さんという上司が、なんでも実際に見ないと良い作品が作れないって言って、社長に許可を取ってくださったんです!」
萌は楽しみを隠しきれないと言った表情で嬉しそうに喋っている。
対する昇は、内心かなり複雑な気持ちだった。
「そうですか…王谷さんって人は確か、こないだ萌さんが攫われた日、最後に一緒にいたというかたですよね?その方と二人きりで?」
「はい。とても良い方なんです。たまに買ってくるパンも、王谷さんが教えてくれた行きつけなんですよ。」
昇は、先程から萌の上機嫌な笑顔を前に、心臓がどくどくと嫌な脈を打ち、頭にモヤモヤとした霧が渦巻いている感覚がしていた。
" ほら、いわゆる浮気とか不倫とかってやつっすよ!"
以前、萌がいなくなった時に連絡したヤマトがこう言っていたことを思い出す
そのとき一気に目の前が真っ白になるほど、激しく動揺し、1ミリもその考えに及ばなかった自分、そして、だいぶショックを受けている自分に気がついた。
«実はなんか最近やたら萌さんと王谷さん仲良いんすよねー。あー、でもまぁ仕事一緒にやってく上での当然の距離感かもしんないし、俺の思い過ごしかもっすけど、今日も一緒に楽しそうにランチしてたし、よく2人にしかわかんない会話してるしー、もしかして今日あのまま2人してどっかにしけこんでるとか?笑»
あのとき、いつもの遠慮のない性格のヤマトに大事なことを気付かされた。
だから昇は昔から、あらゆる情報源としてヤマトを重宝している。
「……昇さん?どうしました?」
「っ、あ…いや……えっとー…」
先程から静かで、あまり見ることの無い苦い表情をしている昇に、萌はようやく気付いて口を閉じた。
(あれ……何か失礼なことを言ってしまっただろうか……。昇さん、私がいつも何か嬉しい報告とか楽しい話とかをすると、何でもにこにこしながら聞いてくれるのに……。さっきからずっと…まるで苦虫を噛んだみたいな顔して……)
「……あの…萌さん」
「はい?」
「その王谷さんという上司の方は、どんな方なのですか?男性ですよね?」
"男性" という部分をあえて強く強調した。
何が言いたいのか気づいてくれるはずだと期待して。
「そうですよ?同い年ですけど、とても優しくて面白い、仕事熱心なかたです。他の女性社員からは、もうダントツで1番モテていて、王子なんてアダ名をつけられているくらいなんです!」
「…っ……」
やばい…。そんなサラッと!
薄々気がついてはいたが、ここまで萌さんが鈍感だとは思わなかった…!
普通はそんなふうに旦那の前で他の男性をベタ褒めし、更には2人きりで旅行に行くことをそんなに楽しく話したりしない…!
と、クスクス屈託のない笑みで笑っている萌を見ながら、昇はもはやどうしていいか分からなくなってきていた。
「あのー…萌さん……。えっとですね、正直……そのような感じの男性と2人きりで旅行に行く…というのはさすがにちょっと……」
「えっ……」
ようやく、気付いてくれただろうか?
昇は小さくため息を吐いた。
なんだかそんなことをいちいち言う自分が恥ずかしくなってきている。
「あの…昇さん。旅行じゃなくて、出張…仕事ですよ?」
「っ!も、萌さん!そんなことわかってますよ!」
「え?だって…」
「それはそういったただの名目であって、実際は楽しい旅行でしょう?」
萌は、目の前で少しへそを曲げているように視線を落としている昇に対し、意外だと思ってしまった。
あぁなるほど…多分これは、
ヤキモチ…というやつでは?
「……あのー、昇さんすみません…言葉が足りなくて。彼は確かに女子からモテモテなんて言いましたけど、私は当然なんとも思ってなくて、本当にただの上司部下の関係で、それ以上は何も…」
「それは萌さんの意見でしょう。向こうはそう思っていない可能性のほうが高いと思います。」
「え?!そんなことあるわけ」
「いや、もうほぼ確定ですね。その男性は、萌さんに気があるんですよ。でないと二人きりでわざわざ泊まりがけの仕事になんて誘ったりしない」
「いやいやこれは本当にただの大事な仕事ってだけで…。王谷さんだって、私が既婚者なことは当然知っているし」
「そんなことは関係ないですよ。だいたい男女で夜景を見に行くためにそんな方へわざわざ仕事?……完全にプロポーズのベストスポットへ?」
「っ、脚本の偵察だから仕方ないじゃないですか」
「そもそもその人って、今回のその新しい仕事を、なぜ萌さん指名したんでしょう?」
「それはっ…、私の実力を認めてくれて……是非一緒に新作をと言ってくれてっ」
「違うと思いますね。」
「え…」
「口八丁いろいろ言うのが上手い人達の集まる仕事だ。もともとそこからもう既に計画通りだったんですよ。萌さんを狙って」
その瞬間、萌はカッと頭に血が昇った。
自分のことも王谷のこともバカにされた気がした。
「なっ…なんてこと言うんですか?!
昇さんが王谷さんの何を知っていると言うんですか?!」
「知っていますよ」
「え…?」
「日頃、ほぼ毎日食堂で一緒にランチしていることも、楽しそうにいつもパン屋の趣味を共有していることも、どちらかが残業だと、どちらかも必ず残ること、帰りもしょっちゅう一緒に帰っていることも」
萌は目の前にいる、呆れたような昇の顔がぼやけてきていた。
そのくらい、全身に衝撃が走り、心臓がバクバクと嫌な音を立て始めた。
「ど…どういう…ことですか……」
「自分の妻を守るために、部下の目を光らせておくのは当然ですよ」
「そっ、それって監視?!スパイってことじゃないですか!」
(いつのまにそんな!昇さんの部下が私の近くに?!私はずっと誰かに見張られていたっていうことなの?!一体誰?!)
萌は衝撃とともに、当然ショックを受けてしまった。そして、あんなに自分にとって良い人ばかりの職場にいる誰もが、今は全員信用できなくなってしまった。
「スパイって…そんな言い方しないでください。僕は萌さんを心配して…」
「だからって誰かを使ってコソコソと私を監視していたなんて酷いですよ!」
「どうしてですか?それってやましいことをしている…ということですか?」
「はっ、はぁっ?」
耳を疑ってしまった。
頭に血がのぼり、萌は酷く興奮してきている自分に気がついた。