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第14話

 同じ都内にあるからか、想像していたよりもかからずにスカイツリーに到着した。団体バス専用駐車場に停車したバスから、揃って降りて夏生はフロアマップを広げた。

 横から和佳が背伸びをしながら一緒に覗き込んでくる。

「今がここの駐車場でしょ? ……水族館は五階だけど、四階の屋外エスカレーターで上がるみたい」

「とりあえず四階まで上がって、外通路に出ればいいのね」

 よし、と簡単な道順を頭に入れて、和佳と共にエスカレーターに向かう。生徒たちは展望台に行く者が多いのか、そのまま団体用受付に列を作っていた。

 その中にはあの下田もいて、一瞬眼が合うとニッコリ笑ってひらひらと手を振ってきた。和佳が手を振り返しているのを苦い顔で見ながら、夏生たちはそのまま四階までのぼる。

 ちょうど正面にあったエントランスから外に出れば、少し湿気った空気が出迎える。青い空が広がっているものの、ぽつぽつと薄灰色の雲のかたまりが見えた。

(雨降るのかな……今日ぐらい晴れてて欲しいけど)

 一度マップを確認するために立ち止まれば、後ろを着いてきていた和佳は周囲を警戒しているのか寄り添うように距離を詰め、夏生の半袖ブラウスの裾を小さく摘まんでいる。

 そうしてマップを見る夏生の横で辺りを見渡していたが、小さく感嘆する声を上げた。

「わあ……小川さん、小川さん」

 くいくいと小さく袖を引っ張られる。見ると、人差し指を立てて上を示していた。

「なーにって、うわあ……たっか!」

 見上げるとスカイツリーが視界を突き破るようにまっすぐに空へと伸びていた。ほぼ真上をみるように首を後ろに倒し、夏生は思わず一歩下がった。

 スカイツリーはぐうっと高く伸び、一部分が膨らんでいるが、あそこが展望デッキだろうか。天辺まではこの位置じゃ見えない。

「こんなに高いんだ。やっば……」

「すごいわね、あんなに空に近い」

 二人揃って口を開けて見上げていると、通行人の老夫婦が「可愛いわねぇ」と微笑ましそうに過ぎていった。

 途端に恥ずかしくなり、肩を竦めて目配せすると同じように夏生の影に半分隠れた和佳とかち合う。

「ふふ、可愛いって言われちゃったわね」

「あれ完全に子どもに言うヤツだったよ」

 おかしくなってくすくす笑い、名残惜しげにもう一度だけ見上げてから目的の水族館に向かった。

 専用エスカレーターをのぼると、「水族館」と書かれた大きな入り口に出迎えられる。そこには入り口の誘導スタッフがいて、夏生たちを見ると

「学生さん? 当日券ですよね?」

「はい」

「じゃあこちらですね~。団体パスがあると割引になりますよ~」

 とちょうど真ん中のドアに案内された。チケットの購入列には数人並んでいて、ちらりと隣の入り口を覗く。あちらは年間パスポート用の受付らしい。

 施設内は薄暗くなっていて、左手の壁に機械が二台並んでいた。そこでチケットを買い、そのままくるりと反対――右手にある受付でスタッフにチケットを見せるようだ。

 二人の番が来て機械に向かう。駅の券売機みたいにいくつかボタンが並んでいて、そこで夏生は「学生」と書かれたチケットを選択。『割引をお持ちの方はバーコードを読み込んでください』という文が出てきたので、バスの中で配られた団体客用のスカイツリータウン一日観覧券のバーコードを読み取ると、ピロンという音とともに画面に出ていた値段が少し安くなっていた。

「ほら、先輩も」

 ずっと夏生の背後から画面を見ていた和佳に道を空ける。やることは分かっているのだろう。観覧券をぎゅっと手で持ってまじまじと画面を見ている。

 夏生はそれをハラハラした心地で見守っていた。

 おどおどした様子で和佳が券をかざす。電子音と共にさらに料金が安くなった。

「で、出来たわっ!」

 小さく悲鳴みたいに声を上げた。子どもが親の反応を見るように夏生を振り返るから、頷いて微笑む。

 最後に受け取り口から二枚の水族館チケットが出てきたので、それを和佳に一枚渡して受付で順にスタッフに見せて中に入った。

 水族館は二階層になっていて、スカイツリータウンで言うと五階と六階部分に当たる。

 まず受付後に階段を上っていくと、正面に水槽が現れる。横幅が三メートルほどの大きな水槽だ。

 白い照明に照らされ、水草とともに小さな魚たちがちょろちょろと泳いでいる。

 フロア内の壁には、説明のプレートが掲示されていた。どうやらここのフロアは、自然水景をテーマにしているらしい。

「へえ、綺麗だな……」

 館内には、平日の昼間にもかかわらず意外と人がいる。とくに多いのは小さい子ども連れの家族だ。

 陸上一筋で休みの日は常にクラブか自主練だった夏生は、こういったところとはとんと縁がない。

 ここに行くと聞いた母曰く、小学校の低学年時に遠足で地元の水族館に行ったことがあるらしいが、夏生の記憶には残っていない。

(じっとなにかを見てるのって得意じゃないけど、意外といいかも……)

