加賀見華子はある日の夜、目の前に出されたオレンジ色のチューリップに目を瞬かせた。
美しい庭園に囲まれたレストランに、美しいメロディーと美しいカトラリー。
そして今自分の視界には、美しい花が映っている。
それなのに…なぜだか気味が悪くて仕方なかった。
そもそも今日一日、ずっと憂鬱な心持ちでいた。
なぜならこの太陽のようなオレンジ色のチューリップを、笑顔で差し出している男性・黒宮修斗と正式な婚約話の内容で会わなければならなかったから。
「あ…あの……これは……」
「もちろん、華子さんに。」
修斗は満更でもない様子で、表向きの優しい笑みを貼り付けているように見える。
「あ…りがとうございます……」
ゆっくりとそれを受け取ると、フワッと花の香りが漂った。
ザッと20本くらいはありそうだ。
「オレンジのチューリップがお好きだと伺ったので。」
「え……」
ドクンと心臓が嫌な音を立てた。
なぜなら、自分がオレンジのチューリップなんてかなりマイナーな好みを誰かに言ったことなんて、1度しかない。
その人の顔が頭に浮かび、胸が重苦しくざわめく感覚がした。
「まぁ今日は気負わないで、ラフに行きましょう。飲んで食べてテキトーに。」
黒宮修斗……黒宮コーポレーションの長男であり、外見も中身も少しチャラっとしている楽観的な男だ。
しかし華子は、この男に対して悪い印象は全くない。
見た目とは裏腹にとても真面目で仕事熱心で、明るくお喋りで人当たりも良い。
実際、自分の父も、黒宮修斗は黒宮家の中で一番マトモで、稀に見る逸材だと言っていた。
「華子さん、どれにしますか?まだ好きな食べ物すら知らないんで、コースとか選んでないんですよ。」
ザッとメニューを見ると、値段は一切書かれておらず、よく分からないカタカナばかりだった。
下の英語の記載欄を見た方が、中身の詳細を理解しやすいため、そちらを目で追った。
「……どれも美味しそうですね」
「えぇ。ここは全部自信もってオススメできますよ。先月オープンさせたばかりのオーガニックフレンチなんです。シェフはパリの三ツ星ホテルから引き抜きました。」
「へえ、すごいですね……私は嫌いなものもアレルギーもないので、お任せします。お酒もなんでも大丈夫です。アルコール度数も気にしないでください。」
「それは頼もしい!では適当にいろいろオーダーしときますね」
その愉しげな笑みは、不思議とこちらの緊張感を緩めてくれる。
初めて出会ったのは中学生の時。
彼は既に自分の会社を手広く手がけている若手実業家だった。
自分の婚約者になるかもしれないと聞かされた時は、なんの感情も湧かなかった。
兄である昇にも、修斗の妹という許嫁はいるし、きっとこの黒宮という家系とうちの家系の結び付きは社会において重要なのだろうと子供ながらに理解があった。
自分の感情を出さず、社会の歯車の1つとして全てに従うこと……それが財閥の家に生まれた人間の宿命なのだと自ずと分かっていた。
それに、まだそのときはただの可能性だった。
財政や権力などといった社会の構造は常に変わっている。
だからその時代時代で必要な歯車も配置も変わるのだから、自分の役割もどうなるか全く分からない。
心のどこかで期待していた。きっと自分が大人になる頃には、何もかもが変わっていて、自分の婚約者はきっと自分の好きな人になるだろうと。
しかし今、あの頃にあった可能性がそのまま現実になろうとしている。
自分が思っていたよりも、根強い我が家の情勢は変わらなかった。
そしてもう1つ、重要な理由によってこの現実になった。
それは……
「はー…それにしても面白いですね。
俺たちは本来自由だったはずなのに、あなたのお兄さん昇さんと、俺の妹・莉奈が婚約解除したことによってこちらに皺寄せが……ってまぁ世の中急展開することばかりですからそんなに驚くことでもないですけど。」
そう。実は自分たちは自由恋愛を許されていた。しかしここ一年で昇がした強行突破によりこうなった。それが真実である。
「まぁ俺はね、別にいいんですよ。今年35で、恋愛なんて今更めんどくさい歳だし、心に決めた人がいるわけじゃないし。」
「………。」
そう言って、本当になんとも思ってない風に、目の前に運ばれてきたワインに口をつけた。
「でも……莉奈さんは大丈夫でしたか?」
「はははっ。自分の感情よりアイツの心配ですか?子供の頃と変わらず優しいんですね」
「……女の子って繊細なんですよ」
修斗はまた空いた自分のグラスにワインを注ぎながら明るく言った。
「大丈夫なわけないですよー、全くもう。泣くは喚くは1週間は面倒くさくって。」
やっぱり……と、その姿を想像して胸が痛み、申し訳無い気持ちでいっぱいになった。
兄の昇は、彼女を事前にちゃんと納得させたと言い張っていたが、大胆な行動力はある代わりに人の感情を細部まで慮るという面がたまに欠如していることがある。
と、妹目線でずっと思ってきた。
「アレの手が負えなくなった時、頼れるのはたった一人なんでね。彼にどうにかしてもらいましたからまぁ少し落ち着いたとはいえ…」
「ああ、前野真一さんですか?」
「そうそう。真くんさえいてくれればまぁだいたいのことは大丈夫だとは思いますけど。もう子供じゃないんだから少しは理解力と忍耐力を養ってほしいですよ」
でもそれは、人の感情においてはなかなか難しいものだと思った。
どんなにそういった力がある出来た人間性の人でも、時に突拍子もないところで爆発したりする。
「それに比べてあなたはまだ若いのに物分りが良くて素晴らしいじゃないですかー」
運ばれてきた美しい前菜の数々を、清楚な格好をしたウェイトレスが綺麗に取り分けてくれている。
それを見つめながら、人間の現実もこんなふうに、形は多少崩れてもスムーズに何事もなく綺麗なままいられたらと思ったりした。