昼休みが終わり、午後の第一種目は部活対抗リレーだ。運動部と文化部の二部制に分かれていて、それぞれ部活で使用するラケットやユニホームなどをまとって走る。
なんの部活にも所属していない夏生と朝川は、またもクラステントの中から岩瀬の活躍を見送る形となっていた。
「演劇部ってなに持って走るんだろ」
「たしか、バトンは通常のもので、衣装の一部……帽子などをかぶって走ると言ってた気がしますわ」
「なるほどね~」
そんな緩い会話を続けていると、運動部が終わってつづいて文化部生たちが位置に着く。
(あ、下田さんだ)
演劇部はどうやら下田が第一走者らしい。和佳とともに文化祭の二日目に観劇したものだが、男女のラブロマンスで、下田はその男役を担っていた。
劇中ではほとんどが軍服姿だったが、そのときに肩にかけていた真っ赤なペリースを今も羽織っている。
体操服でも様になっているのだから、すごいな、と素直に感嘆した。
そうして反対にヒロイン役を務めていた岩瀬は、劇中でもまとっていた腰丈のベールを頭にすっぽりとかぶっている。折り返しのないタイプのマリアベールは、シンプルながら縁にレースがあしらわれていて、舞台上では照明を受けてきらきら輝いていたものだ。
主役二人の結婚式の場面には、隣の和佳がうっとりと息をついていたのでよく覚えている。
他には筆をもった美術部などがいたりと、ぼんやり眺めているうちにレースが始まった。先頭を行くのは下田だ。
夏生と変わらない長身をいかし、ぐんぐん進んでいき、二位以下に随分と距離を空けて次に渡った。
その後も、一人転んだ生徒がいたものの大きく順位が変動するようなことはなく部活対抗リレーは幕を閉じた。
体育祭は午後の方が種目数が少なく、夏生が出場するのは全員参加の大縄跳びぐらいしかない。しかも最後の種目なので、それまではのんびり観戦か、と思っていたところ、慌てた様子の朝川が夏生めがけて駆け寄ってきた。
「夏生さん、次の借り物競走出ていただけませんか?」
「え、私が?」
どこから走ってきたのか、朝川はずいぶん息を乱しながらこくこくとしきりに頷いた。
「元々の出場予定だった生徒が、さきほどの部活対抗リレーで転んで怪我をしてしまって……」
「あ~なるほど……代打でってこと?」
「ええ。急で申し訳ないのですが……私はその時間本部の方で仕事がありまして……」
手を合わせ、朝川は心底すまなさそうに夏生に頭を下げた。それに慌てたのは夏生だ。
「いいよ、いいよ。借り物競走ね。オッケー走るよ」
別にリレーや徒競走と違って、そこまで足の速さが決め手になる種目でもない。リレーよりは気楽に参加出来るだろうと、夏生は軽い調子で返事をした。
「ありがとうございます! 急で申し訳ありませんが、そろそろ集合のアナウンスがかかると思いますのでよろしくお願いします」
「おっけー。朝川さんも委員会の仕事頑張ってね」
ぺこぺこと頭を下げて去って行く朝川を見送っていると、ちょうど良く借り物競走の集合アナウンスがかかった。
借り物競走は三学年合同で、各クラス二人ずつ選出されているらしい。六人ずつスタートし、夏生は真ん中の第三走者だった。
五十メートルの半分ほどだろうか……スタート位置から離れたところに机が並んでいて、そこに裏返しになった紙が置かれている。その紙にお題が書かれているらしく、生徒は各々散らばってお題を探しにいくのだ。
人が対象のときもあれば、物が対象のときもある。
スタートの号令とともに駆け出した夏生は一番に机に行き着き、すばやく紙をめくった。
手のひらサイズの紙の真ん中にはたった二文字――『先輩』。
瞬時に頭に浮かんだのは和佳だったが、制服で、ましてやこんな陽の下を走らせるのはダメだろうと候補から取り払った。そうなると、夏生の狭い交友関係では該当者は限られてくる。
「荒木涼音いますか? 涼音さん!」
二年生のクラステントの前で声を上げて目的の人物を探したが見当たらない。すると、ふわふわと癖のある茶髪を揺らした生徒が手を上げて言う。いつも涼音と一緒にいる人だと、夏生は遅れて気づいた。
「涼ちゃんなら今飲み物を買いに行っちゃってるわ」
「ま、じか……」
タイミングが悪すぎでしょ、荒木涼音……!