 水草の青青しい緑と共に小魚たちが体全体を揺らして泳いでいる姿は、癒やされるものだ。

(それに……)

 そっと横を盗み見る。

「小川さん、ねえ見て、エビがちろちろ足を動かしてるわ……可愛い……」

 夏生たちの小指よりも小さい、半透明の体をした小さなエビ。砂をかき分けるようにして進むそれを、目線を合わせて水槽に張り付くように見ている和佳は、手招きで夏生を呼んでいる。その時の瞳は小さなエビに注がれたままだ。

「なになに?」と、同じ目線でエビを見るふりをして、夏生は和佳の横顔をちらりと見た。

 白い照明の眩しい光のせいか、それとも反射した水のせいか、彼女の琥珀色の瞳はいつも以上にきらきらと輝いている。

(よかった。誘って……)

 バスの中も、ついてからの移動中もずっと夏生に触れていて、怖がって緊張しているように見えていたから、楽しんでくれているようで安心する。

 和佳が満足するまで、最初の水槽を一緒になって眺めていた。次の部屋はクラゲらしい。入り口部分にプレートが掲示されていて、その奥は随分と暗い。和佳が、身を小さくして少し夏生にすり寄った。

 足元も見えないぐらいの暗さの中に、ぼんやりと青い光でライトアップされた水槽に、クラゲが漂っている。

 細い触手を長く伸ばすアカクラゲ。その隣には、茶褐色の傘の縁から赤い触手を伸ばし、フリル状の白い口腕を揺らすパシフィックシーネットル。

 その奥には、小さな水槽でこれまた小さなクラゲが展示されていた。

 そして、クラゲエリアの最後には、メジャーなミズクラゲの水槽がある。底が浅い半円状の水槽が受けのように部屋の中央にあり、その周囲を囲うように通路が二つに分かれている。夏生たちは階段をのぼるほうを選び、上段からミズクラゲの大群を見ていた。

「わっ、足元にもクラゲが……」

 暗いせいか、ずっと夏生の片腕を掴んでいる和佳が、驚いて声を上げた。通路の一部はガラス張りになっていて、ガラス一枚通した足元をクラゲが漂っていく。

「大丈夫、怖くないよ」

「でも、なんだか可哀想だわ……」

 和佳はガラス越しとはいえ、クラゲを踏むことは躊躇われるらしい。ガラスに入らないギリギリのところを歩いている。

 夏生は特に気にせず手すりに寄りかかるようにして、水面を見下ろした。

 暗い部屋の中、赤や緑、青へとゆっくりと変化していく照明に照らされる中を、真っ白な傘の中央に花のような模様があるミズクラゲが、ぷかぷかと漂っていく。

 ゆったりと生きているそれらを、二人はうっとりと眺めてから次に進んだ。

 明るさが戻ったフロアには、休憩のためか広くスペースが確保してあり、背もたれのないソファ席が二組ずつ並んでいた。

 その奥には、細長い水槽が平行にいくつか並んでいて、次はあそこかな、と進もうとしたとき、ふいに夏生の横ににゅっとなにかが生えて出た。

「わっ、ビックリした! ウツボじゃん」

 すぐ隣――腰の辺りまでの小さな枠から、パカッと口をあけたウツボがニョキッと岩陰から伸びていた。

 つるつるした肌に見開かれた目。パクパクと動く口には鋭い歯がずらっと並んでいる。

 どうやら、下の階にある大水槽の岩陰の一部を二階からも見えるようにしたものらしい。通り過ぎると、そこは吹き抜けになっていて一階下のフロアから二階の天井まで届く大きな水槽の全貌が見えた。

