弁当箱は学校に忘れてきたと言えば、烈火のごとく怒った母から「このおバカ!」とげんこつをもらい、今すぐ学校に連絡して取ってこいと言われたので、正直に和佳に渡してそのままだと白状する。
すると、さっきまでの怒りはどこへいったのかけろりとした顔で、「なーんだ、そうだったの?」なんて言ってくるので、釈然としない思いを抱えながらもしおらしく頷いた。
「でも、洗い物押しつけるなんて今度したらげんこつだからね」
「別に押しつけたわけじゃないけど……」
しかも、もうげんこつもらったし。
夕飯の支度に戻った母の背中を後目に、ぼそりとぼやいて部屋に戻る。楽な服に着替えてベッドに横たわる。天井を見上げていると昼間の和佳のことを思い出した。
仰向けのまま両手を上にあげて枕の辺りを探り、クラゲのぬいぐるみを抱き寄せた。胸元でぎゅっとへこむほど抱きしめて、ごろごろとしきりに寝返りを打つ。
嬉しい、嬉しい嬉しい!
油断すると、あのときの胸の疼きを思い出して叫びだしてしまいそうだった。
そうして衝動を静かにやり過ごしていると、ピコンとスマホの通知音が響いた。机に置かれた鞄の横ポケットから抜き取り、横たわったまま確認し、そこに映っていた名前にビックリしてとりこぼした。硬い板が顔の上に降ってきて、声にならない呻きをあげて、クラゲに突っ伏す。
「うっそ、なんで……」
じんじんと痛む鼻をさすりながら、涙目でスマホを手にし、表示された通知をタップすると一瞬でメッセージアプリのトーク画面が開かれた。
なにもなかったはずのトーク画面に吹き出しが一つ飛び出ていた。相手のアイコンは金魚の飴細工の写真――和佳だ。
『お弁当、ありがとう。』
ただ一言、それだけ。
遠足に行ったとき、はぐれた時ようにと念のために連絡先を交換していたのだ。しかし、結局和佳が迷子になりかけたことはあっても、見失うほどはぐれたことはなかったので、このトーク画面が二人の間で使われることはなかった。
――ピコンピコン
『お弁当箱は洗ってあるから、今度返すわね。』
『洗い物なんて、初めてやったわ。』
続けざまに二つ、吹き出しが増える。
「洗い物……先輩がしたの?」
スポンジ片手に弁当箱を洗っている姿を想像して、くつくつと笑いが零れた。
洗剤が泡立つ姿に目をきらきらさせてそうだ。ちょうどそう思ったときに『楽しかったわ。』と届いた。
だろうね。と夏生は納得する。
数分経って、ピコンともう一つメッセージが追加された。
『でも、どうして?』
問いかけに、ドキリとした。目をそらしていたものを、鼻先に突きつけられた気分だ。
この戸惑いを言葉にするのに、和佳は数分をかけたのだ。
そう思うと、答えないわけにはいかない。
答えなんて簡単だ。母が作りすぎたと言えばいい。食べきれなかったから持って行ったと――。
実際、夏生は途中までそれを入力していた。しかし、和佳が聞きたいのはこれじゃない、と漠然とそんな気がして、スマホ片手に動けなくなってしまう。
そして――。
(私って、どうしてこんなに先輩のために動いてるんだろ……)
その疑問は、ふいに湧いてきた。
弁当二つも用意して――作っているのは母だが、買い出し係は夏生である――わざわざ毎日中庭まで出て、一緒にお昼を食べて。同級生じゃなくて先輩と遠足に一緒に行ったりして……。
自分は、なにをしたいのだろう。
最初はきっと境遇に同情してた。そして、なりゆきで負けたくなくて次の日も行ってしまって……そうしているうちに、夏生は和佳を知ってしまった。どんなふうに目を輝かせ、どんなふうに笑うのか。
それで、もっとそんな顔で笑っていて欲しいと願うようになったのだ。
(そう……あの完璧な顔で笑わないで欲しかったんだ……)
全部全部受け入れ切った顔をしないで欲しかった。死ぬのが怖くない、なんてそんな悲しいことを言わないで欲しかった。
楽しいことをたくさん知れば、そんなこと言わなくなるんじゃないか、とそう思っていたんだ。
ただ一人、夏生の走りを純粋な目で見てくれた人――。
静かになったトーク画面を見下ろし、そこでやっと夏生の指が動いた。