涼音とてこんなことなるとは思っていないだろうに、あまりのタイミングの悪さについ悪態をつきたくなってしまった。
(どうしよう……もう先輩の知り合いなんていないし)
部活動に入っていたら他学年との繋がりなど簡単にあっただろうに、今になって交友関係の狭さに頭を抱えたくなった。
(先輩……やっぱり和佳さんに? でも……)
――でも、なんだろう。
はたと夏生は気づく。どうして自分は和佳の選択肢をなくすのだろう。
確かに制服のまま走らせるのも悪いし、こんな陽差しの下に引っ張り出すのも体の負担にはなるだろう。
しかし、そうやって夏生まで和佳を気遣いああやって日陰に追い込んでしまっては他の者と一緒ではないか。前に思い知ったはずだ。弁当を一度やめようとしたときに、改めたはずだ。
自分だけは、心配を盾に和佳の行動を縛らないと。世界を狭くはしないと。
――そんなこと、初めて言われた。
あの時、彼女は嫌な顔をしていたか? 違う、笑っていた。喜んでいた。和佳は、外へと連れ出す夏生の言葉を喜んでいたのだ。
花になって欲しくないと、外の世界の写真を送った。動画を見せた。
けれど、夏生は安全な場所にいる和佳にただ見せるだけでは嫌なのだ。自分の目で見て肌で感じて欲しい。
出来ることなら、隣にいて欲しいと、一緒に外に出たいと思っているじゃないか。
――どこまでも走って行けそうだなって。
温かく羨望を滲ませた瞳を思い出す。
本当はそうしたいのは誰なのか。
「行かなきゃ……」
「あ、小川さん、涼ちゃん帰ってきたよ」
目の前の先輩は手招きして涼音を呼んだ。
「は? なにあなた私のこと探してたの? 借り物競走のお題?」
走るんならさっさとしなさいよ、といつもどおりの不機嫌顔に相変わらずだなと思ったが、夏生はこの人を連れて行く訳にはいかなくなった。
「ごめん、涼音さん」
「え? あ、ちょっと? ……なんで私が振られたみたいになってんのよ!」
戸惑いから怒りに変化した声が背後で上がったが、夏生はもう一度「ごめーん」と振り向かずに言った。目指す先は一つ。
途中、部活対抗リレーを終えて衣装を戻しにいく岩瀬を呼び止め、その手の中のベールを浚う。
「ごめん、岩瀬さん一瞬だけ貸して!」
「え? 夏生ちゃん!?」
走った勢いを弱めもせず、トラック沿いに引かれていたロープを飛び越えた。観戦していた生徒たちが一斉に左右に散って道を開ける。
和佳は、テントの下で依岡と一緒に暢気にお茶を飲んでいた。
依岡がまず夏生に気づき、おや? と首を傾げる。そんな依岡の反応に和佳も振り向き、夏生を見上げて目を見開いた。
「な、夏生ちゃん? どうしたの? あれ、午後ってなにか出るんだっけ?」
応援してなかった、なんて真っ青な顔で言って慌ててる。
「和佳さん、私に借りられてくれる?」
「え……あ、借り物競走?」
こくりと頷くと、和佳は「いいよ」と笑う。
「怖い顔してるから、見てなくて怒っちゃったのかなって思った」
「そんなことで怒んないよ……」
ちょっと拗ねるかも知れないけど。とは、思っても言わなかった。
「和佳さん、これかぶって」
