年が明けた最初の一日。
朝日が昇ると同時に家族に新年の挨拶を済ませ、早々に家を出た夏生は、半月ぶりに和佳の自宅があるマンションを訪れていた。
「あけましておめでとうございます」
「夏生ちゃん、あけましておめでとう」
寒かっただろう? と朗らかな笑みで出迎えてくれた和佳の父は、懐からポチ袋を取り出してさも当たり前のように手渡してきた。
「そ、そんな! 貰えませんよ!」
しかもなんか厚みがある!
家で渡されたポチ袋はこんなに膨らんでなかった。
いくら入っているのか恐ろしくて、手にできない。
顔を青くして怯える夏生とニコニコした和佳の父が、玄関で攻防を繰り返していると和佳の母がリビングからやって来た。そうして父親の肩を叩くと、夏生に向かって申し訳なさそうに笑った。
「今まで和佳だけだったから、誰かにあげたくてしょうがないのよ。受け取ってあげて? 一応常識の範囲内で済ませるように言っておいたから」
本当にこれは常識の範囲だろうか。
不安に思いながらも、そういうことなら……と、「ありがとうございます」と両手で受け取った。そうしているうちに和佳が部屋から出てきて、夏生に気づくとパタパタと駆け寄ってきた。
「お父さん、お母さんひどい。夏生ちゃんが来たら教えてって言ったのに」
「ああ、ごめんよ、和佳」
「今呼ぶつもりだったのよ」
しょんぼり眉を下げた両親の姿と可愛らしく怒る和佳の姿に、夏生の胸が温かくなる。
「和佳さん、夏生さん、そろそろ出発された方がよろしいかと」
見守っていた佐々山の呼びかけで腕時計を見ると、確かに予定していた時間を少し過ぎたところだ。
「やば、電車の時間!」
「あ、あっ、今バッグ持ってくる!」
駆け足で部屋に戻った和佳は、すぐにショルダーバッグを持って戻ってきた。
外に出る前に一度、二人は見送る大人たちを振り返った。
「行ってきます」
揃った声に、大人三人も「行ってらっしゃい」と心配そうに、けれど微笑ましさも兼ね備えた笑みで返した。和佳の母は最後までハラハラしていたが、それを口に出すことはなかった。
ダウンジャケットにパンツ、ショートブーツ。全て黒で揃えた夏生と裏腹に、白いダッフルコートにローズピンクのミモレスカートと、和佳はふわふわとした可愛らしいスタイルだ。
対照的な格好の二人が電車に乗って向かうのは、都内にある神社だ。
今日は一月一日――夏生たちは初詣に向かっていた。
学校行事でもなんでもない、二人で約束して出かける初めての日だ。
あまり大きいところに行っても、和佳が人慣れしていないので大変だろうと、有名どころの神社は避けたのだが、それでもやはり人は多い。
駅から近いところなので、多分この人の波は同じように神社にいくひとたちなのだろうな、と電車から降りた夏生は思った。
はぐれないように手をつないで並んで歩いてると、鳥居が見えてきたのだが、その鳥居の外まで参拝者の列が伸びていた。
「わ~やっぱ元旦は混んでるね」
「すごい……こんなに来てるのね」
鳥居から拝殿までは途中で階段を挟み、優に百メートルは超えている。
長くなりそうだな、と夏生は和佳の体調が気にかかった。
「和佳さん大丈夫? 人酔いしてない?」
列の最後尾に並んで顔色を窺うと、寒さで鼻の頭を赤くした和佳が「大丈夫よ」と控えめに笑う。
「そっか。ならよかった」
それでもやっぱり気になってしまって、「手袋して」「カイロで温めて」「マフラーの隙間作ってない?」とあれこれ世話を焼いていると、ついに和佳がふきだすように笑ってクスクスと体を震わせる。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「でも、あんまり長時間外にいたことないでしょ? やっぱ初めてが初詣は気が急いてたかな……」
しかもこの寒空の下だ。陽が出ているので多少は温かいが、境内は樹木で覆われていて、影も多い。陽差しから隠れるだけでふるりと体が震えるほど体感が違う。
(それに、私が結構寒さに強いから余計に心配なんだよね……)
自分の感覚が当てにならないから、その分和佳の様子を気にかけるしかない。こうして一緒に来られたのは嬉しいが、しんどい思いをして欲しいわけではないし、楽しい思い出として覚えていて欲しい。
