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第26話

 週末の土日が文化祭で翌日が体育祭となると、今週は一週間ぶっ通しで登校してるんだな。

 と、開会式の校長挨拶を聞き流しながら夏生はぼんやり空を眺めて思った。

 真っ青な空に橋をかけるように、三角旗が伸びていた。

 生徒はそれぞれ組み分けされた色のハチマキを巻いて、綺麗に整列して式が終わるのを今か今かと待っている。

 背の順でクラスの一番後ろに並んだ夏生は、そろりと目だけでグラウンドの外周を見渡し、一つのテントに目をとめた。

(あ、和佳さん……)

 医療用テントの下、白衣を着た依岡の隣で制服姿のまま日陰に立つ和佳を見つける。

 和佳は律儀に校長の姿を目で追っていたが、夏生がじっと視線を向けていると、ふいにこちらを見た。まさか目が合うとは思っていなかったのか、丸い大きな瞳がパチリと瞬くのがここからでもよく分かった。

 すると、きょろきょろと左右を確認した和佳は、揃えていた両手のうちの片方をひらひらと小さく振って見せた。

 今度は夏生が目をしばたたく番だ。

 まさかそんなふうに返されるとは思ってもみなくて、つい口元が緩みそうになるのをぐっと堪えた。

 そうしているうちに、長い校長の話も終わりを迎えており、ようやく体育祭が幕を開けたのだ。

 夏生の出場する一年生のリレー競技は午前の最終種目なので、それまではじっとクラステントの下で応援だ。

 午前の中盤には全員出場の応援合戦があったけれど、声を出すだけなのでどこか消化不良気味だ。

 今はテント下のレジャーシートに腰掛け、隣にいる朝川とともに飴食い競争を観戦していた。

「みなさんお顔が真っ白ですわね」

「まあ粉に顔を突っ伏すからしょうがないね」

 片栗粉の中から飴を探すので、参加した生徒たちは一様に顔を白い粉まみれにさせていた。

 多分、粉の被害が少ない生徒は早々に飴玉が見つかった生徒なんだろう。

 走者が全員ゴールし終え、生徒の退場とともに体育祭の実行委員が道具を片していく。まっさらになったグラウンドに、今度は赤いコーンが目印のように等間隔に置かれていった。

「大玉転がしは去年やりましたが、思っていた方向に転がらないので大変でしたわ」

「あー……私も中学のときやったけど力一杯押しすぎて曲がれなくて観客席に突っ込んだっけ……」

 思い出してつい苦笑が浮かぶ。

「ただいま~! 私の活躍みてた? いえーい、一番!」

 Vサインとともに、岩瀬が駆け足で戻ってきた。彼女の鼻先と頬の一部に白い粉がついている。彼女はからんころんと飴玉を転がしながら、屈託なく笑っていた。

「お疲れさま。ちゃんと見てたよ」

「速かったですわね~」

 二人が褒めると、へへと少し照れくさく笑って岩瀬はレジャーシートに転がるようにして座った。そうして自身のリュックからタオルを出して顔を拭う。

 ――一年生、六百メートルリレーの選手は……入場門に集合してください……

 放送のアナウンスに、「あっ私だ」と夏生は立ち上がってハチマキを巻き直した。

「頑張ってね! 目指せ一等賞!」

「応援してますわ」

 力こぶをつくる岩瀬と、ひらひらと手を振って見送る朝川に頷き、夏生は入場門へと向かった。

 入場門には、すでにクラスごとに生徒が並んでいて、夏生も慌てて列に加わる。

(やっぱ多いな……動物の副種族持ち)

 動物の副種族は、多くは身体的特徴として獣耳や尻尾が現れる。そして、その皮膚の下の筋力も左右されるものだ。

 葵のように、猫のような三角耳がついた生徒もいれば、うさぎのようにピンと張った長い耳の生徒もいる。

 走行順は動物の副種族持ちとそうでない生徒が交互になるよう組まれていて、夏生は五番目――アンカーの一つ前だった。

 前の種目が終わり生徒がはけると、リレーの入場アナウンスが流れる。

 放送に合わせ、夏生たちはグラウンドに入り、それぞれスタート位置に並んで待機した。

 ――パンッ!

