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第18話

 時計をチラリと見て、秒針があと一周でチャイムが鳴ると確認し、夏生は教師に気づかれないようにそろりと机の上を片付け始めた。

 板書はすべて終わっているし、筆記具はいらないだろう。音を立てないようにペンケースにしまいそろそろとジッパーを閉める。

 チャイムと同時、起立の号令時にはすでに教科書もノートも閉じて机の引き出しに突っ込んだ。礼をして姿勢を直した瞬間――生徒たちが自由になった刹那に机の横にかけていた保冷バッグを持って夏生は外に出た。

(今日が曇りで良かった……)

 雨が降りそうな曇天を横目に靴を履き替えた。

 湿気が多いという欠点はあるが、あの陽差しがないだけでも体感温度は変わる。あの人の肌が焼かれる心配が少ない分だけ、どこか心が楽だった。

 駆け足気味にベンチを訪れれば、思った通りまだ和佳は来ていない。

 ふう、と息をつきながら腰掛け、和佳を待つ。

 保健室がある中等部の校舎の方が近いこともあり、いつもは和佳が先に来ていることが多い。でも、今日ぐらいは夏生が待っていたかった。

(しばらく会えなくなるかも知れないし……)

 夏が終わるまで……いや、和佳の返答によっては今日が最後になるかもしれない。

 曇天の下でも映える緑の木々の隙間から、黒いスカートを翻しながら和佳が現れた。

 白いレースの日傘が少し持ち上がり、驚いたように丸まった琥珀の瞳を見て夏生は手を振った。

「どうしたの? 授業早く終わったの?」

「そんなとこ。ね、弁当食べよ?」

 急かすような夏生に、和佳は首を傾げながら傘をしまい、立てかける。いつものように弁当を広げてあっという間に夏生が平らげ、なにも言わずに和佳の傘をさした。

 半分ほど減った弁当をちょこちょこと摘まむ和佳の朗らかな顔を眺めていると、これから言おうとしていることが躊躇われた。それでも言わないといけない。他でもない和佳のために――。

「ねえ片桐先輩……」

「どうしたの?」

 いつもと違う様子の夏生に、和佳は手を止めて窺うように顔を傾げる。

「あのさ……お弁当、一回やめよっか」

 なるべく明るい声で言ったものの、それでもやはり驚きは与えてしまったらしく、「えっ」と目を瞠った後、夏生の言葉を飲み込んだのか小さく笑って眉を落とした。

「ごめんなさい……甘えすぎちゃってたわよね」

「全然迷惑とか負担とかじゃないんだけど……やっぱこの時期って外で食べるの厳しいじゃん? 来週から試験期間で午前で終わりだし、そのあとはすぐ夏休みでしょ? ちょうどいいタイミングかなって……」

 母だって、和佳から時々もらうお礼のメッセージカードや夏生が話す感想を楽しみにしているのだ。きっと残念がる。

「そうよね……こんな暑い中外で食べてるのなんて私たちぐらいよね……」

 ぐるりと和佳の目が周囲を見渡し、最後に夏生に戻ってきた。

「ごめんなさい……私の方から気にしないでって、言わなきゃいけなかったわよね」

「そ、そんなことないよ……」

 あんまり淋しそうに笑うから、すぐにでも撤回したい衝動に駆られた。

(私だってこれからも会いたい)

 でも、和佳のためを思うなら暑さが残るうちは、外に出ることは控えた方がいいだろう。

(あの人の言うとおりにするのは癪だけど……)

 それでも和佳から花が散る度に、怖いと思ってしまっている時点で、きっと夏生はいつかこの選択をしただろう。

「涼しくなったらさ、また一緒に食べよう?」

 細く白い指に、自分のものを重ねて言えば、

「そうね」

 と、笑った顔が返ってくる。夏生の嫌いな完璧な笑顔だ。

 それに思わず唇を噛みしめる。今の自分が和佳にその顔をやめろとケチをつける権利はない。原因を作ったのは自分なのだから。

(もう、終わりかな……)

 和佳が全く期待していないことはさっきの笑みでわかった。彼女は、きっとこのまま夏生との交流が終わると思っているだろう。

 それが腹立たしくて、でも文句も言えず黙り込んでいた。だって、夏生にそれを言う資格はないから。

 再び食事を開始する和佳の横で、静かに傘を傾けるだけだった。

 ……なんて言ったのに来ちゃった。

 中等部の保健室前。薄い灰色の雲の隙間からさす光が、窓からよく見えた。来週には梅雨明けだと言っていたお天気お姉さんの言葉を思い出す。

(これ、どうしよう……)

 夏生の手元には弁当箱が二つ。

 よく考えれば試験は週明けからで、今日――金曜日までは通常通り授業はあるのだ。

「え? おかず一週間ごとに作り置きしてるのよ? どうせ今日までなんだし持って行きなさいよ」

 と母に無理矢理持たされた弁当を、さすがに一人で二つ平らげるわけにもいかず、こうしてやって来てしまった。昨日宣言した手前、すごく顔を合わせずらい。

(ちょっと顔出して、お母さんが作っちゃって~だから食べて下さいね……よし、これでいこう)

 和佳の反応を見る前にさっさと退散する。いっそ弁当箱は処分してもらっても構わない。なんて、母が知ったら怒りそうなことを勝手に決めて、いざ扉に手をかけたとき――。

「和佳先輩、今日は外に行かないんですか?」

 ここ数日で随分頭に残っている少女の声が届き、ぴたりと手を止めた。そろりと数センチだけ扉を開き、覗きこむ。見たところ依岡の姿はない。仕事で今は空けているらしい。

 中には、高等部の制服に身を包んだ少女が二人――和佳と涼音だ。

「もうお弁当の時間はおしまいなの。ほら、最近暑いでしょう? 外で食べるのは大変だから……」

 微笑んだ和佳は教材を閉じて丁寧に鞄にしまっている。涼音は、そんな和佳の表情を心配そうに窺っていた。

(私が遠慮してんのに、なんであの人は保健室で一緒に弁当食べようとしてんの)