そうこう話しているうちに少しずつ列は進んでいく。階段を上り、社殿を囲っていた玉垣を越えると、スムーズな参拝のためか、ロープで列が作られていた。
和佳と夏生は隣り合う列を進み、あと数人というところで、和佳が体を寄せて囁く。
「終わったら、屋台行きましょうね?」
鳥居を出た直線の通りには、さまざまな屋台が並んでいた。もちろん寄るつもりだったけれど、まさか和佳のほうから言ってくるとは思わず、夏生は驚いたがすぐに笑って頷いた。
滅多にこういう場に来ないので、参拝の作法に不安があったが親切なことに立て札が添えられていた。
内心でほっとしつつ、夏生は賽銭を投げ入れてから頭を下げ、パンパンと手を叩く。
そっと目を閉じてから、そういえばお祈りってなにを言えばいいんだろうと考えた。
どうしようと刹那の混乱の中、ぽつりと浮かぶ一つの願い。
(神さま、お願いします……)
どうかこの人と一緒に……一日でも長く一緒にいさせてください。
未だに長く伸びる列を横目に、夏生たちはお守りを購入してから神社を後にした。
目をきらきらさせて夏生の手を引き屋台を回る和佳を微笑ましく思いながら、我ながら矛盾したことを神さまにお願いしたものだと夏生は思った。
外に連れだしたのは自分なのに、それなのに長生きして欲しいだなんて。あまりに都合が良すぎる気がした。
そっと心に影が落ちた。
「朝のお雑煮、少なめにしてもらったの」と笑う和佳に、嬉しいのに心の奥でぽつりと声が聞こえた。
――これは自分のエゴじゃないのか?
ときどき、自分の理性の深淵がそう囁くのだ。
和佳と一緒にいたいがために、この人の命をむやみに散らしているのではないかと。
自分のしたことが正しかったのか、迷ってしまうときがある。
「夏生ちゃんはなにが食べたい?」
和佳に訊かれ、夏生はハッと我に返った。ごった返す人波で、和佳がわくわくを詰め込んだような綺麗な澄んだ目で夏生を見ていた。
「私は……たこ焼きかな?」
ちょうど目についたものを言えば、「たこ焼き! いいわね!」と和佳は繋いだ手を引いてたこ焼きの列に並んだ。
ソースと鰹節のいい香りが鼻腔をくすぐり、腹がきゅうと切なく鳴った。
「やばいお腹空いた……」
「ふふ、今かわいい音がした」
腹をさすって言うと、和佳にまで聞こえていたらしい。さすがに恥ずかしい。
たこ焼きを一つ頼むと、すぐに湯気の立ったたこ焼きのパックを渡された。たこ焼きの大きさのせいか、蓋が閉まりきっていなくて輪ゴムで止めてある。
蓋の隙間には、割り箸が二本刺さっていた。
屋台の並びから少し外れた隅のほうで、白い息を吐きながら二人で熱々のたこ焼きを頬張った。
はふはふと熱気を飛ばして食べていると、ポケットに入れたスマホがピコンと軽快な音を立てる。
ちょうど食べ終えたたこ焼きのパックを近くのゴミ箱に入れ、画面を開く。すると、涼音から続けざまにメッセージが入っていた。
『明けましておめでとう』
『一応、挨拶ぐらいはしておくわ』
そんな素っ気ないことを言うくせに、可愛らしい犬が「おめでとう!」とはしゃぐスタンプを送ってくるのは一体どういう心境なのだろう。
同じように挨拶を返し、それだけじゃ面白くないよなと夏生もなにかスタンプを返そうとしてはたと思いつく。
「和佳さん、こっち寄って」
「え?」
「写真とろ? 絶対涼音さん悔しがるから」
そっと身を屈めて和佳の肩を寄せる。その時にちらりと見えた和佳の画面には、涼音から同じように新年の挨拶が送られてきていたのだが、
『先輩、明けましておめでとうございます!』
『今年もよろしくお願いします!』
と、きゅるんとした顔の犬のスタンプが送られていて、内心で(このぶりっ子め……!)と悪態をついた。
「ほら笑って? いくよ?」
顔を寄せ合ってシャッターをきる。撮れた写真を確認するが、自撮りなんて慣れていないので夏生のほうは少しぶれてしまった。けれど、和佳は綺麗に映っていたのでこれでいいだろう。
「私たちは、初詣に来てます……と」
そして今撮った写真を一緒に送ると、すぐに既読がついたもののメッセージは一向に返ってこない。
「ふふ、絶対悔しがってる」
勝ち誇った顔で笑い、夏生は画面を閉じた。どうせ落ち着いた頃にメッセージを連打されると思うので、通知は切っておいた。
「和佳さん、帰りにどこか寄っていく?」
それとも家に帰ってみんなでゆっくりしようか?