「これって、ベール?」
岩瀬から強奪してきたマリアベールを、和佳の頭からすっぽりと被せる。和佳がそのベールを上目遣いに気にかけているとき、前触れなくその膝裏をすくって抱え上げた。
「きゃっ! え、え?」
「しっかりつかまってて」
「ちょっと、夏生ちゃ、わっ」
了承を聞く前に夏生は走り出した。依岡は目の前で起こった出来事に「まあ」と目を丸くしていたが、二人の遠ざかる背中にふと微笑んで見せた。
和佳を抱きかかえてトラックに戻ってきた夏生に、実況者が驚いた声を上げ、周囲も気づいた者から歓声とざわめきが広がっていく。
少女たちの悲鳴にも似た歓声を、夏生は歯牙にもかけずただ走った。綺麗だと言ってくれた彼女を抱えて。
風にはためいたベールの裾がひらひら舞って、時々夏生の首元を掠める。ベールと擦れたからか、その白いレースの下からは数枚だけ、花弁が散っていった。
和佳はその琥珀色の瞳を大きく開き、夏生の横顔を見つめていた。
ほっそりとした和佳は確かに軽いけれど、人を一人抱えて走るのだ。当然、いつものようなスピードなんて出せず、結果は最後ではなかったものの下位。
ゴールラインを超えてからゆっくり和佳を下ろして息を整える。そうしているうちに、退場のアナウンスが流れてしまったので、和佳の手を引いて退場門へと向かった。
「ちょ、ちょっと夏生ちゃん! さっきのなにあれ!」
頬を赤くして高揚した様子の岩瀬が駆け寄ってきたので、夏生は罰が悪く顔を歪めた。
「ごめん、勝手に借りて」
「あ、うん、それはびっくりしたけど……って、でもいいもの見せてもらったからオッケー!」
グッと親指を立て、岩瀬はベールを手に去って行く。嵐のような彼女が後ろ姿を見送り、夏生は和佳がひどく静かなことに気づいた。
「の、和佳さん? ごめん、急に抱っこして……制服だし、走ったら汚れるかなって思って……」
それにいつも綺麗だと言ってくれた走りを、一緒に感じて欲しかったのだ。
俯いていた和佳がゆっくりと顔を上げる。
どこか呆然と……そう、夢から目が覚めたばかりのような、そんなぼんやりした表情をしていた。
頬がうっすらと桃色に染まっていて、瞳の琥珀がチカチカと陽を反射するように煌めいている。そのきらめきがだんだんと大きくなっていって、和佳が夏生を認識していく。潤んだ膜をつくったように瞳が大きく光った。
「す、すごかった。風が耳元でなってて……風の音しかしなくて、夏生ちゃんの顔がきらきらして見えて……それしか目に入らなかった……」
小さな唇が、堰を切ったように語り出す。
「すごい。本当にすごかった……」
また瞳が下を向いてしまう。栗色の髪で隠されてしまって表情が見えなくなり、不安になった夏生は腰を曲げて覗き込もうとしたとき――。
「どうしよう! すっごく楽しかった!」
ガバリと勢いよく和佳が顔を上げるものだから、夏生は仰け反るように衝突を避けた。
「ふ、ふふ……どうしよう! もう楽しかった! すっごい楽しかった!」
夏生は息を呑んだ。目の前で子どものように屈託なく笑う和佳に、夏生の記憶が重なる。
――おかあさーん! 見てた!?
