「私は別に、物分りが良いわけではなく、諦めが早いだけです。」
どこかで自分に対していつも諦めている。
自分のことは嫌いでないけれど、自己肯定感が元々低い。だから自分の望み通りにいかないことばかりの人生でも、それが当たり前だといつも自分に言い聞かせてきた。
「そういう修斗さんこそ、どうなんですか?本当に私と結婚する流れになんの文句も感情もないんですか?」
「うん。それはさっき言った通り」
「本当ですか?」
少し語尾を強め真剣な目をした華子に、修斗は驚いたように瞬きをした。
「さっき、恋愛なんて今更めんどくさいし、心に決めた人がいるわけでもないって言ってましたけど、それは本当なんですか?」
華子は知っていた。
黒宮修斗がかつて、ある女性と付き合っていたこと。
そしてその人に、本気で惚れていたように見えた。
「……え?はははっ…どうしたの華子ちゃん突然っ」
「本当は修斗さん……希美さんと結婚したいと、そう思ってましたよね?ずっと…」
一瞬、明らかに修斗のまわりの空気が変わったのがわかった。
目を見開いてこちらを見ている修斗が、まさかそんなことを言われるとは微塵も想像していなかったのだろう。
そんな表情をしている。
「……あー…そういえば……そっかぁ……」
数秒の沈黙の後、いつも大きめの明るい声とは全然別人みたいな、蚊の鳴くような小さな声で、ゆっくりそう言った。
「希美と仲が良いみたいだもんな…キミは。」
徐々に目を細め、静かに笑いながら赤いワインの入ったグラスに視線を移した。
「そうだね……うん。そんなふうに思っていた時期もあったかもなぁ…」
別に、希美に直接何かを聞いたわけではない。
ただ、上の兄・翼と希美が正式に結婚する前、2人が付き合っていたということは知っていた。
実は華子はその頃、何度か2人を見かけたことがあった。いわゆる、デートの場面だ。
希美の実家も大きな財閥の家系なので、うちでなんらかのパーティーがあればだいたい2人は揃う。
そういった場面では距離を保ち、親しげにはしていない2人でも、外で見た時の2人はまるで別人に見えた。
昔から勘が働く華子は、2人がお互い愛し合っているということは見てすぐに理解してしまった。
「でもさ、俺らだっていい大人だ。将来的には互いに相手がいる限り結ばれないことは理解していた。その上で、それまでの間は好きに過ごしていようと決めていたんだ。だから別に……本気じゃないですよ。」
この人は、見た目も性格も仕事ぶりも大胆で自らを貫いている感があるのに、嘘をつくのだけは下手なのだと華子は思った。
目線や動き、言葉の発し方に、本当は今でも彼女への想いが変わらないということが表れてしまっていた。
そして、希美さんも同じような感じだったから、華子は2人のことが気の毒で仕方なかった。
そしてひとつ厄介なのは、兄、翼が希美のことをどう思っているのか未だ見抜けないということだ。
華子の鋭い勘や洞察力は、なぜだか昔から翼の閉心術だけには敵わない。
「じゃあ華子ちゃんは?まだ若いし、本当は好きな人とか彼氏とかいるんじゃないの?」
「……別に…。今はとくに…。」
なるべく平静を装い、朗らかに言ったつもりだったが、修斗は真面目な顔をして目を細めた。
「いいんですよー?別にいたって」
「え?」
「結婚云々なんてのは所詮単なる表向きなんだから、その中で何やってようとそこは自由だ。少なくとも、俺は責めない。」
キッパリとそう言われ、華子は戸惑った。
「ほら、やっぱいるんじゃない。まぁその歳でそういう人が一人もいないほうが不健全だし、良いことだよ。」
「ちがっ…私は本当に…っ」
「大丈夫大丈夫〜。外では自由に恋愛して、健全に遊んでなよ。結婚さえしとけば誰も文句は言わないよ」
言葉を失ってしまった。
この件は一旦しっかり考えなければ、どう感想を持っていいのか分からない。
修斗は優しく笑ってから、また料理を口に運び出した。
「俺もね、実は希美とそんな関係を提案したんだ。けど彼女は、そうじゃなくて、俺が強行突破してでも奪い返してくれることを期待していたらしい。そんなことできるわけがないのに…ハハッ。」
驚いた。
同時に、胸がキリッと傷んだ。
自分のことじゃないのに。
だって……あのいつも冷静沈着な希美さんが…
だとしたら、やはり本気で修斗さんを…
「女性ってさ、たまに絶対できないって知ってる我儘を言って男を困らせるのが好きだよね」
「それは違います」
つい、声を少し大きくしてしまった。
けれど、あの真面目で賢くて美しい希美さんが、ただ感情的な我儘なんて言うはずがない。
「できないことなかったと思います。」
そう。できないことない。
政略結婚を打破するくらい。
もっと本気になってくれれば…
「……て、自分に言い聞かせてるだけかな…」
「……。ふぅん、そっか…。華子ちゃんも、自分を連れ去ってくれる人を期待してるんだねー」
「……。」
「でも残念だけど、大人の世界はそんなに情熱的じゃない。社会で生きていくためには皆、感情は二の次、三の次にしなくちゃならない。
それが、大人になるってことなんだ。」
ふいに、
" 大人になれよ!"
と心の中で聞こえた気がした。
「…分かってます。」
そうか、大人って…自由じゃないんだな、と華子は思いながらも、どこか腑に落ちなかった。
「まぁ安心して。俺と結婚しても、自由なままだから。なんでも自由にしていていいよ。公で良い妻を演じていてさえくれれば。夜の営みだってしなくっていいよ。俺は君から、何も求めない。」
「っ、本当に何も求めないんですか?」
「うん。その代わり……」
ワインを開けるペースが早い。
また新しいボトルをグラスに自ら注いでいる。
美しい赤をグラスの中で回しながら、こちらに笑いかけた。
「もしも、君を攫ってこうとする男が現れても、俺は引かないから。俺は俺の人生のために、君のことは誰にも渡さないよ。」
その言葉は、今まで出会った言葉の中で一番残酷かもしれなかった。