あれから1週間経った。
実はあの日あの後の記憶が曖昧だ。
まだ酔いが覚めていなかったからか、そのまま寝てしまったようで、気がついたら朝だった。
昇さんはいなかった。
代わりにメモが置いてあり、ホテル代は払ってあるから好きなだけいていいということと、連絡先のメールアドレスが書かれていた。
薄らぼんやりした記憶を脳裏で反芻する。
あれって……夢じゃなかったんだ。
加賀見昇……メモの最後に記してある達筆なその字に指を滑らせる。
助けてくれたことも介抱してくれたことも覚えているけれど、正直言ってあまり顔が思い出せない。
背が高くて男前だなぁとか思った記憶はあるけれど……。
ただハッキリと思い出せるのは、まるで深淵を覗くような、吸い込まれそうな感じの玲瓏な瞳を持っていたこと。
こちらがゾクリと鳥肌が立つような視線をまっすぐ突き刺してくるような不思議で独特な雰囲気の持ち主だった。
ルームサービスの豪華な朝食まで運ばれてきて、なんて用意が良いんだろうと驚いた。
前夜にあんなに嘔吐したせいか、お腹がグゥと音を立てていた。
最上階の朝の景色は、まるで全てを手に入れたと錯覚させるほど異観だった。
こんなところでこんな朝食を一人で優雅に食べているなんて……
「なんて贅沢っ……!」
と、私はニヤニヤしてしまった。
ラッキーは思う存分楽しむタイプだ。
「それにしても……昨夜のはさすがに冗談だよね?一応お礼のメールはしとくけど。」
このときはまだ、ものすごく軽く考えていた。
だからお礼のメールだけで済ませたつもりが、「週末に会いましょう」と返信が来て、約束の日時の今日に至るわけだ。
しかも律儀にタクシーで迎えまで寄こしてきたため、断らざるを得なかった。
到着したのは、前回のホテルとはまた別の有名ホテルだった。
そんなに詳しくは無いが、星がいくつか付いているはずの。
ホテル名は事前に言われていたため、場違いにならないよう精一杯のオシャレを心掛けてきたのだが、やはり慣れていないのでなんだか緊張してしまう。
「本條様ですね。オーナーから承っております。こちらへどうぞ。」
えっ、オーナーなの?!
と心の中でツッコミを入れ、スタッフの後ろを緊張した面持ちでついて行く。
とても静かで落ち着いた、大人の雰囲気のバー。
20階の全面ガラスウォールから見える夜景をチラチラ見ながら、案内される個室に入った。
「すごい…こういう所の個室初めて」
目の前のメニューを広げて目を丸くする。
えっ?値段書いてないのっ?!
こういう高級ホテルのバーやレストランは初めてではないから突飛な値段はだいたい知っているつもりなのだが……
値段が書かれていないパターンなんて初めてだ。
高級そうな黒革のドリンクメニューもフードメニューも、上品な字体でサラッと名前が表記されているだけで、値段は一切書かれていない。
しかしまぁ……どうせ私が払うわけではないのだろうし……
そう思いながらひとまず珍しそうなカクテルを注文しようとしたときだ。
「すみません!お待たせしました!」
慌てたような表情で、高身長な男前は姿を現した。
上品なスーツに眼鏡、小綺麗に整えた黒髪、整った顔立ちにどう見てもモテそうな雰囲気……
そうだ、こういう容姿だった……と、一気に記憶が蘇る。
「っあ……こ、こんばんは……」
私は立ち上がり、頭を下げた。
「先日は本当に……迷惑おかけしてすみませんでした。ホテルのことも…それから朝食まで……」
「いえ。私が勝手にしたことですし。とにかく座ってください。」
冷静沈着な態度で本当になんとも思っていないふうに言われ、私は少し肩の力を抜いた。
うろ覚えだけど、先日のホテルでは説教された気がしたし、そもそも思い返しただけでもかなり恥ずかしい迷惑をかけたと自覚していた。
「お好きなものを注文してください。お腹は空いていますか?」
「えっと……まぁ……はい……」
「お嫌いなものは?」
「……辛いもの以外はわりとなんでもいけます…」
完全に初めましての会話だ。
まぁほぼ初めましてなのだが。
そもそも何者なのか全然わかっていない。
だからこそ、前回の決め事はどう考えてもおかしい。揶揄われたのかなとも思っていたが、いざ本人をシラフで目の前にすると、とてもじゃないがそういう悪ふざけをするタイプには見えない。
「……。」
ちゃんと、確認しておかなくては。
後々意味のわからないトラブルになるのも御免だ。
オススメを適当に注文してもらい、私は愛想笑いを浮かべて早速本題に入る。
「あの、加賀見さん。前回のお話なんですけど」
「はい」
「……はいって……えっと、冗談ですよね勿論。」
「……はい?」
意味がわからないと言った顔をされ、逆に私がその表情になる。
「結婚のお話ですか?」
「そ、そうですけど…?」
「僕は本気ですよ?」
「え?!」
「本條さんは、親御さんを安心させるために、早く結婚相手を見つけたいと言っていましたよね?そして、自分をちゃんと幸せにしてくれる相手がいいと。」
私は黙って頷いた。
目の前の男の顔は、至って真剣だ。
「本條さんにとっての幸せって、なんですか?」
その言葉に、私は眉を顰める。
幸せ……何度も考えてきた。
それにはいろんな定義があるだろう。
けれど究極言ってしまえばそれは、全人類に共通している一つの真実に行き着いてしまう。
私だけじゃない。人間が幸せを求めるとき、それは……
「自分の思い通りに生きられることです」
細まる加賀見さんの目から視線を逸らさず続ける。
「物やお金だけじゃなく、欲しいものが手に入る人生。そうやって自分の好きに生きられることこそが、幸せの定義です。」
ちょうどその時ノックが聞こえ、オーダーしたシャンパンとフードが運ばれてきた。
スタッフが開けたシャンパンボトルの良い音がし、美しいふたつのグラスにシュワシュワと音を立ててそれが注がれる。
加賀見さんの細長い指が、グラスを持ち上げた。
「では……婚約を記念して、乾杯しましょう」
「?!」
驚いた顔で固まると、彼はもう1つのグラスを私の方へと滑らせた。
「僕ならあなたの欲求を、全て叶えることが出来る」
また、その妖艶な深い色の瞳に吸い込まれそうになる。