耳の奥に、子どもの声が返ってきた。自分の声だ。夏生は直感的に分かった。
小学校に上がってそう経たない頃のことだ。夏生は、幼稚園から一緒だった近所の葵が、運動場でやっている陸上クラブの体験にいくというからついて行ったのだ。
そのとき、初めて陸上のトラックの上を走った。
運動場のトラックは、合成ゴムで出来た茶色のタータントラックで、いつもの地面とは違った。
ぽんぽんと足が弾むような不思議な感覚。それが面白くて何度も駆け回る夏生に、監督がフォームを教えてくれた。
そうすると、さっきよりもうんと速く走れた。
「お母さん! 見てた? 今ね、すごく速かった。なつき、速かった! 風がびゅーってなってて、心臓バクバクしてて、体がね、びゅんて! どこまでも飛んでっちゃいそうだった!」
走り終わった勢いのまま見学していた母の元に駆け寄った夏生は、息の上がった小さい体をいっぱいに動かして興奮を表した。
それを見ていた母は、柔らかく目元を緩めて夏生の汗ばんだ髪を撫でる。
「そっか。そっか。楽しかったんだね」
「うん、すっごく楽しかった! なつき、もっと走りたい!」
記憶の奥で、幼い自分が破顔して言った。なんの憂いもなく、ただそれだけを前面に出すように、楽しいと子どもの表情が、声が、瞳が言っていた。
絡まった記憶の糸がするすると解けていき、その奥の奥にしまい込んで見えなくなっていた記憶が溢れる。
トクトクと、心臓が音を取り戻したような気がした。
(ああ、そうだよ……私、走るのが好きだったんだ……)
あの頃は、隣のレーンなんて気にしたことがなかった。誰かの走りも、声も気にしていなかった。ただ前だけを見て、どこまでも走って行けると本気で思っていた。
足音と自分の呼吸音だけの世界。足の弾むような感覚。肌を撫でる風がそのまま体の中を駆け抜けていって、まるで自分が綺麗なものになったような錯覚を覚える、あの瞬間――。
夏生はいつだって、全身の血管が動く音を聞いていた。バクバクと聞こえる鼓動が、息苦しさを伝える呼吸が、その一瞬を生きていると、楽しいと伝えてくる。
「走ったのなんて初めて! ふふふ、すごく楽しかった! ね、夏生ちゃん……夏生ちゃん?」
品のある黒いボレロとスカートに身を包んだ少女が、子どものように腕を広げ、その興奮を伝えてくる。夏生は、じわじわと体に沁みていく懐かしい感情にたまらなくなってその体を抱きしめた。背中を丸め、縋るように細い肩に目元を押し当てる。
目が痛い。じんと鈍い痛みが広がり、それが滴となって外へと溢れる。
心臓は変わらずトクトクと音を刻んでいて、その鼓動を身にしみて感じながら、夏生はどうして忘れていられたのだろう、と思った。
こんなに好きだったのに、こんなに楽しく思っていたのに。
いつから自分は、見えなくなっていたんだろう。
「……どうしたの、夏生ちゃん」
自分の肩の濡れる感覚に、和佳は夏生が泣いていることを察した。背中に腕を回し、そおっと撫でるように柔らかく問いかける。
「……私、わたし……走るのがすごく楽しかった。好きだったの……」
「うん」
「……速いとか勝てないとか……そんなのどうでもよかったのに……」
そんなことで、走る意味が決まったりはしない。走る意味なんて、「走りたい」と思うだけで良かったのだ。幼い自分が、そうだったように。
他の人の走りも、言葉も、なにも気にしなくてよかったのだ。自分の心が望んでいれば、それだけで――。
「和佳さん……私、走るのがすき……!」
涙でぐっしょり濡れた顔を上げ、夏生が言うと、和佳は愛おしむように微笑みながら頬に張り付いた髪を払って梳かす。
「ずうっと前から知ってたよ」
そんな優しい目でみるものだから、余計に夏生の涙腺は馬鹿になってしまって、また涙がぼろぼろ出てくる。
「走りたい……はしりたいよ……」
嗚咽の合間に、譫言のように呟く夏生の頭を撫で、和佳は子どもを甘やかすような蕩けた声で夏生を宥める。
「夏生ちゃんなら、どこまでも走れるよ。きっと」
――その時は、一緒に走ろうよ。
そう言いたくて、でもしゃくり上げる夏生にはこくこくと泣きながら頷くことしか出来なかった。
泣き止んでから目元は冷やしたが、あれだけ泣いたからかどこか熱をもっているように感じる。鏡で確認もしたが、ほんのり赤く染まっている程度だった。
