「えっ、本條さん今週いっぱいで退職?!あっ!寿退社ってやつか!」
「萌ちゃん、もしかしておめでた?!」
「うっそ!今何ヶ月?!体調大丈夫なの?」
急すぎるけれど、会社で報告が行き渡った途端、皆からは当然質問責めにあった。
あれだけ仕事は続ける宣言をしていたのだから、驚かれている。
「えっと……子供はできてないんですか……突然ですみません。」
そういうことすらしていないし、もっと言えば、キスすらもしたことがない。
なんて……誰も信じないだろう。
まぁそもそも私たちの関係は、愛ではないし。
こんなこと当然、誰にも言えない2人だけの秘密だ。
「本條さん……本当に辞めちゃうんですか?」
昼休みにそう声をかけてきたのはやっぱり明石くんだった。
「ごめんね。辞めないって言ったのに……
実はちょっと事情が変わってね……」
私はキョロキョロと視線を周囲に走らせたあと、コソッと明石くんに耳打ちした。
「えぇっ?!転しょっ」
「シーっ!!」
明石くんは慌てて口を塞いだ。
「誰にも知られたくないの……同じ業界に転職するってなんだか角が立つでしょう?」
「ま、まぁこれからはライバルってことですからね……本條さんがライバルだったら、うちは太刀打ちできなくなるんじゃないですかね」
「買い被りすぎだよ明石くん。」
彼はいつだってそうだ。
私のことを、やたら凄い人だと捉えすぎているところがある。
「いえ、本当にそうですよ。実際今までだってほとんど影の本條さんの成果だったじゃないですか」
「そ、そんなことは…。でも、ありがとうね。実は私、旦那さんの叔父様がやっているメディア会社に入るんだ。そこを勧められて…」
「なるほどそうなんですか!それは安心ですね。きっと今よりも本條さんが生き生きと仕事できますよ。そう祈ってます。」
「明石くん……ありがとう……」
本当にいい子だなぁ。
こうして一緒にお昼を食べることも、もう無くなるのかと思うと寂しい。
「それにしても驚きました。実業家でお金持ちなうえにルックスもあんなに……いやぁ、いるんですね、完璧な人間って。」
どうやら昇さんのことを言っているらしい。
完璧人間……確かにそうだと思う。私も驚いている。けれど……
「まだあまりよく知らないけど、彼もきっと何かあるはずなんだよ、欠点とか弱みとか……この世に完璧な人間なんていないから。」
「……?え、まだよく知らないってどういうことですか?」
しまった!と私は慌てて誤魔化しを入れる。
「あっ、えと……ほらなんていうか、人ってそういう部分は隠そうとするものでしょう?」
「?……夫婦でもですか?」
「う、うん!夫婦だからこそだよ!」
「……へぇ……そういうもんなんですかぁ」
明石くんは不思議そうな顔をしながらお弁当を食べている。
とても美味しそうなものばかりが綺麗に並んでいて、まるで恋人が作ったかのようなそれだ。
傍から見たら絶対にそう映るに違いない。
「そういえば明石くんって自分でお弁当作ってるんだよね?偉いって言うか、本当に凄いよね……美味しそうだし。」
「いやまぁ節約と趣味みたいなもんで、わりとテキトーですよ?逆に最近の本條さんはお弁当なんですね?前まではいつも買っていたのに」
「あ、実は旦那さんが作ってくれるんだ。朝早い日以外は。朝ごはんも…」
「えぇ?!料理もできる方なんですか?!」
「実は料理上手な人で……。私が料理苦手だって言ったら、率先して夕飯も朝食も作ってくれるんだ」
「うわ、じゃあもう本当のパーフェクト人間じゃないですか!」
なんだか女の私が料理をしていなくて、されている側だってことが少々恥ずかしくなってきてしまった。
最近気付いたけれど、私は結構女子力が低いらしい。
「はぁ〜……ほんっと、本條さんの旦那さんには歯が立たないですね」
「確かに私も、時々怖くなるよ……」
完璧な人間なんていないとは言ったが、昇さんの欠点って本当になんなのだろうか……
どんなに考えても思い浮かばないし、想像もできない。
けれど何か隠しているはずだ。絶対に。
「なんだか落ち込むのを通り越して、不思議な気分になってきました……」
「え?」
「本條さんを持っていかれてしまったことにずっと落ち込んでいたし、同じ職場でもう会えなくなることもとても悲しいです……さらにはそこまで完璧な人だなんて、もう誰も出る幕ないじゃないですか。そう考えたら、開き直ってきちゃいました」
そ、そんなふうに考えてたの?
「だから僕も頑張ります。いつの日か、本條さんの旦那さんを超えるくらいの男になってみせますよ。だから……」
私は、明石くんの真剣な目が赤く潤んでいるのに気付き、ハッとした。
「だから……その時は、褒めてくださいね」
「明石くん……っ」
そんな泣き笑いの表情されたら……
私だって……っ……
「うわ〜ぁん!明石くーーーん!」
「えぇっ?!ちょっとちょっと本條さんっ?!」
次はいつ会えるかわからない明石くんに抱きついて、私は泣いてしまった。
多分私は、新しい環境への不安と、近頃の慌ただしい生活の変化に常に張り詰めすぎていたのだろう。
ただひたすら頑張れ頑張れと自分に言い聞かせて。
それが今、一気に解き放たれたような感覚だった。
明石くんはずっと、私の背中を撫でてくれていた。