 下の階には大水槽の前に椅子が並んでいて、そこに保護者とみられる大人が座り、水槽に張り付いている子どもたちを見守っている。

 夏生と和佳は、上階から手すりに寄りかかり、悠々と泳ぐ魚たちを見つめた。

「なんか、これぞ水族館って感じする」

 水族館と聞いて想像していたのは、こういう色んな種類の魚が大きな水槽を泳いでいる姿だった。

 手のひらサイズの魚の群れから、和佳ぐらい大きなサメが一匹で闊歩する姿まで。色んな魚が一つの水槽で生きている。

「見て、エイもサメも大きいわね……他の子を食べちゃわないのかしら……」

「まあ餌もらってるだろうし、食べないから一緒に入れてるんじゃない?」

「そうよね」

 安心したように微笑するから、やっぱり先輩は優しいんだな、と夏生は思うのだ。

 だって夏生はこうやって見ていても、綺麗だな、迫力があるなと思ってぼんやり見ているだけで、中の魚を心配したりはしないから。

 クラゲだって、ガラス越しなんだから心配なんてするわけがない。

 こういう和佳の無垢で真綿で包んだような優しさを見ると、夏生の心にぽっと火種が灯る。自分まで、優しくなれたような心地よい気持ちになるのだ。

「あ、下の席空いたみたい。行ってみる? ゆっくり見れるよ」

 頷いた和佳の手を引いて下におり、夏生たちは大水槽前の椅子に腰掛けた。

 正面から見ると本当に大きい。思わずほおっとため息が出た。

「綺麗だね」

「本当にそうね……」

 ぽつぽつと二人の間をとりとめのない言葉が落ちて、そのうち沈黙が走る。それでも、お互いにこの美しい水の世界を生きる生物たちに魅了されていると分かっているから、居心地の悪さはなく、むしろリラックスした心地よさを感じる。

 どのくらい黙っていただろうか。

 ふいに、和佳がぽつりと呟く。

「昔見た、詩を思い出すわ」

「詩? ……どんなの?」

「ジョアナっていう海外の人が書いた本の中にあった一節なの……」

 そうして、和佳は詠うように呟いた。

「魚は魚にしかなれず、花は花に、鳥は鳥にしかなれない」

 ジョアナはね、魚の副種族を持ってて、人と同じ見かけをしながらも水中でしか息が出来ず、部屋の中の小さな水槽で一生を過ごしたの――和佳は、水槽に目をやりながら穏やかに言った。

「ずっとね、自分の副種族を呪ってたんですって。自分は人なのか魚なのか。きっとジョアナは自分のことを魚だと思っていたのね……だから、こんな詩を残した……」

 不自由な魚……狭い水槽の中でしか生きられない。

 感情の読めない声で、和佳はそうつけ加えた。

 それは本に書いてあった言葉なのか、それとも和佳の想像なのかは分からなかった。

「私は花ね。小さい世界しか……家と学校と病院しか知らない……」

 夏生の脳裏に、ぽつんと道ばたに咲く一輪の花が浮かび上がった。風に揺られるぐらいで、それ以外は変化もなくやがて枯れていく花。

 咲いた場所から見える景色しか知らずに一生を終えた花が、ありありと想像出来た。そして、それは和佳に重なる。

「……でも、今はこうしてここにいるじゃん」

 鼓動が嫌な音を立てて速くなる。焦燥をかき立てられ、夏生は唸るように言った。

「うん。見に来られて良かったわ」

 ニッコリと笑った和佳の顔は、夏生が嫌いな綺麗すぎる顔だった。作られたような完璧な表情。

(そんな最後みたいに言わないでよ……)

 死ぬときも、そうやって綺麗に笑って死ぬのかな、と漠然と思った。そして、その想像は正しい気がした。

 何回だって来たらいいじゃん。そう言いたいのに、夏生の喉は渇いて張り付き、言えなかった。

 そろりと和佳の背後に目を移す。髪の先からはらりと一枚花びらが落ちた。

(やっぱり普段よりも花びらの数が多い気がする……)

 外にいたときは気にならなかった。外気に晒されているとどうしても花は落ちる。でも、バスの中や屋内で普段よりも花びらが多いと気づいたとき、夏生を襲ったのは恐怖だ。

 自分のせいで、和佳を死へ近づけさせている。その自覚が、どうしようもなく夏生を臆病にさせ、口を重くもさせた。

(普通に生活してるだけで花が散るから外に出たって誤差……? 馬鹿じゃないの……)

 人混みになれていないから疲弊しているのか。それともこの状況が和佳のストレスになっているのか。なんにせよ、彼女の体が――命が、いつもよりも速いスピードで欠けている。