 雷管の音とともに先頭の走者たち――各クラスごとに一名ずつ――計七名が駆け出した。ワッと声援も聞こえだし、実況者が告げるトップは夏生たちのクラスでない。

(前から三番目……)

 それも、真ん中である四番目の生徒とほぼ並んでいる。前二人とはそこまで距離はついていなかったが、二走者目にバトンが渡ると一気に離された。

「はっや……」

 思わず漏れてしまうほど、副種族を兼ね備えた生徒たちは速い。クラスメイトはトップ二人と離され、一人に追い抜かれたもののきっと夏生よりも速いタイムだろう。

 じりっと胸が焦げ付くような痛みを覚えた。

 そこから順位に大きな変動はなく、トップ二クラスが圧倒的で、そこから少し距離を置いて三番目、あとの四から七番目までのクラスはさほど距離はなく、団子状態で順位は行ったり来たりしている。

 第四走者にバトンが渡ったとき、夏生たちのクラスは前から五番目だった。

 バトンが手渡された瞬間、見覚えのあるクラスメイトは勢いよく加速した。誘導の教師が慌てて夏生をレーンに出るように呼びつける。

(ほんと速いなあ……私じゃ絶対追いつけない……)

 そう。夏生では絶対に追いつけない次元を、彼女たちは走っている。百メートルなんて距離は瞬きの間に駆け抜けてしまって、もう夏生の目の前まで来ている。

 そろりと足を動かした。彼女がバトンを持った手を伸ばし、夏生の手におさまる。

「いいなあ……」

 バトンを持つ瞬間、自然とその言葉はこぼれていた。夏生は下手くそな笑いを浮かつつ、顔をしかめた。妬心や恨みがごちゃ混ぜになった歪な笑み。でも、どこかさっぱりとした羨望を滲ませたもの。

 けれどそれも一瞬のことで、顔を引き締めて走り出した。

 すぐに団子状態から抜け出して四番目に躍り出たものの、前三人は随分遠い。だが――。

(同じスタートだったら、私が勝ってたな……)

 そう思ってしまうのは、自惚れでもなく紛れもない事実だ。しかし、すでに距離を置かれている状況では厳しい。

 必死に走り出したものだが、夏生はどこか諦めていた。とりあえず、抜かれなければいいかな、なんて甘っちょろいことを思っていた。でも……。

「夏生ちゃん! 頑張れ!」

 コーナーに差し掛かったときのことだ。やけにはっきりと自分の名を呼ぶ声が届いた。走りつつチラリと目を向けると、制服姿の和佳がテントから飛び出てトラックギリギリまでやって来ている。

 まるで自分が走ってるみたいに緊張した顔――かと思えば、キラキラした琥珀の瞳で感動したように夏生の走る姿に見入っている。

「ははっ」

 気づけば笑っている自分がいた。そのおかげか体から力が抜けて、スピードがあがる。さっきよりも足が速く動く。

 ぐんぐんと距離を詰めて前の走者の背後をとると、会場からざわめきがあがり、実況者の声にも熱が入った。

 しかし、夏生には周囲の騒ぎなんて微塵も聞こえていなかった。風を切る音に混じって自分の呼吸音が聞こえる。たったそれだけが鼓膜に伝う静かな時間だ。体の中の重いものを置き去りにしてきたように体が軽く、ふわりと心が浮くような心地がして、そうして――。

「小川さん! まじやばいね!」

 ハッと夏生は我に返った。世界が音を取り戻したように一斉に耳にざわめきが返ってくる。

 荒く息を吐き、呆然とクラスメイトが駆け出していく姿を見送る。教師にすぐにレーンの内側に入るように言われるがままのろのろと動き、座り込んだところでようやく状況を思い出した。

(そうだ……リレーしてたんだっけ)

 そんな大事なことを忘れていた。無意識のうちにバトンは渡していたようでよかったと安堵する。

(やばいねってなにが?)