 涼音の手には、購買で買ったのかレジ袋があった。昼休みに手に持ってるものなど、昼食以外にあるわけない。

「その方がいいですよ。彼女、一年生ですよね? しかも高校からの外進生。お昼に一人で抜け出してたらクラスメイトの輪に入るの、大変でしょう? 先輩は来年には卒業なんですから、彼女は同学年の子と交流を深めておいたほうがいいです」

 急に自分の話題がでたもので、俊敏な動きで扉の前から退いた。気づかれたわけではないようで、ほっと息をついて壁に背中を預けたまま耳をすませた。

「そうよね……思えば春からずっと私と一緒にいたし、友達と仲良くなる機会を奪っちゃってたのかも知れないわね……」

「まだ一学期ですから。大丈夫ですよ」

 沈んだ様子の和佳に、涼音はフォローの言葉を吐く。

(二人揃って余計なお世話だ……)

 ずいぶんと子ども扱いされている気がする。二人が先輩だということを、今さらしみじみと実感した。涼音なんて、敵意剥き出しの目を向けていたくせに、そんなことを言うものだから、夏生はどうしたらいいのか分からなくなる。

 嫌いでいさせてくれたら楽なのに……。

「それに先輩に懐くのは見る目がありますけど、和佳先輩の体を軽んじているのはダメです。彼女に誘われたから遠足行ったんですよね? 水族館で二人のことを見かけたんです。先輩が一人で行きたいなんて言うわけない……だれかに一緒に行こうって頼まれないと行きません。あなたは優しい人だから、いつだって自分の身を顧みてはくれない」

 悔しそうに涼音が拳を握る。その言葉を聞きながら、夏生は声を噛み殺すために唇を噛んだ。

 まるで、和佳が外に出ることを望むはずがないと言い切る口調に、無性に腹が立った。先輩らしい面をみたとしおらしくしていたが、やっぱり涼音のことが気に食わない。

(確かにほとんど私が行かせたようなものだけど、あんたは知らないだろ……片桐先輩がどれだけ楽しそうに笑ってたかなんて……)

 膝を抱き寄せ、膝頭に顔をうずめた。和佳は、なんて答えるだろう……。

 頷かれたら嫌だな、と思っていると、聞こえたのは想像していたよりもずっと硬い声だった。

「涼音ちゃん」

 名前を呼んだだけなのに、部屋に冷たいものが広がるような、そんな心地にさせる――怒っているようにも聞こえる声だ。

 思わず、興味本位で中を覗いてしまう。だって、この声を出したのが和佳だなんて信じられなかった。涼音も同じなのか、目を見開いて信じられない顔で隣の和佳を見ていた。

「確かに遠足に行ったのは小川さんの言葉がきっかけ。でも、決めたのは私。あの子のせいじゃない。それに、小川さんは私の体のことをよく理解してくれているし、軽んじられたことは一度もないわ。ずっと優しく気遣ってくれてたのよ」

 最初は平坦だったが、言葉尻に近づくに連れ、柔らかく諭すような響きが加わった。いつもの温かな和佳の声だ。それにほっとしつつ、夏生の胸はドキドキと大きく鼓動していた。

 じんわりと胸に広がる温かいものに、自分は喜んでいるのだと気づく。

「ごめんなさい、和佳先輩……私、なにも知らずに勝手なことを……」

「いいのよ。でも、誤解しないで。小川さんはすごく優しい子なの」

 反省するように下を向く涼音の姿に、普段の夏生ならば胸のすく思いがしただろうが、今はそんなこと目に入らなかった。

(先輩が、私のために怒った……?)

 片桐和佳という人間は、人の意見に異を唱えることはほとんどない。相づちだって、「そうね」と同意を示すことから始めるのだ。そして、自分の意見を言うこともない。

 いつものニッコリ笑顔で全てやり過ごしてしまう。

 短い付き合いの夏生でも知っている。

 そんな和佳が、夏生の誤解を解くためにあんな声を出したというのか?

 しかも、涼音の言葉はたしかに夏生には厳しかったが、それは和佳を思ってのこと。そんな他人からの思いやりをぴしゃりと言ってのけるなんて――。

「……なんだよ、それ~……」

 うなだれるように、今度は顔を隠すために膝にうずくまる。上気した頬の熱さが自分でも分かってしまい、ただただ胸のうちから湧く歓喜を、足先をパタパタと上下してなんとか耐えた。

「あら? 小川さん?」

「依岡先生……」

 夏生は戻ってきた依岡の姿を認め、勢いよく立ち上がる。その動きに依岡が咄嗟に身を引いて目を丸めた。

 そのまま立ち去ろうとして、そこで弁当の存在を思い出した。

「せ、先生……」

「どうしたの? 和佳ちゃんに用事でしょう? 今呼ぶからね」

「いいんです! これ、もしよかったらって渡して下さい!」

 ああ、こんなに大きな声を出したら気づかれる。現に、椅子を引く音が聞こえ、誰かが立ち上がって近寄ってくるのが分かった。

 依岡が受け取ったことを確認して、反射的にそのまま廊下を走った。

「走っちゃダメよ~」とのんびりした依岡の声と同時に、ガラリと扉が開く。人影が出てきたところを一瞬だけ目で捉え、そのまま夏生は角を曲がって外に飛び出た。

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