しかし、母なら気づいてしまうだろうな、と思った。
半分になった夕日を追うように足を進めて帰宅し、夏生は玄関前で深呼吸を一つ。
「ただいま~」
なるべくいつも通りに声を出して靴を履き替えた。廊下にひょこりと母が顔を出して、いつもの調子で「おかえり」と言いかけたが、途中で目を瞠って固まってしまった。
「……体育祭、楽しくなかった?」
まさか転んだの? なんて深刻そうな雰囲気を分散させようと少し揶揄いまじりにいうものの、その目は真剣そのもので――。
夏生が首を振って「楽しかった」と笑うと、母はその笑顔に幼いころの夏生の面影を見て、はっと息を呑んだ。そして、目尻を下げて微苦笑すると
「そっか……楽しかったか」
と感極まった気持ちを堪えるように言ったのだ。
そんな母の様子に、どれだけ心配をかけていたのだろうと、夏生は居たたまれなさを感じ、そしてそれだけ思われていることに嬉しさも感じてしまった。
「着替えてきちゃいなさい。ご飯、もうすぐだから」
「はーい」
階段を上り始めたところで、夏生がふいに足を止める。
「……お母さん」
キッチンに戻ろうとした母が、振り返ったところで「あのさ」と次の言葉を躊躇うように間をあける。
「あー、今日って、葵んちにお裾分けとか……行く?」
互いの家が近所で母同士が仲が良かったため、葵の家に夕飯のおかずなどを時折お裾分けに行くことがあった。
昔であれば、それを運ぶのは夏生や葵の役目だったが、部活をやめたことを機に頼まれることもなくなった。多分、二人の様子から母たちが気を遣ったのだと思う。
しかし、今も母同士での交流が行われていることを、夏生は気づいていた。
数秒経って、ぽかんとしていた母は夏生の思惑を察したのだろう。嬉しそうに笑うと、「ええ、今日は作り過ぎちゃう予定だから。頼むわね」とどこかうきうきした様子で戻っていく。
(そんなに仲直りすんのが嬉しいのかな……)
話をしようとは思っているが、葵が夏生を許してくれるかは分からないのに。もしかしたら、会った直後に帰って欲しいと頼まれるかも知れない。
しかし、そんな心配は杞憂だったようで、夏生が鍋を持って家を出たとき、ちょうど葵の家の前に人影が見えた。ゆらりと、尻尾が揺れている。
塀を背にして寄りかかる葵がいて、そこで母同士が気を利かせたのだと分かった。
すっかり日の暮れた秋空に、星がぽつぽつと浮かんでいる。
白い街灯の光から外れるように立ち、夏生は言葉を探った。
「あ、あの、これ……おかず作り過ぎちゃったから……お裾分け」
鍋を前に出すと、葵は「う、うん」なんてどもった返事とともに受け取った。
「あ、肉じゃが……おばさんの肉じゃが好き……」
「お母さんも喜ぶよ……伝えとく」
「うん……」
ひゅうっと二人の間を冷えた夜の風が吹き抜ける。訪れた沈黙に、夏生は息が詰まった。
いざ話がしたいと思っても、どう切り出したらいいんだろう。
ぐるぐる頭を回して考えても、なんにもいい案が出てこない。そのうち、沈黙に焦れたのか限界だったのか、葵が「それじゃ」と踵を返した。
咄嗟に夏生は口を開く。
「ごめん!」
ピクリと葵の耳が揺れ、足が止まった。
「ひどいこと言ってごめん! ……私、嫉妬してた……副種族ないとダメなんだって思い込んで、葵は悪くないのに勝手に嫉妬して恨んで……」
背中を向ける葵は、どういう顔で聞いているだろう。怖かった。でも、ひどいことを言ったのだ。受け取って貰えなくても、謝罪ぐらいは逃げずに誠実でいたい。
「葵がたくさん練習してたの知ってたくせに、それ全部なかったことにしてひどいこと言ってごめん」
頭を下げ、もう一度「ごめん」と言った。
頭上で、葵が近づいてきたのが分かった。緊張で体が強ばる。視界に葵の靴先が見えた。
「頭、あげてよ……」
怖々と上げると、顔を歪めた葵がいて、ああと夏生の胸に罪悪感がひしめき、痛みを感じた。許してもらえると思っていた訳じゃない。
でも、こうも目の前でどれだけ傷つけたのか目の当たりにすると、やはり後悔で胸が一杯になって苦しい。
「……謝らなきゃいけないのは私のほう……」
「え?」
つい間抜けな音が喉から漏れた。
(どういうこと……?)