とりあえず駅までの道を歩きながら訊ねると、ふいに和佳が足を止めた。手は繋いだままなので、夏生も必然的に一緒に立ち止まる。
「夏生ちゃん」
「うん?」
「連れてきてくれてありがとう」
マフラーから顔を出し、寒さで鼻と頬を真っ赤に染めた和佳が言った。泣きそうな困り眉で、堪えたように力の入った目元。
喜びと感動と。そしてありったけの感謝のこもった表情。
ふと眼の前に現れた幸福な夢を必死にたぐり寄せるように握られた手の強さに、夏生の心が震えた。さっきまで感じていた不安や悩みといった胸のわだかまりがみるみる消えていく。
(……ああ、一緒に来られて良かった)
夏生がどれだけ迷っても、他でもない和佳自身が肯定してくれる。
そう思うと、夏生はなんだかたまらない気持ちになった。
内からでる大きな感情を抑えるように息を詰めた和佳が、唇を柔く噛みしめた。すると、はらりと花弁が一枚ほどけた。
それを眼にした夏生の胸に、もったいないと思うような、惜しむような衝動がふと湧いた。
和佳がこんな顔をしているのは、夏生のせいで――それなら、今欠けた花びらだって自分のものでないとおかしい。なぜだか当たり前のようにそんなことを思ったのだ。
我知らず、体を丸めて和佳に顔を寄せる。
和佳の唇に食まれた花びらが落ちる前にそっと舌で掬い上げ、自分の口の中に招く。そのまま撫でるように唇を触れ合わせた。
吸い付くようにしっとりと触れた二人の唇がゆっくりと離れると、白い息が混ざりあった。
睫毛が絡みそうな距離で、琥珀色の瞳がしばたたく。そのきらめきに見つめられて、ハッと我に返った。
「あっ。ごめん……つい」
「ふ、ふふ……ついってなあに? もう……」
自分でも驚いている夏生の様子に、和佳は吹き出すように笑った。鈴を転がすような澄んだ笑い声が小さく響く。背後では屋台の店員や参拝者たちの賑々しい騒ぎが聞こえるが、なんだかとても遠く感じる。
自分の全身の神経が、眼の前の和佳にだけ集中してるように彼女しか眼に入らなかった。
彼女の笑った吐息が、かすかに夏生の唇を撫でる。
なんだかそれがたまらなく胸をいっぱいにさせて、じんと切なく温かい感情が体にしみわたった。
――どこまでも走って行けそうね。
ふと夏生は、出会った春の日のような麗らかな声を思い出した。
和佳の笑顔を見ろして、夏生はあの時言ってくれた言葉に返すように思った。
(行くよ。どこまでだって走って行くよ)
あなたを連れて、どこまでだって行く。
そう胸に誓い、夏生はまだ笑いの覚めやらぬ和佳の腕を引いて歩き出した。