 クラスメイトの言葉を思い出して首を傾げていると、同じように走り終わった生徒が、身を乗り出すように話しかけてきた。

「小川さんて短距離選手?」

「あ、あ~中学の頃はね……」

 言い淀む夏生に、他クラスの生徒は息を整えようとため息交じりに長く息を吐く。

「やっぱね~……もうまさか抜かされると思ってなかったから……ビックリしちゃったよ」

(抜かす……?)

 あれ、誰か抜かしたっけ? 走るのに夢中で、よく覚えていない。しかし、その生徒の名札に記入されたクラス名をみて、自分の一つ前の順位だったはずだと思い出した。

 アンカーの生徒を見ると、ちょうど夏生のクラスがゴールするところだった。順位は三着。たしかに一つ上がっている。

(まじか……私一人抜かしたのか……)

 よくあの距離で抜けたな……と自分でも驚く。和佳の声が聞こえてから、どこか憑きものが落ちたように気持ちよく走れてすっかりリレーであることを忘れていた。

 ……あ、そうだ和佳さん。

 立ち上がり、さっきいたはずの場所を探せば、湧きたつ生徒たちの中に彼女を見つけた。一人だけ制服なのでよく目立つ。

 頬を薔薇色に高揚とさせて、子どもみたいに目を煌めかせて夏生を見ている。夏生が頭上で手を振ると、気づいた和佳は興奮を表すように拳の作った両手を胸の前で忙しなく振ってなにか言っていた。

(ダメじゃん、日傘もなしで出てきたら……)

 そんなふうに言わなきゃいけないのに、つい夏生は笑ってしまった。吹き出すようにケラケラ笑って、和佳の姿を最後に目におさめてから退場門に向かった。

 トラックから歩いて出るとき、トクトクと自分の鼓動がよく聞こえた。まるで弾むようなその音に、夏生は首を傾げた。

 昼食は各自持参した弁当か、出張売店でのお弁当だ。夏生はもちろんいつものように弁当を二つ持って和佳のもとを訪れていた。

「依岡先生、こんにちは」

「あら小川さん、こんにちは。好きな椅子使っていいわよ」

「ありがとうございます」

 医療用テントに入っていくと、ちょうど傷の処置を終えたのか大きな絆創膏をつけた生徒が一人、すれ違いざまに出て行った。

 それ以外に患者はいないのか、テント内には書類になにか書き込む依岡と、その横で医療箱を片付ける和佳だけだった。

 お言葉に甘えてパイプ椅子の一つを借り、夏生は長机に弁当を広げた。片付けを終えた和佳が、隣り合うように座ってもじもじと手を擦り寄せて呟く。

「夏生ちゃん、さっき私の声聞こえた?」

 大きなまあるい瞳が、そおっと見上げてくる。陽の下で夏生を追いかけてきた琥珀色を思い出し、どきりと胸が音を立てる。

「聞こえてた……っていうか、和佳さんの声しか聞こえなかった」

「そう……」

 夏生の言葉をしみじみとした様子で受け取り、和佳はゆっくりと花がほころぶように笑った。

「すっごく速くて、すっごく綺麗だったよ」

「……そんな褒められるほどでもないけど……別に一番とったわけでもないし」

「でもでも、すごかったのよ? あんなに離れてたのに、夏生ちゃんがぐんぐん追い上げていってそのまま抜かしちゃって、みんな大盛り上がりだったんだから!」

 力説する和佳の奥でその通りだというように依岡が頷いているから、夏生は恥ずかしくなって「そう……」と素っ気なく相づちをうつ。

「みんな速かったけれど、やっぱり夏生ちゃんが一番綺麗だったわ。本当に、どこまでも走っていけそうなぐらい……きらきらして見えたの」

 興奮して赤くなった頬を隠すように両手を当て、和佳が「ふふ」と微笑む。陽の眩しさに目を細めるようにして笑うものだから、自分がとても綺麗なものになったような錯覚を覚えた。

(私にとっては、和佳さんのほうが綺麗だと思うけど……)

 そんな遠くから見つめるように笑わないで欲しい。こんな、手を伸ばせば届く距離にいるのに……。

 和佳の円やかな頬の曲線を指で摘まんでみる。笑みが、少し歪になった。

 長い睫毛が音を立てるようにパチパチと上下し、きょとんとした顔に夏生は気を良くして食事に戻った。

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