なんで葵から謝罪をもらわねばならないのだろうか。
「私、どこかで夏生のこと下に見てた。絶対私のほうが速いって……でも、本当はそう思わないといけないぐらい、夏生に嫉妬してたの……」
「な、なんで……?」
どうして葵が夏生に嫉妬したりするのか。純粋な疑問と、溌剌とした幼なじみからもたらされた発言のショックが混ざって、ただ短く問うことしか出来なかった。
「私には、最初から走ることしかなかったの。でも、夏生は違うでしょ? なんでも選べて、その中から陸上を選んで……自分が好きだからって楽しそうに走ってる夏生を見て、どうしようもなく羨ましかったの。私は絶対、そんなふうにはなれないから」
副種族の特性によって部活動や職業を決めたり、というのはすでに当たり前の常識となっている。
葵のように動物の副種族をもつ者は幼少期からスポーツクラブに通うものだし、反対に魚の副種族の者は泳ぎが得意なことが多く、水泳をやっているものが多い。
鮮やかな花を携えた者は、子役など小さい頃から芸能界に入ることもある。
そうやって、副種族がなにであるかによって、その子の習い事や将来の方向性というものはある程度レールが引かれるものだ。
「だから、夏生に勝てると安心してた。いくら夏生が頑張ったって私に勝てることはないんだからって……そうしないと、羨ましくって仕方なかったの……私は勉強も出来ないし、他の運動は下手だし、本当に走ることしか出来ないんだもん……!」
街灯の真っ白な照明の下で、葵の青白い顔が浮かぶ。苦しむように眉間に寄った皺が深くなって、口元は自嘲するような笑みを象っていた。
「本当は、知ってたよ。中学に入った頃から夏生が私とのタイムとか気にしてたの。それでも私は、ずっと大会でメダル取ったら一緒に写真撮って、それでどこか心が満たされてたの……だから、夏生に生まれつき持ってるからだって言われて……図星だったから、なんにも言えなくなっちゃった……だって本当だもん。私はなんにも努力したわけじゃなくて……走るのに向いてる体を最初からもらったの」
乾いた笑いの後に、葵は俯いてしまった。三角の耳が、同じようにぺたりとうなだれた。
「罰が当たったんだって思ってたよ。今までずっと自分の気持ちを保つために心の中で馬鹿にしてたから、とうとう自分がそういうふうに言われる番だって……だから最初から怒ってないの。むしろ、謝んなきゃいけないのは私……ごめんなさい……」
「あおい……」
衝撃に頭が固まってしまう。ショックだった。まさか、ずっと一緒だった幼なじみに見下されていたなんて知って、なにも思わない方がおかしい。
ただ、怒りは微塵もなかった。
どこか安堵と親近感を覚えたと言ってもいい。
(なんだ、葵もそうなんだね)
この世界はないものねだりなのだ。欲しいものを全て持ち得る人間なんて存在しなくて、みんな誰かを羨んで生きてる。
その感情に、副種族も無種族も関係ない。そう思うと、自分も葵たちとなんら変わらない一人の人間なのだと思えた。
「……私ら、似たもの同士だったってことだね」
へらりと、不器用な笑みを浮かべれば、葵の固まった体から力が抜けて強ばった頬が溶ける。
「そうみたいだね」
目が合って、どちらからともなく泣きそうに笑って、そうして秋の夜空の下で小さく笑い合った二人は、最終的にすっきりした顔で各々の家に帰った。
中に入ると、廊下で落ち着きなくそわそわしていた母が待っていて、帰ってきた夏生が「ただいま」と笑うと、ほっと安心したみたいに母も笑った。