ベンチで和佳と別れ、木の隙間を抜けて植え込みの切れ目から通路に出れば、校舎の影で佇む涼音がいた。
ガサリと芝生を踏んだかすかな足音で彼女は顔を上げる。夏生を認めると、くっと口元をへの字にして一瞬だけ躊躇うように口を閉じた。しかし、気を取り直すようにそっと息を吐いて言うのだ。
「お昼を一緒に食べるなとは言わないわ……でも、保健室でもどこでもいいでしょう? 外に出るのはやめなさいよ」
初対面のときに比べ、随分と柔らかい声だ。呆れと、どこか夏生に対する配慮を混ぜたような声。
「……でも、片桐先輩……外の方が楽しそうなんで、す……」
とってつけたような敬語で言えば、途端に涼音の顔がしかめられてきつい眼差しが下から飛んでくる。
「楽しそうだからなんだっていうの? 一番は先輩の体でしょう? あなた、先輩が死んじゃってもいいの?」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
誰が死んで欲しいなんて思うもんか。気づかないうちに、保冷バッグを握る手に力が入る。持ち手の厚い生地が手のひらに食い込んで、鈍い痛みを発していた。
荒げてしまいそうな声を押し殺していれば、その間に涼音は聞き分けのない子どもを窘めるように言う。
「だったらそれを先輩に言ってあげて? 心配だって……そう言えば、和佳先輩も分かってくれるわ」
「心配だから中に閉じこもってろって言うんですか? 片桐先輩はそれで楽しそうにしますか?」
和佳が閉じこもることを望んでいるというのなら、夏生だって外には出さない。でも、そうじゃない。
「あなたや私が顔を出せば先輩だって退屈しないわ、きっと。心配されて嫌な人間はいないでしょう? だから、ちゃんと伝えてあげないと」
「嫌がりはしなくても、雁字搦めにはなりますよね?」
想像していなかった言葉を聞いたのか「え?」と訊き返すように涼音が驚く。
まるで分からない、未知の言葉でも聞いたみたいな間抜けな顔。
なにも分かっていない彼女の様子にふつふつと感情が煮えていく。
「心配して、だから外に出ないで安静にしてて……そう言って、片桐先輩は喜んで頷きますか? そりゃ、笑いますよね。あの人優しいもん……他人が自分のこと心配してたら、無下にはしませんよね」
実際に夏生は知っている。和佳が自分に向けられる心配を振り払うことが出来ないと。
「ちょっと、なに言ってるの? まるで、和佳先輩が心配されたくないみたいじゃない」
「心配することが悪いことだとは言いません。でも、それを理由にあの人を縛り付けたくない……好きなことをさせたいんです」
「縛り付けるって……そんなつもりじゃ! 純粋に和佳先輩のためを思って私は……!」
心外だと涼音が声を上げた。狼狽えるように肩を竦め、ゆるゆると首を振る。
「心配は、相手を大事に思ってる意思表示でしょう? 相手を思っているから言うのよ? その言葉が、どれだけ嬉しいかあなたは知らないでしょ? 私は経験してきたから知ってるの……和佳先輩だって、きっと」
「片桐先輩は……和佳さんはあなたじゃない!」
どこか噛み合わない会話の理由がやっと分かった。この人は、自分の経験談をもとに和佳のことを思って行動している。同じような境遇だったからか、自分のされて嬉しいことをそのまましているのだ。
それが正しいと思っているから、和佳のあの完璧な笑みを見て、本当に喜んでいると思っている。本当の感情を封じ込んでしまったものだとも気づかずに。
「そうやって! 心配だって、あなたのためだって閉じ込めて、どこにも行けなくして! だから先輩は、和佳さんはあんな顔で笑うんでしょ!?」
本当はしたいことがあるはずなのに、それなのに全部受け入れて――いや、諦めて――諦めることを享受して、笑ってしまうようになるまで、誰もあの人が本当はどうしたいのかなんて訊かなかったのか?
