「おー、見てください萌さん。今宵は月が綺麗ですねー」
だだっ広いこの部屋の壁は全てガラス張りで、宝石を砕いたように細かく見える夜景と、ほんのり浮かぶ月がちょうど良い位置に見える。
石田さんはワイングラス片手に嬉しそうにそれを眺めている。
こうして見ると、随分絵になる男だと思った。
「ていうか、毒なんて入ってないから食べてくださいねー。萌さんの好きなワインも日本酒もシャンパンもあるし、好きなだけ飲んで、一緒に優雅に旦那さんを待ちましょー」
大きなテーブルには、高級そうなたくさんの食事が並んでいる。
不思議なくらい、お腹も空いていないし喉も乾いていない。まるで体が全てを拒絶しているみたいに。
「どうしたんですかー?初めて会った時、それはそれは美味しそうにたくさんお酒飲んでたじゃないですかー」
「こんな状況で本当に口にものを入れられると思ってるんですか?おかしいですよあなた」
「うーん……そうですかねー……
僕が子供の頃何度か誘拐された時は、普通に空腹も喉の乾きも感じたから、なんの躊躇もなく食べたり飲んだりしましたけどね」
「……は?」
この男は、ホントに何者なの?
そもそも石田って苗字も、前に教えてくれた自己紹介やらも全て嘘だろうし。
そして明らかに昇さんと知り合いのようだった。
" 萌さん……本当にごめんなさい。本当に……"
昇さんの言葉が蘇る。
あれは何に対して謝っていたのだろう?
一体何を知っていて、何を隠してるんだろう?
私って一体なんなんだろう?
昇さんは私と何のために結婚したんだろう?
何もかも意味がわからない状況な上に、誰が正しく誰が悪いのかも分からないこの複雑な心境の中だと、どういうわけか怒りや悲しみすらも湧いてこない。
きっとどういう感情を持っていいか分からないのだ。
なんだかどうにでもなれとも思ってしまう。
ソファーの上に置いてある私のバッグと、その隣にある動物パンの入った袋をボーッと見つめる。
本来なら今頃それを昇さんとチコと楽しく食べていたんだろうか。
「はぁ……」
自然とため息が出た。
なんだか考えることに疲れてしまった。
「石田さん、それ……」
「ん?」
私は袋を指さした。
「食べてもいいですか?」
「ん?……あぁー。例のパンね。好きだねー」
「……??」
まるでそれを知っているかのような反応に戸惑っていると、袋をそのまま渡された。
「僕も何度もそこのパン食べたことあるんだけどさ〜ぶっちゃけ他のパン屋との違いがわからないよ」
「食べたことあるんですか?」
「あるよ数え切れないくらいー。部下の1人がそこの大ファンでさー。よく貰うんだよ。まぁ僕はたいして食に興味が無いからなんだっていいけどねー」
「……私は、ここのパン、今までで一番美味しいと思いましたけど。」
私はクマのパンを取りだし、齧り付いた。
その様子を、石田さんが微笑みながら見つめてくるのが気味が悪い。
「……あれ……」
「どうしたの?」
「……なんだか……あんまり美味しくない……」
見た目も中のクリームも、とっても美味しそうなのに、なぜだかやたら不味く感じた。
「ハハッ、ほらね!」
「え?」
「物の味ってのはさぁ、結局どれもおんなじなんだよ。ただ状況によって感じ方が変わるだけで。」
なるほど……と思ってしまった。
誰とどこでどんな気持ちで食べるのか。それによって、食べ物や飲み物の味がここまで変わるということか。
だから私が昇さんやチコ、王谷さんと食べている時は、楽しいとか幸せとかいう気持ちが直接味に反映されていた……と。
「あぁそういえば、そこのパン屋の揚げきなこパンは美味かったかなー。なんか期間限定で出てるとかで昔部下に連れてかれてさー」
「……それってきっと、楽しかったからですよ」
そう言うと、石田さんは記憶を辿るように遠くを見つめて、うーんと唸った。
「そーかもねー。楽しいなんて感情にもあんまり興味無いから、美味しい食べ物とかにも興味が無いよ」
ふと、かつては私もそうだったなと思った。
こうして客観的に聞くと、それってなんだかとても寂しい人生に思えた。
せっかく生きているのに、まるで何にも興味が無いなんて。
かつての私は、何かの楽しさとか物の美味しさとか、そういった感情よりもとにかく行方知れずの家族のことで頭がいっぱいだった。
だから何かをしていても何かを食べていても、楽しいとか美味しいとか感じられなかった。
そして最近になってようやくその感覚がわかるようになり、それと同時に気がついたことがある。
「自分が何か他のことや人に感情を動かされるようになると、見えてる世界も感じてきた感覚も、全てが変わりますよ……」
まるで今まで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えるくらい。
父や姉、過去のことにこんなに人生を振り回されることが滑稽に思える……それは本音を言えば、私にとって少しの罪悪感と虚しさを感じさせた。
けれどそれと共に、自分の人生は自分だけのもので、好きなだけ自分の幸せを追求する生き方をしてもいいんだと、その方が遥かに楽だということも学んだ。
「石田さんは、人生楽しんでますか?」
ワイン片手に夜景をぼーっと見つめていた石田さんが、驚いたようにこちらに視線を移した。
「自分の本音に従ってみると、結構楽しくなりますよ。食べ物も美味しくなる。」
「……。」
〜♪
少しの沈黙の後、鳴り出した私のスマホを石田さんがとった。