『ねえ、片桐先輩』
『やっぱりお弁当持って行ってもいい?』
ずるいな、と自分でも思った。和佳の問いに、はっきり答えていない。しかも、昨日の今日で発言をひっくり返すなんて……。打ち込んだ瞬間に既読はついたけれど、返事がくるまでに数分かかった。
『嬉しいけれど、迷惑じゃない?』
『そんなことない。迷惑だったことなんてない』
即座にそう返す。
――ただ、最近陽差しが強くなってきたから、先輩の体が心配だっただけ。 続けざまにもう一つ送信しようとして、送る手前で立ち止まる。読み返し、これじゃあまるで和佳の体のせいにしているようじゃないかと気づき、すぐに文章ごと消した。
そうして次の言葉を考えている間に、
『ありがとう。』
『また楽しみにしてるわ。』
と返ってきてしまって、そこでやり取りは終わってしまった。
更新されなくなったトーク画面を閉じ、布団の上に放り投げる。
「送る前でよかった……」
深くは考えず、自然とその言葉を連ねようとしていた。きっと直感であの時に踏みとどまっていなければ、読み返しも気づくこともなく、そのまま言葉を重ねていただろう。
そう思うと、身震いしてしまう。
――あなたの体を思って……あなたのことが心配だから……
ドラマや小説、創作物……果てには現実で相手を案じるときの言葉として、きっと誰もが使っている。
しかし、それが本人の意志に沿わないとき、あなたのためと心配を盾に自身を縛ろうとする言葉に、雁字搦めになりはしないだろうか。
和佳のように、優しい人ならなおさらに……。
「私まで、あんな顔させるところだった……」
いや、すでにさせてしまったのだ。弁当の話をしたあの日に。そう思うと、後悔してたまらない。
いくら和佳を失うことが怖いと言っても、夏生は――夏生だけは、その恐怖に負けてはいけないのに。初めて彼女を外に連れだした自分が、言っていい言葉ではないのだ。
彼女の両親や、周りのものと同じように閉じ込めてしまってはダメなのだ。
――初めてそんなこと言われたわ。
他の人が聞いたら、普通は軽んじられていると怒るような言葉に、彼女はどこか希望を見たような目をしていた。
「ごめん、先輩……私が間違ってた……弱くてごめん」
再び弁当を持って行ったとき、また和佳は子どものような笑みを向けてくれるだろうか。それだけが、夏生は心配だった。
無事に期末試験を終え、あと一週間もせずに夏休みに入る。久しぶりの和佳との昼食に緊張して赴いたもののそこにはいつも通りの和佳がいて、夏生は心底安堵したものだ。
試験お疲れ様ということで、母が普段よりも奮発して張りきっていた弁当は、和佳の瞳を輝かせ、幸せそうに食む姿は夏生の心を癒やした。
(やっぱり、この顔がいいよね)
勝手なことをしてごめんなさい、と頭を下げる夏生を、和佳は恐縮した様子で頭を上げさせた。
「気にしてない……って言ったらちょっと嘘になるけど……でも、大丈夫よ」
「……ごめん片桐先輩。私、怖くなっちゃったんだ。片桐先輩が私のせいで早く死んじゃうんじゃないかって……花が散る度に怖くなって……それで怖じ気づいた……」
夏の温い風が二人の間を吹き抜けた。芝生がさやさや揺れて緑の波を作る。
「今でも先輩が死ぬのは怖い。でも、私……先輩が笑えてない方がもっと嫌みたい!」
和佳の瞳は、微苦笑する夏生を見ると、輪郭が潤むように震えた。日傘を差してるくせに、琥珀の瞳に光が増えて、そのきらめきが大きくなったとき、瞼の奥にしまい込まれてしまった。
「変なの……私、ずっと笑ってるでしょう?」
柔らかい風に舞いあげられた栗色の髪が、薄桃に変化してはらはらと散っていく。本当なら、それを全部集めて和佳の体に戻してしまいたいぐらいだ。
けれど、そんなことは出来ないから、目で追うだけに留めて大袈裟な反応はしない。
それが和佳にとってもきっといいことだろう。
(……先輩は、一度だって花が散ることを怖がったことはなかったね)
死ぬのが怖くない。
そんな彼女の言葉をそのまま肯定している気がして、少し心が曇る。そして、そんなことに今さら気づいた自分に、夏生はなんだか情けなくなった。