ショックを受けたように立ち尽くす涼音に、さらに言葉を浴びせてしまう。一度決壊すると、口が止まらなかった。
「あんたたちがそうやって、全部全部、あの人から取り上げてるんだ! 諦めることに慣れさせた! 望むことすら、諦めさせた!」
弁当だって、水族館だって、ショッピングだって目の前でほらと見せれば、楽しそうな顔を隠しはしない。けれど、和佳が自分からあれがしたいことがしたいと言うことは絶対になくて、でもよく見ていると、もしかして興味があるのかな? と察せられるぐらいには分かりやすい。
でも、彼女は自分では気づいていない。気づかないようにしている。だって、きっと自覚があれば、あの人は夏生なんかに気取らせるようなことはしないだろうから。
なにかをしたい、して欲しい――欲するということを、根本からやめてしまっている。それが、夏生にはどうしようもなく悲しく映っていた。
大事に大事に囲い込んで、安全だけを求めて狭い世界に住まわせて……そうやって、和佳は花になっていくんだ。花みたいだと、自分のことを思って死んでいくんだ。
「あの人を、花にしたくない……花みたいだなんて、言って欲しくない」
ぽつりと漏れた呻きは、夏生の紛れもない本心だった。
花が散る度に、和佳の死を間近に感じて恐怖する。でも、それ以上に、淋しそうに虚ろな瞳で自分のことを花のようだなんて言って欲しくない。
死ぬのが怖くないなんて、そんな悲しいことを笑って言って欲しくない。
「狭い世界に閉じ込めて、花のように散って欲しくないんです」
ツンと鼻の奥が痛んで、眼球が熱い。瞬きをくっと堪えて、涼音を見下ろした。
動揺を示すように、ひくひくと黒い蝶の羽根をした耳がしきりに揺れている。言葉が出てこない様子で、瞳が揺らいでいた。
「私は、べつに……そんなつもりじゃ……」
「涼音さんが和佳さんのことを思ってるのは知ってます。でも、和佳さんはあなたじゃないから……心配されても、それはきっとあの人の心を縛り付けることにしかならない」
蒼白とした顔があまりに病的で、可哀想に思えた夏生がフォローするつもりで言ったのに、結局現実を鼻先に突きつける結果になってしまった。
涼音は体を戦慄かせ、俯いてそのまま駆け出して行ってしまう。
そうして、息を整えた夏生は忍び足で植え込みの向こうを覗き込む。
「先輩、盗み聞きですか?」
「……さっきみたいに、名前で呼んでくれないの?」
「あれは咄嗟だったから……つい……」
膝を抱えてちょこんと身を小さくしていた和佳は、ずっと後頭部を向けていたと思えば、ふいに振り返って夏生を見上げてくる。
うっすらと目元の赤い瞳が、期待するように見上げてくるので、つい誘われるままに「和佳さん……」ともう一度呼んでみた。
すると、
「ふふ、ごめんなさいね。盗み聞きしちゃって」
へにゃりと眉間に皺を寄せながら不格好に泣き笑いするものだから、夏生の心臓まできゅうと絞られた。
開いた瞳が陽炎みたいにゆらゆら揺れて、潤みが更に強くなるとぱっと下を向かれてしまう。見下ろす先で、長く伸びた睫毛の先が、濡れたようにきらきらと光っていた。
「……制服、汚れません?」
制服のまま地面に腰を下ろす和佳の隣に、植え込みに寄りかかるようにして立った。あれやそれやと絞り出した話題がそれで、和佳のつむじを見下ろしていると、首を振られてしまう。
「そっか……」と頷きだけ返して数秒後、すんすんと小さく鼻をすする音が届く。それでも、夏生は立ったままで時々気にしたように和佳のつむじに目を落とすだけだった。
目線を合わせると、この人は泣き止んでしまう気がしたから――。
遠くで、予鈴と思しき鐘が鳴っている。一瞬、そちらに意識を取られて顔を上げると、指先を柔らかな熱で包まれ、そっと手を引かれた。
見ると、まだ俯いて肩をふるわせる和佳が、夏生の指を控えめに握っている。タイミングも相まって、まるで自分を引き留めているように思えた。そうすると、ぬるま湯のような温かさと叫び出したいような衝動が体を走る。
「優しいよね、小川さんは……私のこと嫌いなのに……」
自分の隣で寄り添うように佇む夏生に、和佳が言う。
どこからそんな言葉が出てきたのかと驚いたが、そういえば和佳に会いに来る口実として嫌がらせのような言葉を吐いたのだった。
まさか、ここまで和佳が信じてるなんて思いもしなかったけれど。
「……嫌いじゃないよ」
嫌いだったら、こんなに必死になるもんか。
夏生は、驚いた和佳が逃げないように、そうっと手を握り返して、また周囲の緑に目を巡らせる。
そうしてときおり、細く震える肩をどこか安堵したような気持ちで見守っていた。