 怖くなって、夏生は和佳の手に自分のものを重ねた。触れていないと不安だった。

 薄暗く青いぼんやりしたライトに照らされた和佳は、目を離すと消えてしまいそうに見えていた。

「どうしたの? 小川さん」

「ううん……ねえ、先輩」

「ん?」

「先輩は副種族のことを恨んでる?」

 からからに干からびた喉から、それだけがなんとか絞り出せた。ばちっと音がするぐらいしっかり視線がかち合う。

 ごくりと唾を飲みこんだ。夏生の心臓がばくばく音を立てている。今すぐ、冗談だったと撤回したい。それをなんとか押し込めた。

「恨んでないよ。生まれたときからこうだったし、私からするとこれもひっくるめて私だもの」

「……そっか」

 強ばっていた体から力が抜けていくのを感じる。これは安堵なのか、脱力なのか。

(私は、どっちを言って欲しかったんだろう……)

 分からなくて混乱する。

「小川さんは、副種族が嫌いなんだっけ?」

「え? い、いや……まあ……」

 そういえば、最初にそんなことを言ったっけ。

(我ながら、ひどいことを言ったもんだな……)

 まさか自分に話が向いてくるとは思っていなかった。小首を傾げる和佳の目から逃げるように水槽を向く。

「無種族だから、嫌いなの?」

 本当に? とまるで疑ってる様子だ。

「そうだよ。無種族の走りなんて誰も見ないし、どんなに頑張っても勝てないもん……きっと副種族持ってたら、今も陸上してただろうけど……」

「見て欲しかったの? それとも勝ちたかった?」

「え?」

「誰かに見て欲しくて……誰かに勝ちたくて走ってたの?」

 心底不可解そうにしている和佳に、困ったのは夏生だ。

「だって、勝ちたいからやるんでしょ? 競技ってそういうもんじゃん。勝てなきゃ意味がない」

「……勝てないから小川さんはやめちゃったの?」

「そうだって。それ以外になにがあるのさ……」

 少しずつ自分の口調が荒れていく。子どもみたいな和佳の質問攻めが、ちくちくと針を刺すように心に痛みを与える。

「勝ちたいだけで、あんなに綺麗に走れるの?」

 純粋な疑問。きらきらした無垢な瞳が驚いたように丸まっている。

 その問いは、心臓を鷲掴みにされたような切迫感を覚えさせた。頭の中に、想起するように母を呼ぶ子どもの笑い声がぼんやりと広がり、なにかの蓋が開くような感覚がした。

「おかあさーん!」

 すぐ背後で子どもの泣き声が上がり、夏生は夢うつつな状態から覚醒した。ハッとして二人揃って振り返ると、子どもがよたよたと泣きながら歩いている。

 声をかけようとしたが、すぐに女性が駆け寄ってきて子どもを抱き上げてあやし始めた。

「勝手に行っちゃダメって言ったでしょう?」

 母親の腕の中で泣いていた子どもは、フロア中央の大きな水槽でペンギンが素早く泳ぐ様子を見て途端に「きゃー!」と歓声を上げた。

「現金なやつ……」

「ふふ、子どもはころころ表情が変わるのね」

「ね。さっきまで泣いてたのに、もう笑ってる」

 さっきの母子は、どうやら先で妹と父親が待っていたらしい。合流して今度は四人で先に進んでいった。

「私たちも次に行きましょうか」

「そうだね。あ、奥には金魚がいるって」

 立ち上がって、並んで歩く。

 さっき訊いたことも訊かれたことも、お互いになかったみたいに自然と寄り添う。そうしてペンギンやオットセイの泳ぐ早さに驚く和佳を微笑ましく見守り、金魚の優雅な泳ぎにほおっと陶然とした息をついた。

 目の前の非日常的な穏やかで美しい水の世界に見入りながらも、どこか心の隅に引っかかるものがあった。

(さっき、なにを思い出しかけていたんだろう……)

 でも、いくら考えても分からなくて館内を全て見終わる頃にはそんな違和感のことも忘れてしまった。

 出口の先はショップに繋がっていて、館内にいた動物たちを模したグッズがたくさん並んでいた。

 とくに多いのがぬいぐるみで、サメやメンダコ、チンアナゴ。ウミウシ、クラゲ、ペンギンと色んな種類のぬいぐるみがショップ内を色鮮やかに、そして可愛らしい雰囲気にしていた。とくにメンダコの橙はよく目立つ。

 グッズになっている動物や魚の姿は基本的に可愛らしくデフォルメされていて、レジ前に置かれていた特大のクラゲぬいぐるみ――抱きついても腕を回しきれないほどのサイズ――を買おうとする和佳を、夏生はそっと宥めて小さいサイズにするよう誘導した。

 素直に頷いた和佳はちょうど腕に収まるサイズのぬいぐるみを手に取り、嬉しそうに抱きしめてレジへと向かった。しかし、初めての買い物に緊張して恥ずかしそうに夏生を手招きして呼び寄せたのだ。

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